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Posts Tagged ‘斬首’


『私は橋本左内を語りつがなければならない。』


   


     4月 25th, 2019  Posted 12:34 AM

安政5年(1858年)5月27日の書状釈文です。
福井藩に招かれた横井小楠の活動ぶりから、
米価高騰・対外交渉・江戸情勢を伝え、
小楠に明道館の監督権を与えることが記されています。
それを榊原幸八と伊藤友四郎に宛てた
橋本左内の数少ない手紙です。
この書状は昭和5年に福井県が、
徳富蘇峰=日本で最初のジャーナリストが
奥付から買い取ったとなっています。
私は、この橋本左内の書状を見たことがあったので、
講演会の資料として必要となり、
福井県に問い合わせたところ、
まずは調べもせずに「知らない」との返答でした。
そこで、阪大での講演会で使うと言って、申し入れをしたところ
ようやく調べてくれました。
講演会で橋本左内のことを語れるのですから、真剣勝負です。
資料準備のおかげもあり、橋本左内のことなら、
私に任せてとばかりに講演会で語ることができました。
福井県には「五箇条のご誓文」由利公正の原稿もあります。
松平春嶽が、熊本藩の横井小楠を
政治顧問として福井に招いた話なんかも
講演がきっかけとなり熊本大学に頼まれました。
ようやく坂本龍馬をヒーロー像として書く教科書は消えました。
橋本左内は書状が少なく、若くで安政の大獄で斬首されました。
福井では啓発録も学び、橋本左内は地元のヒーローで、
私の最も敬愛する偉人ですからもっと語り継ぎたいのです。
そして、大阪大学はその左内が、学籍番号182番だった
「適塾」からのコンテクストを引きずっています。
これは私が語り継がなければと感じています。

大阪大学・講演会


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『小説の「龍馬ブーム」は、歴史の中で肥大化している』


   


     3月 11th, 2019  Posted 12:00 AM

小説での「坂本龍馬」と坂本龍馬ブームに対して
明治維新史学会が論理的に史実としての「坂本龍馬」を検証し、
やっと教科書からも省くこととなりました。
坂本龍馬ブームは、彼の姉への手紙があったことから小説化され
それが一般化されました。
一方、橋本左内は400の漢詩を読んでいます。
安政の大獄で捕らえられ、そのうちの300が牢獄でつくられ
26歳で斬首の刑、(武士なのに)、に処せられました。
小説化や大河ドラマ化も難しくブームにはならなかったのです。
ただ『啓発録』は福井の小学中学のバイブルと言えます。
私は、「龍馬は新婚旅行しかやってない」と講演でズーッと言ってました。
武士を斬首するほどに、
橋本左内は当時の江戸幕府の政敵だったということです。
「なぜ、龍馬が暗殺されたのかは今も謎です」。
龍馬は何度か、松平春嶽 福井藩にお金を借りに来ています。
松平春嶽に見い出された人物こそ、橋本左内と由利公正。
福井藩(90万石)の藩札は由利公正(福井藩のちに東京府知事)が、
明治維新の時にはこれを使ったけれど、大失敗で終わっています。
歴史は、常にその時々、政権によってつくられます。
私は、龍馬の肥大したブームに対して、
笑われながらも正直な意見を言ってきました。
やっと、龍馬は明治維新の偉人ではないことが、
学会で認定されました。


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『坂本龍馬は幕末のヒーローだと私は絶対に思わない』


   


     1月 17th, 2019  Posted 12:00 AM

坂本龍馬には、ミステリーが多く、刀や拳銃を介して
寺田屋事件と近江屋事件とその解読が諸説渦巻いています。
彼は近江屋事件で暗殺されました。
その暗殺者は京都見廻組と
その会津藩である松平容保(かたもり)なのでしょうか。
幕末では坂本龍馬がヒーローになっていますが、
それは彼からの手紙が多く現存してあるからにすぎませんし、
小説によるフィクションの虚像と
その残像が評価を押し上げていると思います。
私にとってのヒーローは、越前藩士の橋本左内で、
西郷隆盛も左内からの手紙肌身離さず持ち続けていました。
安政の大獄で、26歳で斬首の刑に処せられなければ、
必ずや時代を背負う侍でした。
福井では左内の啓発録に学び、志を持つ教育が根づいています。
ヒーローであるはずの坂本龍馬は、
剣術も北辰一刀流もたいしたことないけれど小説では名人なのです。
ミステリーに登場する刀や拳銃には大いに興味があり、
寺田屋事件では、ピストールはS&Wアミー2・32口径6連発とされています。
そして、近江屋事件では、S&W モデル11の2・ファーストイシュー7連発を
携行していましたが発砲することなく、惨殺されていました。
私には、妄想ですが坂本龍馬を暗殺したのは、誰か、わかっています。
小説はその虚像とストーリーをフィクションとして楽しみ、
史料と考証に基づいた実像も合わせてその歴史を知っておくべきです。
坂本龍馬は、絶対に、幕末のヒーローではありません。


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『家紋:三つ葉葵なれどの思想対決は倒幕か佐幕か』


   


     1月 2nd, 2018  Posted 12:00 AM

歳末に適塾記念会から「適塾」という第50号が届きました。
適塾は自宅の近くに保存財として戦火もまぐれて残っています。
耐震補強も一年がかりで修繕もすませている建物です。
私が最も敬愛している偉人の代表は、橋本左内です。
最近は橋本左内は忘れられていますが、
維新を成し遂げた志士ですが26歳、
安政の大獄で斬首の刑を受けています。
私は決して坂本龍馬が維新のヒーローだとは思っていません。
むしろ、昨年、歴史の教科書から抹消されるというのは正解だと思います。
単純に小説でのイメージが維新を成し遂げたとされているだけです。
それよりも橋本左内が書き残した漢詩が約460首もあったという論文でした。
今年はその460首すべてを調べあげたいと思ってしまいました。
そうして、橋本左内がふるさと福井藩であり、
親藩でありながらなぜ倒幕側であったのだろうかと、
江戸幕府=徳川家の家紋に行き当たりました。
この家紋は水戸黄門ドラマでは決めてになる「三つ葉葵」なのです。
そしてこの親藩すべてがこの家紋ながら、
日本文化に根付いてきている家紋は相当にあります。
当然ながら、この家紋の変遷はデザインでの C.I.マークとの
私は深い関係を見直しました。
この同じ家紋は、血統であり、思想も一致していたにも関わらず、
「なぜ」?が、今年最初の疑問になったわけです。
おそらく、橋本左内の漢詩と本来は二葉葵から創作であったこの葵の御紋、
これを追いかけることになるかもしれません。


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『渡邉洪基というふるさと福井の大偉人』


   


     6月 26th, 2017  Posted 12:00 AM

私は福井県福井市出身です。
したがって子ども:小学校の生徒時代から
安政の大獄で斬首された橋本左内を最もふるさとの偉人として、
私生涯の尊敬偉人だと決めてきました。
福井県からの偉人伝をライフワークにもしてきました。
それで、福井県・福井藩・小浜藩・鯖江藩を自慢にすらしてきたのです。
大阪大学にて特に適塾からの系譜も明治維新にて、
藤野恒三郎先生がおられ阪大の名誉教授であり、
適塾での物品収集も彼だったと福井の親友にも伝えてきました。
それこそ福井時代には日下部太郎が客死のことも
当時の青年会議所とともに、まとめた経験もあります。
日下部太郎は国費留学生最初の人物です。
おそらく、明治大学の創立者:矢代操もいました。
ところが最近、大学同期から「工手学校」の存在を知りました。
そしてその開校には、渡邉洪基の存在を知り仰天しました。
東京府知事は由利公正だけと思っていたら、渡邉洪基も府知事でした。
それどころか東京帝国大学の初代総長まで努めたようです。
早速、福井の親友にも伝えたら彼も存在を知らないとのことでした。
当時より、文部省は学校新設には巨大な権力があったようです。
私も公立大学は総務省管轄であり、国立大学は文科省管轄、
この厳しさは、正直目に余るほどの体験もしてきました。
教授認定においても教員教授と学者教授があります。
やがて2018年の大学問題には新たな制度も出てくるでしょう。
ところが渡邉洪基はそれなら私立学校制度を推し進めた中心人物でした。
また工手学校こそ、現代のエンジニア養成の私立学校であったことや、
その創立概念には現代が失っている壮大な思想を知りました。
1800年代はその月毎の大事件、つまり日本国家が明治維新が、
小説で歪曲していることを明確にして私なりに発信してきました。
そういう意味では、ふるさと福井には渡邉洪基という偉人の存在を
改めてしっかりと伝説にしなければなりません。

* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
* 『行学はデザインにあり・「KK適塾」を開始します』
* 『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」


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『イントロ画面を新作して「KK適塾」にした理由』


   


     12月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

私は「コンシリエンスデザイン」を次世代デザイナーへ、
いや、低迷するわが国のデザイン職能を語り直す手法にしてきました。
そして「KK塾」から「KK適塾」に変更しました。
最大の理由は、二つあります。
一つは大阪大学は懐徳堂から適塾となった経緯を伝えること。
そして「後世、適塾名を成すとなれば橋本左内をもってなす」でした。
橋本左内は幕政批判ゆえに「安政の大獄」にて斬首の刑。
彼が現代をも見通してきたことこそ、私は語り継ぎたいのです。
なぜならわが福井は越前藩から幕政を批判し新政府案出の一人でした」。
明治維新を引き込んだ最重要人物だからです。
坂本龍馬でも、福澤諭吉でも、勝海舟でもありません。
西郷隆盛は橋本左内の手紙を肌身離さずだった言われています。
ロシア・中国・アメリカとの対峙あるべきことの意欲を伝えていたのです。
前置きが長くなりましたが、
「KK適塾」あるいは「講義・講演」でのイントロ、
その動画を新作にしたのです。
2004年に大阪大学フロンティア研究機構に特任教授として、
名古屋市立大学との兼務になった時のロボット、
「舞」と「踊」を実現出来る時期になったようです。
そして、もう一つは光造形での「トポロジー」を様々に、
3D-CADでEWSの進化とともにCG動画にしたのを準備。
今年度最終の「KK適塾」で見せることができました。
この動画は来春3回目に、
どうすれば見られるかという新提案をするつもりです。

* 「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
* 「ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ」
* 「基本はトポロジーの形態が出来るかだった」
* 「二回捻ったトーラス(ドーナツ)同様にすれば」
* 『日本で最初のCAD解説本が示していたこと』


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『行学はデザインにあり・「KK適塾」を開始します』


   


     10月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

適塾・学籍番号182は橋本左内でした。
自分が最も敬愛してやまない郷土の偉人であるばかりか、
明治維新に斬首の刑を受けて国のために命をささげた26歳、
死をもって日本の今後、その行学の士です。
かつて大阪大学で緒方洪庵没後150年適塾175年のイベントで、
橋本左内を自分が語るとなったときには怪文書が回ったらしいです。
川崎に話をさせるなとか、自分をもって彼を語れる者は無しです。
小説ではあたかも明治維新は血の革命と言われていないことや
NHKの大河ドラマで歴史は歪められ、ヒーロー像は間違いだらけ。
安政の大獄で国家に命を捧げた人たちは忘れられています。
何が怪文書だ、今や執念は「KK適塾」をようやく開催にこぎ着けました。
随分と待っていただいたことと思いますが、所詮大学という組織でのこと、
「KK適塾」として自分は橋本左内をコンシリエンスデザインの基盤として
今や腐敗しつつあるこの国家、
日本への最も知性ある「最先端の学府発信」を
デザインにこめて日本を代表するデザイナーや建築家や未来学者と
開催していく所存でいます。
安政の大獄を怖れた人物が後世になって語られ、小説があたかも維新とは、
自分の心は安政の大獄、安政の大飢饉、ゆえに安政の大地震でした。
国家が乱世になるとき、わが国は国家存亡に見舞われます。
この事態をなんとしても、自分がたどり着いているのは、
「危機解決産業創成デザイン重要拠点」として、
未だにこの闘いを「KK適塾」に向けてようやく開始することができます。

* 「『医の知の未来』適塾175年・緒方洪庵没後150年=大阪大学」
* 「大飢饉・大地震・あの忌まわしき安政の大獄、すべての記述」
* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
* 『1800年代安政の頃・「適塾」を最も語り継ぎたい』
* 『鉱物学と自然科学が選んできたコンシリエンス』


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『「KK適塾」を開講します!』


   


     10月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

大阪大学の起源は懐徳堂という寺子屋からです。
その懐徳堂が、緒方洪庵による「適塾」になり、
医学校から始まるとともに、設立経費はすべて民間からの出資でした。
官僚の育成=東大、学者の育成=京大、産業の育成=阪大、
この歴史は今も大学の根底に流れています。
「適塾」となると、学籍番号182の橋本左内がいました。
一般的には蘭語の学校と言われていますが、
実際にはすでに英語だったとのことです。
しかし、英語は江戸幕府の禁書ゆえ、これを学ぶには江戸幕府への
ましてや幕府政治への反幕府行動は制限されていました。
しかし「安政の大獄」によって橋本左内は26歳でそれも斬首の刑です。
自分は井伊直弼(近江彦根藩)・間部詮勝(鯖江藩)を許せません。
2013年の「KK塾」を大阪で開講し、東京での開催の声が大きく、
昨年は東京で開催してきました。講師はすべて超一流でした。
ようやく医学系研究科「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」、
これも寄附講座ですから全て民間からの出資で成り立っていますが、
自分は何としても「適塾」からの系譜大切にと考えています。
その講座理念をコンシリエンスデザインと看医工学の
情報発信講座を狙って、ようやく、開催にこぎ着けました。
今年度は「デザイン」を中心にと考えています。
この講座の情報発信こそ最先端にする所存です。
自分の大事なデザイン活動の一つと位置づけています。

* 『1800年代安政の頃・「適塾」を最も語り継ぎたい』
* 「『医の知の未来』適塾175年・緒方洪庵没後150年=大阪大学」
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」
* 『球体に働いている力は統合的な知識になる』


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『球体に働いている力は統合的な知識になる』


   


     12月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

わが最も敬愛する橋本左内は16歳で「啓発録」を書きました。
それは16歳において、人はすでに一人前であったことを宣言したのです。
しかし、時代は、政権は、彼を26歳で斬首の刑に処しました。
今や人は、知識獲得を16歳ごろから問い詰められます。
端的には、あなたは「文系か、理系か」と。
まだしも「学術系か、芸術系か」の方が、ましかもしれません。
幸運にも私は学術よりも芸術を選びました。
学術が嫌いだったわけでもなく、芸術のそれこそ当時ははずれという
デザインという領域に私の知識欲は吸い込まれていきました。
その最大のおかげが、学術も芸術も、ましてや、
文系も理系も乗り越えるほどの膨大な知識体系に居る自分に出会いました。
少なからず、芸術系だと自称しても「美しく無い物事」には
激しく嫌悪感を覚えました。
それは思想上の問題に、経済上の問題に、生命の問題に、
見事に的中する中で、「デザインありき」に至ったのです。
真善美を語るとするなら、とても私の知識の中では、
たった一つを選ばざるをえませんでした。
それは美であり「美しい」ことを具体的にしている「美しいモノ」でした。
40余年、私は工業デザインを主に、糧と成し、
デザイン全般への表現意欲を決して失わないことと、
誰よりも自分が表現するデザイン・設計・計画に最も自分の正当性を、
それこそ、容姿端麗であること、端正的な生き方を貫くことでした。
時に、思想が真っ向から反対であるなら、
命がけでこれを最大に攻撃することで、人からはその存在を怖れられ、
私を排撃しようとする輩には、
徹頭徹尾、彼らの存在をも抹消したいと念じています。
そこには自分の野性と野生を常に息づかせておかなければいけません。
ロランバルトの生誕100年、
彼のディスクールはその本の装丁すらスカーフになるのです。
そのことの美しさを知ることができたのも、芸術の範疇でのデザイン、
デザイナーという職能にあるからかも知れません。
プラトンは、「もし迷ったなら、美しい方を選べ」と。
私にとっては文系も理系も、まして学術も無いのです。
デザインが芸術から派生していたとしても、
デザインによる統合=文系+理系・学術+芸術は
すべてが要因要素なのです。
したがって、統合的なデザインを私は
「コンシリエンスデザイン」と呼びます。
学術+芸術、文系+理系の中心に球体を置いて、
私はこの球体に働く力の概念を確認しています。
それは次世代デザイン、次世代デザイナーへの遺言なのです。


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『新ブランドのイニシャル商品「大袱紗」の歴史に思う』


   


     8月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

絹織物の歴史は奈良時代から養蚕=繭から生糸の智恵が進化します。
明治期には生糸の輸出では、限界がきますが、
由利公正は、橋本左内と横井小楠から学んだ殖産製造制度から、
欧州視察で絹織物の実際を見聞して、織物職人3名を派遣します。
彼らは、富岡製糸場を指導し、西陣織りを再興して、
その技術に、経糸を二本に緯糸一本で「羽二重」という光絹技術が
やがて人絹となって、現代のポリエステル産業につながっていきます。
明治期が始まる大きな要素は、適塾・ペリー来航・安政の大獄、
ここから、咸臨丸の渡航1860から、1870年代にようやく、
わが国の文明開化の中軸は織物産業が輸出経済となったことです。
私は1800年代の歴史は徹底的に暗記するほど、
この頃の産業全体を関係づけてきたと思っています。が、
いつも、幕藩体制の維新が決して無血革命ではなく、
安政年間のあまりにも悲惨なこと、安政の大獄と安政の大地震が
現代への歴史起点だったと何度も確認しています。
小説では坂本龍馬や福澤諭吉に焦点があてられていて、それこそが、
あたかも歴史の体裁になっていますがこの大誤解に対抗しています。
わが最大の敬愛者・橋本左内は26歳で斬首され、龍馬も暗殺、
横井小楠も大誤解のなかで暗殺されてしまうのです。
生きのびたことが歴史に燦然と輝いてしまいます。
由利公正(藩士・三岡三郎)は五箇条のご誓文=船中八策原本と
銀座がレンガづくりの都市計画になりますが、
やはり、私には、日本が明治期を迎えて、文明開化の華やかさには、
一方で、大獄と大飢饉があり、斬首と暗殺の歴史哀情に悲嘆します。
特に橋本左内は16歳で「啓発録」を書き26歳までのたった10年間に、
凝縮された思想と行動に限り無い敬意を抱いています。
新ブランドの最初「O-FUKUSA」は彼へのオマージュです。

「蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める」
「『SILK』Projectが示唆している重大さ」
「芸術という技法が引用したことから」
「憧憬の人物、その実筆書状を探す」
「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」


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