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Posts Tagged ‘北陸’


『7.1chTVのセンタースピーカーはこれからエージング』


   


     8月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

私がそこまでなぜこだわるのだろうか?と言われます。
少なからず、自宅のオーディオシステムは、
音像と音場にはもうこれ以上でなくてもいいだろうと思っています。
しかし、4KのTVの外部スピーカーシステムは、
あえてコントローラーと7.1chでは、主にはLINNで固めてきました。
しかし、どうしても試してみたいスピーカーシステムは、
JBLのセンタースピーカーと整備万全と保証されたDENONで2chを、
悩みに悩んできましたが、なんとかワイフを説得しました。
JBLセンタースピーカーをやっとこれからセッティングできます。
基本的にはLINNを使うこと自体がありえないと言われていますが、
これは私がこれまで試して、もっと部屋の広さを考えて、
あるシステムなどは、スタッフに使ってもらっています。
このセンタースピーカーは中音部はフルレンジであり、
ツイーターで高音部をまかないますが、できる限り、
フラットな周波数特性とコストパフォーマンスを考えました。
ともかく、「中心の中高音部をちょっとなんとかしたい」と
もう随分言ってきました。
映画館とコンサートフォールもいくつか設定が可能ですが、
私は、2.1chから、5.1chは大阪に来て10年あまり聴いてきました。
しかし、7.1chで本当に私はビックリしました。
なんとこれは通常の映画館やコンサートフォールを超えています。
これまでメーカーのサービスマンの方にもお世話になってきました。
あるとき、あるメーカーのマニアである方から、
「お客さん、多分、ご存じないと思いますが、これよりも一発で
とてもいいメーカーのTVがありますよ」と言われました。
「どこですか?」と聞くと、
「北陸のEIZOという会社ので、もう売られていないのですが、
 FORIS.TV 32インチです」と。
私はすぐに「それはありがとうございます」と言ったら、
「エッ?」
「それ、私のデザインで、音も80Hzなんです」と答えたら、
もっとびっくりされて、「別の部屋にあります」と言うと、
「・・・・」という具合でした。
これから、このセンタースピーカーもエージングをどうすべきかです。


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『手の消毒、そんな時代になっている?』


   


     4月 19th, 2015  Posted 12:00 AM

私は幸いにも花粉症ではありませんが、まさかという人までが
最近はこの病ブームにやられています。
そして、このところみかけるのが、企業、レストラン、ホテル、
もちろん医院や病院の入り口には消毒薬が置かれています。
手を洗うことは、小学生の頃から、かなりしつこく教えられました。
外から帰ってきたらうがいと手洗いは強要されてきたと思います。
しかし、今や強要ではなくもはや義務です。
しかも消毒薬次第で、防ぎきれないノロウィルスなどどころか、
さらに手洗いでも防御不可能なウィルスも登場し始めています。
またさらにこの消毒薬で、手荒れになってしまったりとか、
人間の体質も変わってきています。
私自身、除細動器を体内に埋め込んでから、アレルギー体質です。
しかもやっかいなことに、「甲殻類アレルギー」です。
これは北陸生まれの私にはなんとしてもカニはとなれば、
抗アレルギー薬を飲んででもカニは食べています。
花粉症に対策どころか、地球全体の温暖化、気候変動は、
感染症の増大は人智を超えだしているようですが、
人智を最大限にするためには、私は四つの対策を決めるべきと
それをデザインの問題解決の対象にしています。
● 環境の異変原因へに対策デザイン
● 人間・人類の抵抗力、その対策デザイン
● こうしたことを危機とする基本デザイン
● 危機解決デザインの具体的な解答デザインの制度化
これが、私がめざしている「危機解決デザイン」であり、
こうしたデザイン=問題解決を図ることがコンシリエンスデザイン。
このところ、この四つに具体例を、講演や企業提案をしています。
「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」の準備に
走り回っていますが、いたるところで、この消毒セットを見ると
ともかく、自分の役割が明確になってきています。
出張中はどうしてもこのブログ休筆になりますが、元気です!


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『金沢の武家文化が必ず見直されるだろう』


   


     2月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

北陸新幹線がブームになってきたようです。
私の父は警察退官後は、ある団体の専務理事をしていました。
そして、北陸新幹線づくりの陳情に毎月上京していました。
私はよく批判したものです。そんなに懸命にならなくてもと。
父は行学の士でしたから、自分の役目に忠実でした。
が、北陸新幹線の存在意義は「金沢一極集中」であると言っていました。
富山も福井も、まして新潟には何もメリットは無いでしょう。
そこに、間違った加賀群青かもしれないブルーと、
加賀金箔の金色ラインの列車が走ることになっています。
加賀群青と金箔の組み合わせにはもっと熟考結果が必要です。
デザイナーはO氏であり、彼の能力全てが全開ではないと思います。
きっと、デザインが予算やつまらない意見で邪魔されたのでしょう。
しかし九州JRの列車デザインは鉄ちゃん素人受けでしかありません。
列車デザインとしては、遊園地仕上げで、技術進化形の
問題解決された最新デザインにはなっていないと言わざるをえません。
時代遅れのデザインだと私は明言しておきます。
九州JRの列車デザインは、デザインを勘違いしているのです。
北陸新幹線が全線開通することの大きな意義に関西は呑気です。
おそらく、北陸の若者は関西より関東をめざすことになるでしょう。
京都の公家文化と金沢の武家文化だけが今後の日本で輝くはずです。
関西、それも大阪の町人文化が廃れていく気配を感じます。
大阪はもっと真剣に北陸新幹線を敦賀から京都・大阪を
一日でも早く全線開通させるべきだと私は思っています。
北陸とは、東西南北の北ではありません。
まさしく北面の武士たる、体制批判の担い手の住処が北陸です。
列車移動は、車イスの者にはとても便利になりましたが、
現在のホームと列車乗降は恐くてたまらないほど、
バリアだらけの代物でしかないのです。
それでも北陸新幹線にはまだもっと大きな問題が残っています。
いづれ、このことを明白に発言していくつもりです。

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『ご飯のふりかけ最高もの・福井名産数多し』


   


     11月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

子どもの頃から、ご飯には「ふりかけ」が必需品でした。
そうして、ふるさと福井には「ふりかけ」最高品が一杯あります。
なんといっても、蟹とウニが最高です。
残念なことは甲殻類アレルギーになりました。
理由は、除細動器を体内に埋め込んでからのアレルギーです。
したがって、ウニのふりかけが一番のお気に入りですが、
きわめて高額です。
このふりかけは出征を余儀なくされ、これが生まれたらしいのです。
おそらく国内のふりかけの中では最高品最高額品でしょう。
でも、大好きです。
ウニは子どもの頃には三国の浜のおばさんが売りに来ていました。
シンプルな曲げ木のパッケージに、
ぎゅうぎゅうにたくさん詰め込んでもらった記憶があります。
だから、名産となって、気取ったパッケージを見ると、
当時の簡素なパッケージの方が美味かったとさえ思います。
最近は月1にはふるさとに必ず帰るので、
ふるさとの味は、いつでも自宅にそろっているのがうれしいです。
ワイフは京都ゆえに、京都に帰ればやはり京野菜は買い込みます。
車椅子になって、父や恩師から北陸に帰って来いと言われたときも
結局は、帰ればあれが食べられるとすぐに思ったものでした。
味覚は14~5歳で決定するとさえ言われていますから、
北陸に育った私には、なんといっても「ふるさとの味」が、
今でも楽しめることはとても幸運なことです。
ただ、母とは21歳の時に死別しましたから、
母の味の記憶はあっても、もう確かめることはできません。
父母や祖父母の好みは想い出すことができます。
人って、結局は育った環境の食べ物こそ生涯の味の基本です。
私にとって、ウニは欠かせない食べ物のひとつです。


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「私の小さなふるさと・福井県」


   


     5月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

私は福井生まれですから、ふるさとは福井県です。
18歳まで暮らし、浪人1年は大阪でした。
大学は金沢市、35年ぶりに、
私にとって最大の個展=金沢21美術館 で開催しました。
30歳でUターンをして、47歳からは名古屋で大学人になり、
大阪もすでに8年目になります。
私の福井県はかつては人口が80万人ほどでしたから、
話題になるのは、敦賀市にある原発です。
それも「核燃料サイクルの是非」と「活断層と原発」、
ゆえに、敦賀原発の廃炉化が大きな国家問題になっています。
これから私がここで真実を語るとするなら、
個人見解とは決して思われないでしょうし、
大学人としての話となれば、おそらく、賛否両論どころか、
反論もすでに想像の準備とその容易さも可能です。
だからと言って「黙認・黙秘」はとてもしかねる性質です。
したがって、
これは正確な情報としてまとめておきたいと考えます。
まず、「道州制」になれば、福井県は二分されるでしょう。
北陸トンネルをはさんで嶺南(小浜・敦賀)と嶺北です。
活断層と地震の関係はまだ懸念性でしかありません。
再生エネルギーの可能性は皆無です。
原発での現材料・プルトニウム=ウラン各種には限界があります。
もはや、寿命の期限が想像できる私には、
正直、2050年=私が100歳以後にはなんら想いはありません。
しかし、2300年までの予測や西暦9000年前までは、
結構詳細に記憶しています。
私は、おそらく、そのような事までの記憶から推測、
さらには、現代の情報への正確さを見極めるのは、
幼少の頃から高校時代までに、
そうした能力の基礎が出来るのではないだろうか、と思うのです。
それが、結局は、「ふるさと」が、
その人自身のアイデンティティだと判断しています。
私のふるさとは、
少子化もあってか「小さな県」だと思っています。
しかし、私が最も得意とする1800年代については、
つい最近、ふるさとのある市長に、
私が知っている古文書をもう一度読みたいと手紙を書きました。


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「あれから・・・ふるさと福井の織物産業」


   


     11月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

24年前のプロジェクトが出てきました。
当時すでに、
「ブランド・アイデンティティーから具体的製品開発」までを
終えていました。
したがって、製品が商品になっていれば、
そっくりなモノづくりメーカーが、今、現存している有様です。
そこで、北陸・福井は「羽二重産地からポリエステル、
そして今では、産業資材まで」の織物産地になっています。
しかし、私は、「モノづくりの時代は終わった」ということから、
ふるさとの織物を再生というより国際的に創成したいと考え、
「青年部会」を中心にまず、勉強会をスタートしました。
製品・商品・企画・計画・情報・サービス・ブランドなどが
今でも企業戦略の金科玉条に語られます。
しかし、これ自体がとても耐えがたき「時代遅れ」であり、
「国際競争に勝つ戦略は○○○○○戦略(まだ?)」として
織物業界にその根付けを始める覚悟と決意と所存です。
そしておそらく、
この○○○○○戦略がわが国のあらたな産業経済創成にしてみせます。
画像は24年前には、
ブランド情報化にはこうしたイメージ写真撮影まで準備していました。
1時間半の講演後、青年部会のみんなと食事をしながら、
彼らの気持ちの中に入っていくことができたと思っています。
また、かってこれをともに関わってくれていた元スタッフは、
地元のTV局では企画職部長になっています。
少なからず、24年前のアイディアは間違ってはいませんでしたが、
今や、もう一度、時代を未来に向けて読み直しをし、
しかも、阪大やその他の大学でもこの○○戦略論と、
その具体的な論理と実務方向を教えています。
それは、私自身がデザイナーになって以来、
時代とともに、社会情勢を読み切ってきた私の直観であり、
かつ、私の「野生の思考」そのままなのだと思っています。
子どもの頃、織物産地には織機の機織り音が木霊するぐらいでした。
私がUターンした時にもすでに機織りの音は無くなっていました。
だから、当時の若い30代感性は、こうしたイメージを拡大して、
今をも見通していたことは事実です。
それから、さらに私は職能家としても経験と知識は増大しました。
したがって、私にとっても
最期のふるさと織物産地への提案を残しておきたいと考えています。
「織物・編物・不織布・まだ実現されていない
新素材のファブリックに未来のふるさと」、
これを必ず実現させるデザイン実務を果たす所存です。


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「随分改善された車椅子対応までのエピソード」


   


     7月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子になって、新幹線での乗り降りには、
私には相当の闘いがありました。
東京から新幹線に乗ろうとしたとき、
かつては1時間前に駅に行かなければなりませんでした。
東京駅では業務用エレベーターで、
東京駅地下道・妙な臭いの空間を通るのです。
そこで、ある衆議院議員の秘書の方と
国土交通省に陳情に行ったことがあり大喧嘩をしました。
新幹線に限らず、
「駅長室」ここに駅長さんがいるわけではありませんが、
それこそ、抗議を随分やったものです。
国土交通省での私の戦闘論理は簡潔に仕組みました。
「海外から車椅子旅行者が、業務用エレベーターに乗せられ、
そして地下道、その臭いを知ったなら、日本のイメージががた落ち」。
当時の扇大臣が視察をされて驚愕されて改善計画が始まりました。
それから3年後に現在のエレベーターが設置されました。
米国のアムトラックでの車椅子対応と車両設計の合理性を
体験していたことが私の背景でした。
最近は、写真のようなホームから車両までのスロープが用意されています。
駅員の皆さんも大変に親切になりました。
それでも時に大駅ほどとんでも無い事態に遭遇します。
詳細は書かないでおきます。
しかし、私は、
このようなスロープでは限界がやがてくると想像しています。
飛行機での車椅子対応は、航空各社で多少差異がありますが、
最近では、必ず、車椅子の人に2~3組出逢います。
おそらく、これからはもっと、
車椅子使用者の列車利用が増えることは間違いありません。
おそらく、5組の乗降があったなら、
列車の停車時間内では対応が困難になるはずです。
車椅子対応の車両も北陸線「サンダーバード」では一組しかありません。
グリーン車内には車椅子巾がなければ乗降不可能です。
つまり、列車の車両デザインそのものを根本から変えるべきです。
ホームと列車間の隙間をスロープで解決している限界があり、
車両のトイレ洗面はもっと基本的ユニバーサルデザインが必要です。
こうしたデザイン設計できる
列車車両の次世代デザイナーに期待することです。


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「一本の松の木が示唆する未来」


   


     12月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

3.11が破壊し尽くしたこと。
陸前高田市には高田松原という海岸線に防風林、
それは7万本あったと聞いています。
10mの津波と言われていますが、
実際は28mから52mに及んだ場所が数多くあります。
その高田松原は全滅でしたが、
たった一本の松の木が残りました。
被災した現地の人には、その痛たましい姿ながら、
「希望」のシンボルになりました。
あれだけの大津波の中で、気高く生き延びてくれた姿に
現地の皆さんは「復興」への勇気と元気を回復しました。
しかし残念ながら「塩害」はこの松の木を日毎弱らせてしまいました。
それでもなんとかこの一本の松の木の再生を試みておられます。
松ぽっくりから発芽の試みと、接ぎ木の方法を
滝沢村にて現在、その再生を試行されていると聞きます。
3.11の記憶をシンボルとして残す一つの代表例だと私は考えます。
そして、あらためてこの海に囲まれた日本列島の海岸線、
そして防風林や防潮林の新たな新技術を早急に準備しなければなりません。
私のふるさと北陸の日本海岸の防風林も、
中国からの黄砂だけではなくて酸性雨で絶滅に瀕している現実があります。
3.11で「自然の威力」を同胞の死で思い知らされた訳です。
高田松原の素晴らしい景観を失いましたが、
たった一本の松の木が、
未来を示唆してくれていることは忘れてはならないでしょう。

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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationに向かってきた系譜・2 」


   


     4月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

Multimedia & Art Festival 1992
「マルチメディア」と喧伝されていた時期は長かったと思います。
1990年代であり、ちょうど「バブル時代真っ盛り」でした。
私は東京の「変な浮かれ様子」を北陸・福井から、
極めて冷静に眺めることができたのです。
東京からはいっぱい展覧会や仕事も殺到して舞い込んできましたが、
私の直感は、「これは変!、おかしい」と思ったので、
断れるものはすべて断っていました。
今になると、この判断は正しかったと思います。
当時、マスコミの寵児と言われたスター達は、
名前も思い出すことができません。
デザインに関わったコンサルタントとかコーディネーターは、
消えてしまっています。
私自身、仕事は、Apple本社とのProjectに関わっていたので、
日々充実していました。
1992年夏、箱根で「マルチメディア国際会議」が開催されました。

この国際会議には海外から600名、国内は企業トップ達200名でした。
これだけの国際会議は以後も経験したことが無い大規模なものでした。
民間人はたった4名で、3日間ともに参加していたのは、
松岡正剛氏と私だけでした。他の著名な方は会議内容がわからなかったから、
すぐに帰ってしまったのだと思っています。
この時から、松岡氏との交流が始まったのです。
主催しているApple社には、会議中にも関わらず、
途中、途中でプレゼンテーションを当時会長だった
ジョン・スカーリー氏にしていた。
この会議をすべて統率していたのは、現・マクドナルドの原田社長であった。
そして、この時の基調講演は、以後、私の「情報」への視点を大きく変えた。
そして「的中」していることでした。
Dr. Gordon Moore
基調講演のキーノートスピーカーはDr. Gordon E. Moore氏?でした。 
「ムーアの法則」を提言し、時代は彼の法則を実証しました。
彼の講演では三つのことを語ったのでした。
土・ガラス・空気
これからの時代、コンピューター・パソコンは、
● 「土」・・・これはシリコンを意味していました。
● 「ガラス」・・・これは光ケーブル=光通信です。
● 「空気」・・・これはインターネット・空中に情報です。
そして、私はこの会議で、スカーリー会長が、
「マルチメディアは意味が拡散するだけだから、
Media Integrationへと収束する方向を創ろう」と
プレゼ会議での発言に感動し、
今日まで、私は「何がMedia Integrationか」を、
デザイン領域の中で追いかけてきたと考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「*棒鞘の日本刀・日本の美学*」


   


     2月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

棒鞘
1300年中期、南北朝の時代です。まさに、戦国時代。
後に始まる鉄砲、それが無い時代ゆえ、武器は日本刀のみ。
日本刀といっても、まだ、洗練される以前の形態。
北陸には京からドロップアウトしてきた刀匠がいました。
その中に、千代鶴国安(二人説もあり)がいました。
「越前打刃物」の祖です。
草刈り鎌の発案者と言われています。
さて、刀は作っても作っても戦国の世では消耗品でした。
刀より、それを納める鞘が間に合いません。
そして、生まれたのが、棒鞘でした。
生木を漆にドブ付けしただけのモノでした。
ところが、北陸で打たれて作られた刀は、
太く切れ味は抜群でした。折れなくて重量がありました。
だから、
棒鞘を下げている野武士はそれだけで威嚇できました。
まさに、棒鞘の刀は「切れ味」武器そのものでした。
この棒鞘の刀が後世残ったのは新撰組の近藤勇の刀です。
日本刀が洗練されていくには、二つの要素が必要でした。

● 機能性=性能性が素材の革新によって、高質軽量になる。
● そうした機能性が「象徴」化されて美的効能性となる。

日本刀

やがて、サムライにとって、刀が、
「武士の魂」と呼ばれる「美学性」に高められるのは、
言い換えると、
「イノベーションとシンボル化」です。
つまり、
モノの存在性が、「美学性」を獲得するには、
こうしたコンテクストが不可欠であり、
さらに、シンボル=象徴によって、
あらためて、モノと心=魂=いのちの核心が、
一体化しなければならないのです。
「かたち」という存在と「いのち」との結合が、
日本人の「美学」だと、私は考えます。


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