9月 8th, 2016 Posted 12:00 AM
自分の記憶が曖昧なのですが、
「アイコン」をパソコンで知ったときに
ある小説と、もうひとつはロシアの美術学校で伝統的なイコン制作を
TVドキュメントで見たときでした。
したがって、今なお、イコン=icon=アイコンを連鎖させているのは
ロシア正教やカトリック教での正教像、そこから画像や図像、イメージで
パソコン画面上でのアイコンに結びつきます。
この源は似姿、印象、イメージが米国での哲学用語として、
ピクトグラムがアイコンとなって、一目でわかるということになりました。
改めて、正教画であった図像では平面図表現に透視図法までの歴史は
アイコンとして、コンピュータ画面上での動画に変化していくことに、
とても似ているように思います。
自分デザインでは、あるメーカーの16×16のアイコンは16進法で制作し、
やがてこの手法から32×32のアイコンづくりをした経験があります。
ところが、コンピュータ画面上でのアイコンは、
今ではすっかりとブランド商品の
「特徴と特長的なかたち」表現になっています。
昨夜は、万年筆でモンブランとペリカンを取り上げましたが、
このアイコン、すなわち、「かたちの特徴=特長」の明確さが
商品価値になっていることを日本のモノづくりはすっかり忘れています。
TV-CFであろうが、単なる応答商品や回答商品であっても、
アイコンの重要性をあらためて、こうした正教画像とともに再認識が
とても大事と思っています。
* 「人形・ワイフのコレクションにみる『ブランド価値』」
* 「健康自己管理としての血圧計の見直し」
* 「手旗信号、モールス信号、子供の頃から現代まで」
* 『忘れるなかれ、デザインは正面にあらず』
* 『デザインは解である』
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6月 17th, 2016 Posted 1:00 AM
おそらく20世紀後半に、人間の思考は、
「コンセプト」に呪縛されてきたとようやく指摘できます。
この言葉は側に「概念」という訳語を
日本語解釈には持っています。
しかし、概念とコンセプト、あるいはconceptについて、
自分はデザイナーとして確かに寄りかかっていたことは
自白しておかなければなりません。
そして、デザインを教育する立場では、
まず、「概念」と「観念」についても、無論、哲学用語からも、
さらには「概念」と「観念」の間にconcept=コンセプトを置いた講義、
それだけでは自分自身が「コンセプト」のまともなあるいは正当な
その定義を確実に伝えたという経験はありません。
もっとも「コンセプト」を多用しているそれこそ、企業の開発、
あるいは大学での研究などにおいても、
「コンセプト学」などは皆無と断言していいでしょう。
したがって、自分が「コンセプト」とは何か?という説明では、
「端的に一言で言い切ってしまえる印象」ということが
的を得ていると一応思ってきました。
でも、これすら自分のデザイン活動の中で大きな疑念がありました。
特に大学人になってから、それこそ一流の学者たちが、
日常的に多用している「コンセプト」ということになると、
この疑念は明白に、思考的、哲学的、科学的な
「大間違い」であると言い切れるようになりました。
例えば、
黒というコンセプトと白というコンセプトと言い切った場合、
「コンセプト」で語られた白であれ、黒であれ、
印象の曖昧さしか残っていないということです。
断言すれば、黒は全てを飲み込み、いや包含していて、
白は反射して、概念でも観念でもありえない事実でしかありません。
かねてより、「観自在」に委ねられた人間の発想・着想、そして思考には
もっと連綿とした対立や対比が「ライン」で連続しているのです。
「コンセプト」を早く捨てることを推奨します。
*『空間へのdolly的な隠喩性という手法』
*『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
*『照明の文化論としての陰翳礼讃』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』
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7月 17th, 2012 Posted 12:00 AM
このところ「危機」関連に囚われています。
3.11からこの「経験したこともない豪雨」や竜巻に及ばず、
社会環境・時代環境が取り巻いている「危機状況」です。
それは子どもの世界においては「いじめ」になっています。
虐め・苛め=「いじめとひらがな表記」がすでに、
わが国の曖昧さを
さらにだらしない社会にしてしまっているのかも知れません。
今私は「危機管理デザイン」に関して
重大なデザイン領域を間もなく発表します。
そこで、ドゥルーズとガタリが持ち出した
「リトロネロ」を再検討すべきだと強く思い直しています。
私は、倉俣史朗の評論のために、
この言葉と概念を中村雄二郎先生の「精神のフーガ」から学びました。
最近は、SNSが変貌させたデモに、
非暴力性やサウンドデモ形式の評論用語に、
「リトルネロorリトルネッロ」が登場します。
簡潔に言えば、
子どもが薄暗くなってきた自宅への帰り道で、
闇への恐怖感を押し殺すために鼻歌を歌って、
自分を勇気づける音楽のリフレインを意味しています。
要は、恐怖感を自分の中で、
鼻歌を歌うがごとくに解消しようという積極性を
与えていくことと言っていいでしょう。
私は、この哲学用語を倉俣史朗の「How high the moon」と題された
エキスパンドメタル製のソファデザイン、
その解釈と解説に適用させました。
ところが最近、わが国での新しい形式のデモや、
「危機管理」=命の護り方すべてにあらためて、
この言葉が哲学用語として
最重要なキーワードになってきていると実感しています。
まさに、「苛め・虐め」での子ども達の自殺は、
自殺教唆そのものであり、
自分の子ども時代を振り返っても、虐められた経験から、
自分はどうしてきたかを思い起こしています。
私は転校の度に、苛められましたが、
相手は大抵が集団です。一人っ子の私を虐めるのは兄弟たちでした。
だからその集団を分解して、一人一人にやり返す、
そんな途轍もない不気味さを演じて逃れていたと思います。
そんな時も、
どこかで「鼻歌をリフレイン」している自分を思い出すことができます。
絶対に、相手への恐怖感を与え直すことが重要ですが、
それよりも、自分を勇気づける「リトルネロ」を持つことが重大です。
「リトルネロorリトルネッロ」論を
現代の全ての危機管理の思考下敷きにできることを記しておきます。
Tags: 3.11, How high the moon, SNS, エキスパンドメタル製, ガタリ, サウンドデモ, ソファデザイン, デザイン領域, デモ, ドゥルーズ, リトルネッロ論, リトルネロorリトルネッロ, リトロネロ, リフレイン, 中村雄二郎, 倉俣史朗, 危機, 危機状況, 危機管理デザイン, 哲学用語, 恐怖感, 時代環境, 社会環境, 竜巻, 精神のフーガ, 緊急課題, 苛め, 虐め, 評論, 豪雨, 非暴力性
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