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Posts Tagged ‘情報時代’


『腕に取り巻いてしまった連鎖と連動する情報時代』


   


     10月 5th, 2017  Posted 12:00 AM

日本が情報時代を読み間違えてしまったのはまさに21世紀から、
ケータイでようやく映像通話が可能になったFOMAの方向でした。
これには私自身2年間、当時のドコモでコンサルタントをしていたのです。
そしてドコモのトップ達の未来志向不足とセンス無しで喧嘩別れ。
そして日本主導が解消したのだと私は判断しています。
さらに有名ブランド・エルメスがようやく時計ブランドにも入り込みました。
そして「エスパス」という未来志向の時計を発表したのです。
この「エスパス」こそ、わがメーカーがやるべきと、
日本のトップブランドの経営者からも聞き、私も賛同したほどでした。
結局、エルメスが失敗して、ルイヴィトンにこの時計は移動。
エルメス失敗が、ルイヴィトンでは成功したのでした。
私はそれなりに時計収集もしていたので、
スイスのある有名メーカーからは、私があることを言い当てて、
「日本のカワサキに逢いたい」とまで言われたことがあります。
ともかく、男のファッション雑誌には、相も変わらず、
それこそ500万から2000万の時計も編集されていますが、
もはや、大変な大間違いをしていると断言することが出来ます。
あるメーカーで執行役員から現場の担当者、彼ら全ての時計を見ました。
私の出した結論はそのメーカーが現代から未来に向かって全員駄目でした。
ところが、私がそのメーカーの社長に会った時に、
このメーカーなら未来が創成出来ると直感しました。
理由は社長がApple Watchをしていたことでした。
Apple Watchの宣伝をしたいわけではありません。
すでに3段階目の進化にまでなってきたApple Watchが
すっかりと見いだしてしまっている情報時代、
それこそ今流行のIoTのその行く末がもう腕に取り巻いてきていることです。
私自身、今ではすっかり私なりに所有もしている高級高額時計は、
まったく着けなくなってきたのです。
そして、それこそ、パソコン、iPad、iPhone、こうしたことが、
Cloudで全てが連動連鎖していることです。
そして、私にはこのCloudでの連動さに
まだ多くの問題があるということです。

* 『ファッションも完全完璧な信用・信頼・安全・安心だ』
* 『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』
* 『腕時計には本来、機能性の無いモノだった』
* 『iPhone6 plusの意味と意義とファッション価値
* 『スイスの時計業界のしたたかな強さについて』


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『キーワードは形態言語としてのデザインにある』


   


     9月 19th, 2017  Posted 12:00 AM

おそらく私の蔵書は宝物だと思いました。
恩師に大学人の間は持っていなさい、と、このことを守って、
3000冊に絞り、自宅地下には書庫があってまだあります。
しかし、そろそろ整理をしなければなりません。
そんな時にこの「キーワード辞典」がありました。
独立して若いときには読みに読んだ本です。
もう黄ばんでいますし、いくつもの付箋や書き込みもあります。
なんといっても、この本が書かれた理由は
今でも私の中には鮮やかに残っています。
そこで、今でも出版されているのかを探ってみたら
この二冊が見つかりました。(右2冊)
この本で私が明確になったというのは、時代のキーワードは、
実際はデザイン形態= 形態言語が最大のキーワードなのです。
学術的には、論文には文体形式にキーワードを五つ選びます。
それが論文のインパクト係数になって、これが論文引用や、
新規キーワード扱いになっています。
しかし、これは時代を動かすほどインパクトなどありません。
もっと明言すれば、論文で時代が支えられることは学術の偏見なのです。
理由は論文に「美しさ」があるのはほとんど発見不可能なのです。
むしろ、芸術作品は現代から未来を指しだしています。
私は最近やっと、「機能美=デザイン」、この背景である機械主義、
この大間違いに気づきましたが、これが理解されるのは若冲のごとく100年後。
ひょっとすれば、100年後に地球があるかどうかもわかりません。
私は「機能美=デザイン」が崩れたと認識しています。
「デザイン=機能美」でもありえず、
私は機械主義を捨て去り機器主義の時代に入っているわけです。
だから、器能主義と機能主義が情報時代にはこの二つがあること。
機械主義は機と械ははっきりと機械は隠れている
武器生産の機械下意識主義=インダストリアリズムがあります。
インダストリアリズムは終焉していますから、
器能と機能が性能と効能を決定づけることになるのです。
「キーワード辞典」がなぜ、準備されたのかは、
第二次世界大戦後の世界づくりのキーワードを集めたのです。
私は「器能美」と「機能美」を性能と効能、
そして価値をデザインが創出するでしょう。

* 「資本主義から離脱してきたデザイン」
* 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・02」
* 「機関車の魅力=鉄道の魅力に潜むデザイン論理」
* 「初音ミクが象徴している近未来はアンドロイドなんだ!」
* 『芸術工学からコンシリエンスデザインに』


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『バブル経済は私たちも破壊したのでしょう』


   


     1月 29th, 2017  Posted 12:00 AM

明治のチョコレートは、私自身がその味を知ったモノでした。
しかも初期のパッケージのロゴタイプは、
デザイナーなら絶対に知っているグラフィックデザイン。
大御所であった故・亀倉雄策氏のレタリングでした。
ところが、グラフィックデザインの切なさというべきか、
全てが小文字表現になってしまいました。
多分、企業には逡巡性があったのではないでしょうか、
もし、時代風潮からの変更であったとしたなら無念だと私は思います。
したがって、このロゴタイプになってからは、私は明治チョコレートを
もう絶対に買わないでおこうとさえ思ったものです。
ちょうどこの時期になると、バレンタインという行事の準備が始まります。
デパートから、バレンタイン商戦始まりとかの小冊子を見て世の中は大変、
正直、呆れながらも、どこがこの商戦にどのような戦術になるのかという
興味がとても私にはあります。若い頃には大手デパートで、
自分自らが「ラブチェアー」という企画展をしたことがあります。
「ラブチェアー」って和製英語ゆえ、「ラブシート」、と、
米国の親友にアドバイスをもらったこともあります。
さて、チョコレートでもバレンタインでもなく、
日本の企業が壊れ出したのは、あのバブル時期からだった気がします。
バブルでの経済の崩壊は、企業にガバナンスとか、
企業は株主のための存在とか、しかもインターネットでの
情報時代=意識革命は、SNSとかのネガティブさが企業存在まで、
とても怪しくして、モンスターなる消費者とか、
サイレントユーザーという、文句は言わないが、
その企業の商品消費は辞めてしまうなど、
性悪説の社会構造が出来上がってきている気がしてなりません。
それこそ、「イジメ社会」も激しくなったようです。
ケータイやスマホがこの社会成立をバックアップしています。
企業の義も善も否定が扇動して、
美は「かわいい」ということに置換されたのでしょうか。
チョコレートの名作だったデザインの変更は、
まさしく小文字だからこそ「かわいい書体」へということは、
私には悲しみでしかありません。
バブル時には私は米国での仕事だけをしていました。
東京が「何か変」だったのです。
バブルは私たち日本人を壊したのかもしれません。

* 「チョコレートの決定打は決まっている」
* 「2/14のチョコレートは天然とヒーリング」
* 『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
* 「泡・バブルって、やっぱり凄いんだって思います」
* 「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」


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『表裏一体の共時性は呪われているのか!』


   


     3月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

いつの時代も、その時代を牽引しているかのような、
それは、宗教と経済論にあたかも大勢の知性と野性を狂わします。
すでに世界は130余年前に、いや最古の闘争十字軍の時代に、
その時代からも共時しなければ生きられなかった世界に放置されます。
十字軍を今更持ち出しても、イスラミック・ステイトの凶暴凶悪性は
知性社会すべてが許すわけがありません。
あたかも現代文明を根底から破滅している十字軍と対照的な、
表裏を成して、資本論をも超えるとかの論理にすら疑念があります。
私は、この時代との共時感覚は呪われているとしか言えません。
未だに、資本にこだわり、その裏側には石油文明を剥奪する
その裏付けとなる宗教への狂気しか私には見えません。
資本と納税、人口の流動性での統計で果たして現代文明の背景は、
語り切ることができるのだろうか?とこの論理を疑います。
私は、資本の塊の停止が現代を経済=税務と一神教の差異性対立を
一方はテロと呼び、一方は新たな文明の分断からの構築と呼びます。
が、この二つは常に表裏を繰り返しているだけの呪いにすぎません。
共時と共有性は、まさに情報時代に両方が寄りかかっているのです。
そして私はこの時代の呪われた非人間性=性悪説にまみれた
全ての事象、事件の象徴だとさえ思わざるをえません。
おそらくデザインとの反事象は犯事件そのものがこの表裏一体です。
決して、人類の偏向を呪縛してきた資本論の方が単純でした。
歴史をいつまでも連結してきた十字軍の方が狂気を排除していました。
私はこの二つの情報は、呪われた事件の表裏回転体だと思います。
したがって、
この表裏性を断絶するには、この回転動態の遮断的な事象を
衝突させることしかありえない気がしてなりません。
この衝突を起因させる思考を余儀なくされている悲しみこそ、
現代の呪いに他ならないと思っています。

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『「企画書」づくりが私の休暇の積み重ね』


   


     8月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

「企画書」はデザイナーになってどれほど書いたでしょうか。
バブルの時には、一枚書いてとても高額だったことは今では夢です。
ただし、「企画」と「計画」の違いはほとんど一般化していません。
特に、政府も行政、企業にいたっては無能の有様です。
それは「企画」にしろ「計画」にしろ、いづれも戦略用語ですから、
「戦略」=企画、「戦術」=計画であることも知識です。
企画とは、領土拡大において、どこまで領土を支配する予定書、
計画とは、元来は経画=領土線を縦に引くことです。
したがって、企画とは戦略同様に目標と目的が示されますが、
計画とは、その目標と目的を具体的に空間設定、時間設定を
人間が行うべき行動指針が示されなければなりません。
まずもって、政策策定書・政府内閣から行政の「企画・計画」書で、
私に提示されると、ついつい次の質問をしてしまいます。
これは企画ですか?計画ですか?
目標しか書いていないのですが、目的は何ですか?
企画なのに、どうして具体的な方針が書かれているのですか?
計画というのに、どうして目的だけで行動工程が無いのですか?
となれば、とても嫌な存在になるのでしょう。
こうした批判のためにどれほど仕事を失ってきたことでしょうか。
今や、このようなことはどうでもいいのです。
私は真っ正直に、地道に、目標と目的を見極めた企画を提示し、
その遂行のための行動・実務方針と時間管理の計画を差し出します。
万が一、この企画・計画が実現できない場合は、
この実現を成すべきリーダーが無能である証になるはずです。
なぜなら、時代は「情報時代」であり、「見える化」が当然です。
したがって、私はデザイナーとして、書けるだけ書き残し、
後世にその判断と評価を残すことが可能になっています。
私は、デザインという「絵に描いた餅」作業こそ、
「絵に描かれた餅」だからこそ「食べられる時代」になりました。
だから、「企画書」?を書き残します。

「企画は必ず具現化すること」


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『公式ロゴタイプのデザイン仕様を検証』


   


     2月 14th, 2014  Posted 12:00 AM


オリンピックのデザインはその国のデザイン力を示しています。
現代オリンピックのデザイン表現にはかつての日本デザインが、
大きく貢献していることを、美大生時代に知りました。
このところ、日本の各種スポーツ選手たちの活動を観るため、
寝不足が続いています。
しかし、4年間以上も彼らの果たしてきた自己修練を知る度に、
彼らがメダリストでなくても心から敬意をはらいます。
オリンピックという最高の場面に出場出来る鍛錬された能力、
この素晴らしさを人生の姿勢にした、
そのことは、明らかに思想の一つでしょう。
彼らの存在をデザインが取り囲んでいます。
開催地毎の「オリンピックロゴタイプ」には、
そのオリンピックに選ばれたフォントスタイルと、
デザイン仕様としての形態設計・レタースペース・カラー仕様で、
私はその大会デザイン全体の美配慮レベル検証が可能です。
ソチ五輪のロゴタイプは、ハーバート・バイヤー的なレタリング、
したがって直線とR曲線との視覚的整合性は「ややマトモ」です。
「ややマトモ」というのは、レタースペース堅持を要素として、
その表現だけの拘りを認め、革新性は避けています。
したがって「ややマトモ」な表現では正当性確認だけが可能です。
決して、新たなデザイン表現要素を見いだすことは出来ません。
それは情報時代に即した表現傾向がこの国のデザイン界能力です。
しかし、このロゴタイプで徹底されたデザイン表現を
未だに知らない企業がわが国には随分あることが、
私はとても問題だと指摘しておきます。
おそらく、このオリンピックのロゴタイプデザインを
とりわけ、企業幹部が感じ取れないのだとしたら、
それこそがわが国のデザインへの企業感性だと私は思っています。
私はこのロゴの美も現代性確認として企業は熟知すべきです。

【ブログの関連記事】
『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』
「デザイン基礎力の一つから現代社名ロゴをみると」
「ビジュアルC.I.ロゴタイプの基本はレタリング技能」

 


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「記号論は脱構築に向かっていった『かたち論』」


   


     1月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

元旦に書き上げた論文受領のメール。
やっとホッとしました。
そして、絶対に明日までにもう一本の論文作成中です。
自動車技術系論文誌からの依頼論文です。
テーマは「形と性能」です。
私の骨子は、このテーマを受けた時、
直感的に「かたち論」が思いつきました。
記号論はソシュールが90年前に提唱しましたが、
講義録しか残っていません。
最近、この講義録の正当性が最近認定されました。
ソシュールは、ラング(辞書内言語)とパロール(会話言語)によって、
言語の記号性を論理化し、やがて「記号論」になっていきました。
私は、工業社会が終焉し、
情報時代には商品は記号となっているという論説を確信しています。
したがって、自動車もガソリン車から電気自動車になっていく進化には、
確実な論理背景が必要だと考えてきました。
まさにそこには、
ジャック・デリダのエクリチュール(記述言語)が
記号論に入り込むことで、
レトリックな構造が生まれ、
常にその記号化された表現と内容は書き換えられることが歴史になります。
書き換えられるということ、
それは、破壊され、内容の変革が起こるということです。
ダリダは、これを「脱構築」と呼びました。
自動車はガソリン車から電気自動車にその性能が変革しつつあります。
それは、走行性能だけでは無くて、
自動車が情報機器、情報メディアと情報ツールになるということです。
エネルギーの供給も、ガソリンスタンドでは無くて、
急速充電基地になるでしょう。
スマート・グリッドやスマート・シティというインフラが整えば、
GPS制御による自動運転はもとより、
車輪で走行する機能は、もっと進化するはずです。
走るというより、飛び交い、浮かぶ物体になるでしょう。
明らかに、工業社会で進歩してきた自動車は、
情報社会で、「脱構築」が具現化するという予測が可能です。
その時、走行性が主性能であったがゆえ、
その速度感あるカースタイリングも脱構築されるでしょう。
それは、造形言語で「形」設計と、
形態言語で「性能」設計という手法を
デザイン自らが脱構築していくと予知しているのです。


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「初音ミクが象徴している近未来はアンドロイドなんだ!」


   


     12月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

同じ大学に居ながら同僚にもかかわらず、
マスコミ報道やTV番組などで、その活動を知ることの方が多いものです。
いつも何らかイベントでは、
阪大同僚である教授と同席することがよくあります。
阪大ロボット学者の石黒浩教授とは、
昨日も、
医学系研究科MEIセンター(澤 第一外科教授センター長)の講義で、
研究内容を間近に見、そして本人に質問まで出来ました。
しかも、今日は兵庫県立美術館でまたご一緒するのです。
石黒教授といえば、世界的ヒューマノイド系ロボット、というより、
すでにアンドロイド開発者として国際的な第一人者です。
授業として、
石黒教授の講義を受講し、質問をして確認できたことがあります。
ロボット工学では、「不気味の谷」論というのがありますが、
その具体例での論説に感銘を受けました。
そして、すっかり疑念が解消されたのは、
「なぜ、初音ミクが218カ国に受け入れられているのだろうか」、
納得できました。
この言わば、漫画とは言い切れないアニメーション・キャラクターは、
非在しつつも、確実にアイドルとして驚喜する感性がどこまで世界的に、
飛び回っていることの理由であり、開放感覚です。
明らかに、不気味さは皆無であり、
消去できうることや、聴覚映像の詳細な表現技術の進歩そのものが、
まさに、アンドロイドということです。
そして、最も重大なことは、
「攻撃性皆無の安全性と安心感」を受け止められる感性、
それが情報時代の中で
若者の感受容体に育まれてきたということになります。
私は、これを「形態論」と「身体論」で、デザインテーマとして、
どのような意図すべき「造形言語」を創成すべきだろうか、
意味されてしまう「形態言語」への
デザインアプローチを求めようとしている自分、
すなわち、これが自我なのかも知れないと気づくのです。
デカルトの言葉、
「我思う、ゆえに我有り」は、
近代の認識論としての一つの源流であったかもしれませんが、
「初音ミク」という具体的存在のアンドロイド性には、
もはや、
そうした思考制御などは皆無になっていると言ってもいいでしょう。
すでに認識論的な哲学は、
消去されていると考える時期なのかもしれません。
今日、あらためて石黒教授の講演で確認してみるつもりです。
私のテーマは「あさっての美術館」?!
ん、何?とこれからプレゼン制作に入ります。


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『資本主義からの逃走』
「情報・日本語であるための曖昧性」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:39 AM

情報
「情報」という言葉は、森鴎外の訳語であったという説があります。
そして、そういう説があるらしい、ということを15余年程前に、
ある誌面で書いたところ、強烈な否定論を大学のFAXでいただいたことがありました。
あまりの強烈さゆえ、今も鮮明にその時の驚きと、
その指摘人物=著名学者を覚えています。
それから、日本語での「情報」という言葉については、
とりわけ慎重になる癖がついたと自覚しています。

ドイツ・英国・米国の「情報」
ところが、あるとき偶然にも、
海外のインダストリアルデザイナー友人達と会合を持ったときに貴重な体験をしました。
英国人・ドイツ人・アメリカ人、そして私=日本人での会合でした。
パソコンという言葉が登場した頃であり、
今後、このパソコンで「何」が変わっていくか、というテーマになりました。
決して、これは議論でもなく和気藹々とした会話だったのです。
まず、会話では、コンピューターのパーソナル化、
すなわち、「日常生活でパソコンの存在」が、「ポストインダストリー=脱・工業化社会」、
この言葉での書籍も一段とビジネス書は増えてきた頃でした。
結局は、「工業社会から情報時代」に入る。
そうなれば、インダストリアルデザインの職能範囲、拡大するのか縮小するのか、
あるいはもう終焉し、デザイン職能が変態するかもというとめどない会話になりました。
そこで、行き着いた各国語での「情報」という言葉がどこに集約し収束しました。
だから、焦点がどこに至るのだろうかということでした。
まず、ドイツが、脱・工業化を国際的には最初の発言者だったという確認でした。
それは、「意識社会」の出現、という予測でした。

意識=Consciousness

パソコンが大きな刺激を与える存在になるというのが、ドイツ人の主張でした。
ところが、英国人は「知識社会」の深度がますます重要になっていくという主張をしました。

知識=Knowledge
を膨大にストックし、
その知識配分の格差が増大してくるという話題でした。
米国人は、ちょうどArpanetがInternetになっていくことから考えても、
これはIntelligenceの国家・民族・宗教・思想・主義などの諜報性に、
対立や調和や共有が様々に起こりそうだということの主張でした。
情報は、情感的な伝達性という意味が日本語の根底にはあるようだということを話をしました。
彼らと明らかに違っていたのは、
情感という感覚的な曖昧性が日本語にはあることをその時、私は改めて知ったのです。
この曖昧さは現在も温存されたまま、
「情報=インフォーメーション」という単一な茫漠とした意味合いのままなのです。


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『資本主義からの逃走』
 「なぜ、ここまで私の
  コンピューターcontextを記述するか、です。」


   


     1月 26th, 2010  Posted 1:00 AM

My Context of Computing Interaction
少なからずBit資本が情報化社会の基盤要素、
Bit資本が情報時代となってきた「要因」を
考えつくしてみたいからです。
だから特にソフトウエアとの関係を
私自身が1970年代からの実体験は、批評と評価を
語り尽くさねばならないと考えています。
批評は時として「非難」になります。
毒舌、悪口でもあります。
ただし、悪口を陰でコソコソと言っているのでは無く、
正眼の構えで、私自身が非難される覚悟をもって、
語るのです。
それは覚悟であって、勇気ではありません。
覚悟と勇気もその差異性を明確に志しであるべきです。
ブログという形式は、悪口の形式になることも
しばしば起こります。
「ブログ炎上」というのがその実例でしょう。
私のブログは、「数学」に触れると、
アクセス数は激減します。
どれだけ私たちが学校で「数学」がつまらなかったか、
ということでしょう。
ところが、「数学的思考」を根底でとらえて、
日常のツールとなったのがパソコンです。
すなわち、bit=1or 0=on or offのdigital世界を
隠されたレイヤーの後ろに「数学」というか、
「数理的思考」があることを認めて真正面で、
受け止めれば、パソコンにまつわる情報・情報化、
そして、
Bit資本を定義化して、
資本主義の変革、革新、
その手法を早く発見できるでしょう。


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