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Posts Tagged ‘放射線’


『ガンマカメラにより放射能は視覚化可能』


   


     5月 23rd, 2017  Posted 12:00 AM

3.11直後から開発をし、
私自身がこのカメラの点在化、そのデザイン提案をしました。
最も現在、東芝自体の経営問題は何ら解決の目処がありません。
175年の歴史と7万人の従業員への大迷惑・大混乱はありますが、
東芝の技術分散はなんとか阻止してもらいたい、
これが東芝OBとしての率直な気持ちです。
いわゆるガンマナイフという医療機器やガンマカメラは、
放射線の有効利用だと今も追いかけています。
このカメラの存在では、自動車など移動体で放射能の視覚化、
あるいは定点監視ということでモデル制作とシュミレーションも提示。
先般、飯舘村で新素材の実験に入って
新素材の改良点とその車両運用などを今懸命に考え出しています。
この特殊車両にはこのガンマカメラは必須だと考えています。
そして「セルロース戦略」は再度フレコンバッグそのモノも再除染をして、
それをすべて自然環境から消滅させるプランに至っています。
除染での目安はセシウムですが、これだけが放射能の問題ではありません。
私は放射能技術では、プルトニウムを使用することは全く認めていません。
が、放射能、現在の原発賛同者に見られていますが、それは大間違いです。
「範原発」はプルトニウム廃止であることを強調しておきます。
Pu239もPu240は自然界には無かったから、Puは絶対に無くすべきです。
それこそ、現在の電子回路にしても半導体を使っているのではなくて、
真空管を使うべきであり、放射能技術者は養成すべきと考えています。
ともかく放射能がすでに「視覚化」されている技術があることを伝えます。

* 『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!』
* 『ソーラーパネルは制度で大誤解をあたえその真実が歪んでる』
* 『除染されていない間伐材へのデザイン開発』
* 『もう一度美しい国を再興するレジリエンスデザインを』
* 『私は、東芝が大好きだ』


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「ロケットとミサイルはグッドデザインの問題」


   


     4月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

ロケットもミサイルも形態はほとんど同じです。
どう見ても「カッコいい」存在です。
しかし、北朝鮮の「ミサイル」は見事に失敗してくれました。
大迷惑な国家が存在しています。
なんとしても同胞の拉致問題が先送りされ続けています。
これも現代日本が抱えている最大問題です。
さて、ミサイルとロケットの違いは、
一言で言えば、推進力ある存在がロケット(エンジン)であり、
衛星や爆弾を飛翔誘導させる存在がミサイルです。
だから、ミサイルがロケットを積んでいることもあれば、
単に誘導させるだけならロケットではないということでしょうか。
1970年代に、ミサイルはその「かたち」からして、
美しくて機能性があるから「グッドデザイン」という概念を満たしている。
となれば、武器であるモノはすべからくグッドデザインであり、
デザインの本質との照合性が武器には最適合することになります。
グッドデザインは兵器デザインに適合してしまうという議論です。
当時から、この議論は棚上げされてきた大問題だったと思っています。
私が一応デザイン学者という立場を
最重要視すればこの問題に対峙しますが、
学者と言うより実務家デザイナーなので、
この問題は放り出してあることを正直に告白しておきます。
ロケットは、
自身の質量を失いながら推進力というエネルギーを使う存在ですが、
ミサイルは、誘導するモノがデザイン対象に照らし合えば、
もし爆弾という武器、衛星という兵器ならば、
決してグッドデザインではありません。
しかし、もし、誘導飛翔させるモノが文化性あれば、
その搭載しているミサイルは
グッドデザインとして評価できるということになります。
この関係は、原子力と放射能の関係に重畳しています。
原子力が原爆になること=兵器・武器であり、
放射能、つまり放射線が
人体の健康保健になっていれば善としての存在です。
民衆を飢えさせる独裁国家のミサイルは、
たとえ掲載されているモノ=誘導飛翔させられる
文化的衛星であっても、
それはグッドデザインであるはずがありません。
それにもまして、
誘導飛翔する機能性が不完全な設計であったわけですから、
元来、グッドデザインになる要因=factorは無かったということです。
ミサイルも原子力も、「矛盾」という大問題を人類に投げかけています。
私たちは、ミサイルや原子力を創り出してしまった以上、
この最適解をグッドデザイン評価に求めることも
一つの解決方法だと私は思っています。

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「陰翳復帰・明るさへの反省は文化再認識」


   


     4月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

省電力はこの数年のある種の義務でした。
これまで私たち日本人の義務意識は建前だった、
社会的な言い訳かもしれない、と思います。
具体さを、まったく欠落していたかも知れません。
ところが、
フクシマ原電事故がこれを覚醒させてくれたようです。
原子力発電所という大規模な施設発電から解放をめざすこと。
これから大きな哀しみを抱いて解決していかなければなりません。
それは具体的義務感としての「節電意識」です。
「想定外」には、デザイナーとして相当の反論があります。
しかし、これはひとまずおいておきます。
さて、東京から「ひかり」が薄暗く、闇を受け入れ始めました。
東京オフィス環境は750ルクスと言われます。
しかし、米国でのオフィス環境でも450〜500ルクスでした。
商業施設では1000ルクスが求められてきたことも事実です。
もちろん、病院や作業環境での明るさの必然性は遵守当然ですが、
「節電」=節約電力が私たちの日常下意識になりつつあります。
いわゆる陰翳、夜空の星、月明かりが大都市に戻ってきました。
戦後、高度経済成長とは、私たちが「ひかり」ある生活こそ、
進歩の証拠として都市文明を希求してきたのかもしれません。
かって、ある有名な照明器具メーカーのショールームが完成し、
そのショールームで、気分が悪くなり、吐き気すらするのです。
よくよく考えてみたら、そのシュールームに影が無かったのです。
だから照明というのは、影あるひかり=あかりだと理解しました。
東京の夜空に星が見える、月明かりに感動すると聞きました。
「陰翳礼讃」は、日本の伝統的な美意識であり伝統文化です。
「節電」という作法を日常化していくことは、
これまでの日本が本当の豊かさは「あかり」にあって、
決して「ひかり」では無かったことを気づかせてくれました。
人類が生命をも危うくする光とは光線です。
その極みである放射線を求めることへの大反省です。
だから、私は「脱・原発」というより、
「解・原子力」での「あかり」を求めたいと思っている次第です。

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