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Posts Tagged ‘意識化’


10月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 6th, 2021  Posted 12:00 AM

10月6日 先負(丁亥)

『力学としてのデザイン』

かたちの変遷の
運動の意識化は
デザイナーの課題に
すべきだろう。

artificial heart:川崎和男展


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8月5日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 5th, 2015  Posted 12:00 AM

8月5日 友引(癸丑)

かたちの変遷の運動の意識化はデザイナーの課題にすべきだろう。
「力学」としてのデザインは人とモノの相対作用としていきたい。


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「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。

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『資本主義からの逃走』
 「NetworkというWebにある価値と心地」


   


     3月 14th, 2010  Posted 11:30 AM

53回目・2009年のベネチア・ビエンナーレに登場した作品。
トーマス・サラセーノは、地球を次のように表現しました。


“Galaxies forming along filaments,
  like droplets along the strands of a spider’s web.” by Tomas Saraceno

この作品は、現代の地球をもっとも具現的に表現しています。
私のこの作品の印象からデザイナーとしての直感と予感が、
今なお次々と、PC ・Wi-Fi ・SmartPhone ・Cloudなどの
一般的なNetwork社会の世界観へ、
次のようなデザイン対象への背景思考を広げてくれています。
私のデザイン対象は、ハードであり、ソフトであり、
そのデザイン成果には、価値感と心地感を「最適解」として、
常に意識化していなければなりません。
問題=Problemへの解答=Solutionは形態に集約させます。
しかし、成果であるべき条件を設定します。
私は、その成果に、「コンテンツ」が「コンテクスト」に、
「コンテクスト」が「シンタックス」へ確実にしていく進化を
デザインが成し遂げてほしいと思っています。

私たちがコンピューターを手に入れてから、
日常の頭脳活動のツールとして、あるいはメディアとして、
「対話性」=インターラクション性の使い勝手にこだわることが
大きなビジネスとしても成立しました。
このビジネス・産業・資本性は、
すでに「資本論」や「経済論」・「経営論」をも変革しました。
おそらく、これからの変貌についても予知・予測すら、
あらたな資本になっています。
しかし、その資本の創出・運営・監理・維持・制度は全く
未定であり、不明だと言ってもいいでしょう。
だからこそ、デザイン、デザイン職能の役割を組み込みます。

これは私が主張する「デザイン領域の拡大」の一つです。
その学理的背景に「エソノメソドロジー」「オントロジー」を、
配置しています。
これはとりあえず、「経営・経済」の論理では、
決して語ることは不可能だとさえ思っています。
なぜなら、「エソノメソドロジー」も「オントロジー」も、
webやNetwork上での「会話」という作法や「存在」を
人間に対して差し向けてさらに「問題」を与えてくるのです。
その「価値」に対決する「心地」は同値でなければならない、
というのが、私がデザイナーとしての姿勢・態度です。


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『資本主義からの逃走』
 「景気循環論から離脱させるデザインをめざす」


   


     12月 22nd, 2009  Posted 10:00 AM

循環させるための付加価値

資本主義でほとんど完全防御されていた経済性の循環。
しかし、「循環」には、必ず、異変が起こります。
そのことは、マルクス以後、様々な経済学者によって、
また様々の資本の投機と回収、あるいは資本の貸借など、
その手法論や合理的な運用が論理化されてきました。
私は、「モノづくり」の初期段階で、
デザイン」を投機してきました。
それは「回収」されるべき利益構造が、まったく、
資本論はじめ経済的な論理では説明も解釈も困難でした。
そこで私が見つけたのは、「感覚」で受け止める「価値」、
モノの「存在」でした。
私の資本主義からの離脱はこの発見時から始まったのす。
まず、大きな疑問が常にありました。
「特殊解」と受けとめられる「かたち形態」には、
決して、「価値」、それこそ「付加価値」であろうが、
「全体価値」であろうがその「存在」が意識化されません。

特殊解的な形態

したがって、
そうした「特殊解」的な「かたち」には、
一般的な「価値」すら生まれず、「存在」させた、という
「事実」だけが残りました。
この「事実」だけがデザイナーの「労働対価」だとすれば
デザイナーには、
「景気」というある種の指標は無関係だということです。
この構造が、
とりわけ、日本の企業にとっては好都合だったのです。

景気からの離脱

デザイナーの存在、頭脳的、感覚的、時に芸術的労働者は
「付加価値を創出」する職能集団に仕立て上げることが、
最も容易に組織化することができました。
だから、デザインを「付加価値」と言い切ったのです。
その「付加価値」は、「欲望を刺激」して、
「欲しい」、「買いたい」、という、
流行ファッション・風俗・サブカルチュアに、
仕立て上げました。
私は、この一見、
文化へと交代させたかのような「循環」と「代謝」から、
私のデザインを離脱させることで、
「景気」とは無縁の「モノづくり」のデザイン職能を
めざしてきたと思っています。


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