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Posts Tagged ‘不幸’


『南北戦争でなぜ北軍が勝利したのかは銃器だった』


   


     12月 10th, 2018  Posted 12:00 AM

米国に初めて行ったのは、アトランタでした。
ここで、南北戦争のジオラマを見ました。
これは私が見たジオラマで、最高の仕上げで、
それ以降は、ジオラマを見る時の最大の資料となったぐらいです。
奴隷制存続に、北軍が解放を叫び内戦が起こりました。
そして北軍=共和党、リンカーンが「奴隷解放宣言」を謳いました。
それこそ、リンカーンはあくまでも、南軍=民主党から人を引き抜き
味方を増やしていき勝利と平和を導きました。
共和党は今も、リンカーンに代表される国際的な平和を求めています。
しかし、現代のトランプ氏に至っては共和党を全く信用できません。
そして、南北戦争での勝利要因のひとつには、
北軍と南軍の銃器の選択にあると考えています。
北軍はミニエー銃であり、
その中でもスプリングフィールド銃で戦いました。
この銃器は、性能が極めて高かったと思います。
一方の南軍は、ドライゼ銃で性能的にはかなり遅れていました。
両軍の使った銃器に大きな差があったのです。
それこそ、その当時の南北戦争の情報が入り、
幕府と維新との銃器は、維新軍がスプリングフィールド銃だったようです。
初めての米国から数十年後、ワシントンの領事館職員の方々に案内され
リンカーン記念館の巨大石像にも対面しました。
また映画「ホワイトハウス ダウン」
(内部テロの危機的状況からSP志望がヒーローとなり救出映画)では、
オープニングとエンディングには大統領専用ヘリコプター機がその像の
前面プールの水面を飛ぶという印象的なシーンで構成されています。
北軍=共和党が今頃になって、トランプである必要は無いと思います。
トランプ・習近平・プーチンに牛耳られる我々には不幸であり、
大惨劇が待ち受けているのでしょうか。
もう一度、米国人はリンカーンの奴隷解放を思い起こしていただきたい。


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『障がい者雇用における差別解消の管轄理財』


   


     11月 29th, 2017  Posted 1:30 AM

本を読むと頭が痛くなる、という人は不幸だと思います。
幸運にも私の家には、
角川の日本文学全集と平凡社の世界文学全集があり、
この本を読むと祖父から10円貰っていたと思います。
そして、最も毎月号の「ジュリスト」が壁一面にありました。
恐る恐る読むことは出来ず、その毎月号を定規で傍線を引いて、
勉強していると思ったのは、父がこの月刊誌を読んでいる後姿でした。
この本は最新の「判例」が掲載されている弁護士や検事・判事向けでした。
父はこの本でノンキャリアから警視正となり、刑事部長で退任しました。
久しぶりに、そうだ、「障がい者雇用の現在」を知る必要があり、
格段の「障がい者雇用における、差別解消事例」を知りました。
パワーハラスメントは、「疑わしきは罰する」が現在です。
ところが、障がい者雇用における差別解消の判例は、
「障がい者職業生活相談者」は、資格認定が徹底しており、
「合理的配慮指針」が見事に法令化されていることでした。
それは障がい者に対して不当な差別的取り扱いも詳細に決定、
荷重な負担無いにも関わらず、
「合理的な配慮を提供」しなかった場合、
差別解消は「当然」とされているのです。
これには、それこそ一般的な「管理」が二つあることの再認識化です。
「管理」には二つあります。
「監督理由」と「管轄理財」ですが、日本のほとんどが、
「監督理由」という、上から目線のいわゆる言い分け押しつけです。
これは、監督=Director 理由=Reasonであり、
もう一方は、管轄=Sharing 理財=Managementです。
すでに管轄理財は、雇用環境の差別無き組織だてなのです。
しかし、わが国は今なお、
上から目線で管督も監督とする考え方が蔓延していることです。
「管轄理財」なら、雇用における差別無き合理的な適用の配慮が、
とても行き届くということです。
デザインにおける制度設計には、
管轄理財の合理的配慮の提供が簡単だと言うことです。
デザイン=問題解決は、形態設計と制度設計だということです。
多分、この文章を読んで頭が痛くなる人には
合理的配慮は不可能な不運さが、あって、
それは罰せられるという事態になるでしょう。

* 『皆既日食と太陽フレアが風景の予測シグナルかも』
* 『曼荼羅とDNAホログラムの位牌・もう一つの仏壇』
* 『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』
* 『手話通訳という職能はボランティアでは無い』
* 『硯箱を整理しながら・・・』


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『皆既日食と太陽フレアが風景の予測シグナルかも』


   


     9月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

「風景」を成立させる自然現象には人類に幸不幸がもたらされます。
なぜなら、風景は、彗星が地球にまで落下するかもしれない。
月食と日食、そしてとんでもない暴風雨、
この四つが風景と中国古典、易経を筆頭に書かれていたのです。
しかし現在、風景は「見晴らしの景観」という認識になっています。
特に太陰暦は月の満ち欠けと満月が日本江戸時代の古代暦でした。
それはムーンフェイズの時計が太陽暦であることを補足しています。
つい先日、元私の秘書だった女性がともかく米国へ日食だけを見に行って、
そのことをFBにて書いていました。
皆既日食は、本当に太陽が月の後となって、
一時、暗闇に包まれたという感激を伝えていました。
私は直感で、不吉感が走りました。
それはこれまでの歴史においても、月食と日食には、
とんでもない自然現象、たとえば大地震や大津波があったことは確かです。
そうしたら皆既日食で「太陽フレア」が起こったという報道がありました。
まさに、風景が人類に知らしめる自然現象での悪しき風景異変が発生です。
まず、地磁気嵐が起こる、大地震が起こる、という具合です。
どうか、大地震が日本に起こってほしくないという願いは祈りに至りました。
今、太陽フレアや太陽黒点の変動が、成層圏に大きな影響を与えること、
これがかなり詳細に検証され始めています。
案の上、北朝鮮は地磁気嵐ゆえにGPS使用は不可能ゆえ、
ミサイル発射をこれは幸運なことに見送った(未定?一部推測)というのは、
真逆の思考では、GPS不安ではミサイル誘導は出来ない程度の技術力、
これは安堵しますが、皆既日食が人類への信号だとすれば、
大地震、大津波、大暴風雨が絶対に起こらないことを祈るだけです。
人類はようやく太陽フレアがあると、
それこそ地磁気嵐が成層圏にまでの影響が甚大な不幸を呼び込むことまで、
やっとそこまで人類の予知では無く予定まで到達したようです。
地震は確実に成層圏の異常状態を連動させるのかも知れません。
光景は、生と死、光と闇の関係の象徴論であり、
情景は、人間同士の幸不幸を決定しているという、太陰暦的な予知?
この古代予知は正しかったのかも知れません。
景観と景気はすべて太陽と月との何らかの関係があるのでしょう。
光景は自然と自然、風景は自然と人類、情景は人類と人類、
これを占いでは無く予知では無く、幸不幸の予測的確かと思います。

* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」
* 「月齢表示・ムーンフェイズが暗黙に指示しているかも」
* 『「時計」はデザイン対象、デザイン力量が試されている』
* 『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
* 「幸不幸の連鎖の中で」


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「幸不幸の連鎖の中で」


   


     10月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

日常性が忘却させてくれること、
それは、生きていることが死にむかっていること。
そして自分には起こらないであろう不幸さと歴史観です。
3.11は私たち日本人に、3万人の同胞の死と、
被災した人たちそれぞれの多様なる不幸な事件性でした。
ひょっとすると、いや実は、
人類は不幸さを引き込み始めているのかもしれません。
2012年には、世界的に「政治的な指導者」が不明です。
もっともわが国には政治的指導者を失ったままですが。
昨年9月に私は東芝の原子力研究所を見学しました。
「貿易立国日本は、20年は安泰」という確信しました。
つまり、私の生涯は安泰な日本国民という認識でした。
しかし3.11はこの思いを粉々にしてくれました。
幸運であることと幸福であることは、
中国の古典どおりに「幸不幸」の狭間にあることを、
あらためて再確認させられたのです。
28歳で車椅子生活になった私が、
東京を離れる決心をしたのはジョンレノン暗殺でした。
「青春が終わった」という自覚を自分決着させたからです。
3.11以後、東芝にて「復興計画デザイン」に参画しています。
1000年に一度など自分の生涯に重ねたくもありませんでした。
この哀しみの想いにずーっと引きずられてきました。
「復興計画・25のプロジェクト」を書き上げました。
声高な脱原発論でこうしたプランが進行するわけがありません。
東京中心主義を離脱した「日本再生プラン」こそ、
「復興計画から未来デザイン計画」であるべきと考えています。
「幸」とは元来、両手を縛られた不自由さを意味しています。
しかも、私は「電池切れ」、「節電」どころではなく、
ようやくあと5年の「生」が最低保障されたところです。
1000年に一度の「幸不幸」の狭間をしっかりと体験すること。
これこそ「幸運」なことと考えるようになりました。
父母・恩師の死から、ジョンレノン、そしてジョブズの死、
私の生涯での「幸不幸」を、
大津波の廃墟写真を見つめながら勇気を抱いて、
慎重大胆に自分の生涯に引き込んでやろうと考えています。

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「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」


   


     4月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

天災・人災を日本人は直視。
不幸な時代に入ってしまいました。
誰もが幸運で幸福でありたい。
そういう意味では日本は「楽園」でした。
しみじみと今思い起こしています。
私は講演でも、時々、デザインが幸福に直結する話をします。
それは私自身が、車椅子生活になったことは「想定外」でした。
しかし、私が交通被災に遭うかも知れないことぐらいは、
絶対に想定しておくべきことだったのです。
それでも、身体障害者・心臓障害者になったことが、
最初は自分の「不幸さ」をどれほど自分に詰問したことでしょう。
ところが、今では、だから幸運だったとさえ思っています。
さて、「幸」という文字はもちろん漢字ゆえに古代中国発祥です。
「幸不幸」という文節として登場しました。
すなわち、「幸」であるのか「不幸」であるのかは、
神に試された結果だという物語です。
断崖絶壁に立たされていて、神が背中を押して突き落とすのです。
それでもその絶壁を登り直して、
生きながらえることを「幸」と呼び、
その断崖から突き落とされたままを「不幸」という話です。
その「幸」という文字は象形文字であって、
両手首を縛られていて、手の自由を奪われている姿です。
いうなれば、人間が「幸」であるというのは、
実際は「自由の無い、不自由な存在」こそ「幸」なのです。
だから自由平等などは人間には備わっていないというわけです。
不自由な存在が人間と考えればどれほど自分が救われるでしょう。
「幸運」であろうが「幸福」であろうが、
基本的には不自由な存在として「生きる」ことです。
自由なことなどあるわけがありませんが、
自由になれるのは、「想像力の中ではとても自由」です。
私自身は「歩けない不自由な存在」。
「いつ大きな心臓発作がくるかもしれない大きな不安ある存在」。
私がここから抜け出ることができたのは、
「想像力」を源泉としてモノのデザインが出来る職能だったこと。
さらに、それをもっと強化してもらえたのは、
スーザン・ソンタグ著「隠喩としての病い」での解釈でした。
「病気と対峙していくことは市民の義務」(原文ではありません)。
これから、この国・日本の私たちは「不幸」を自分の人生に、
それこそ想定外に背負い込むでしょうが、
「想定外」とは想像力が無いことですから、
本当に「不幸」と成ってしまうのは、
目の前の大きな断崖絶壁を不自由ながら登っていくことです。
私自身、なんとか交通被災から絶壁を登りました。
けれどもまた大きな断崖絶壁を直視しています。
登れる限り登っていくつもりです。
私の特技は、結構自分で「これはヤル」と決めたことは、
必ずやり遂げることです。
頑張ることでもなく努力でもありません。
努力なんて、必ず報われる訳など無いのですから、
「これはヤル」と自分が決めたことは、
必ずやり遂げていくことが「生きる」ことであり、
そうすれば、両親や祖父母にあの世で会えるだろう、
そんな想像力の中では、絶対に「自由」なのです。

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9月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 16th, 2010  Posted 10:00 AM

9月16日 仏滅(己巳)

人は体験を聞かされることが、
物事を「知る」うえで、
最も鮮烈に意識に蓄えられるに違いない。

特に、他人の不幸な体験や、
笑いや哀しみほど、
自分の気持ちのひだに貯まっていくのだろう。

『デザインは言語道断』知行


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『資本主義からの逃走』
    「伝統工芸産地と波、幸運なスタート」


   


     7月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

自問自答の始まり
「そんなに、デザイン、デザインと言うけれど、
デザインで産地は生き返れるのか?」。
この言葉を投げかけられたことをいつも思い出します。
以後この自問は忘れたことがありません。
私の東京でのデザイナー経験が「何だったんだ」ということになります。
この自問自答に思い悩まなければならなくなった初体験でした。
私は、今も現役で、デザイナーとして製品開発から商品展開をしています。
が、この「問いかけ」を常に抱いています。
伝統工芸と波
30歳でした。ふるさと福井に帰って、もちろん仕事も無く、
夕焼けの日は、日本海に沈む夕日と波を撮影するために車で出かける日が連続していました。
興味の対象は「波」でした。
「波」のかたちは、決して同じかたち=形態のものはありえません。
そして、音響をデザイン対象にしてきた経験は「音波」でもあったわけです。
色彩も「波」でした。
私の中では、これから取り組む「伝統工芸・越前打刃物」と「波」が共存していました。
これが、今考えると「幸運」だったのです。
車椅子生活になったことは「不幸」でしたが、
「幸」そのものが実際はとんでもなく怖いことを示していることを知っていましたから、
「幸運」はすぐにやってきていたのです。
しかし、伝統工芸産地の職人さんたちに、
「だから、デザインなんだ!」と言い切れる自信は、まったくありませんでした。
その「自信」獲得のために、私はデザイナーとして振り出しにもどされていました。
私に覆い被さってくる「波」の形態を見定めるスタート地点では、
「歩けなくなった私」と「車椅子を必要とする私」を見詰めていました。


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