kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘プライベート’


2月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 21st, 2021  Posted 12:00 AM

2月21日 仏滅(庚子)

『基層としてのデザイン』

愛用するという、
いわば単純で
プライベートなパロールを、
実は、
人生のそして人格の
ラングに収めモノとの
対話の日常語に
しておかなければならない。

artificial heart:川崎和男展


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2月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 6th, 2021  Posted 12:00 AM

2月6日 赤口(乙酉)

『反戦としてのデザイン』

プライベートな平安を重ねて、
パブリックな平安に
配置し直すこと。

artificial heart:川崎和男展


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「来年の手帳は選びましたか?」


   


     12月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

iPhone、iPad以前、PalmTopの時代にも、
「手帳を持ち歩く」ことは辞めようとしてきました。
しかも学生時代・就職後も毎年毎年「手帳選び」には
悩んできました。
iPadで、すっかり手帳を辞めると決意しました。
しかし、どうしても手帳はなんとしても必要と判断しました。
私のスタッフ・学生も全員、iPadを使っていますが、
昨年、私から、自分がこの人からのメモという場合には、
絶対にノート、手帳、メモ形式、筆記具も含めて選び抜くこと。
このようなルールを作りました。
それは、手書きメモの重大さと文字を美しく書くという身体化を失う。
私自身、iPadでの手書き文字に美しさが無くなると判断したからです。
最近は、スタイラスの進化ですっかり「草書体」・「楷書体」まで、
iPadでは可能になりました。
この季節=歳末年末には、書店・文具店始め、websiteでも
様々な「手帳」が膨大に店頭やお知らせが満載です。
11月に入ると、私は二つの手帳を注文しました。英国製と日本製
これまで、日記帳・手帳はどうしても迷い抜いて、
「一つ」に決められませんでした。
これは不幸です。
「手帳で望みがなんでも適う」という類いの書籍もあります。
それはその人だけの自己修練、
男ならダンディズムが決定した人の特権。
私は、ようやくそろそろ人生引退の季節になって、
二つの手帳に出会いました。
いづれ、私の使っているモノを紹介したいと思っています。
しかし、これはやっと私がたどり着いただけに、
極めてプライベート、プライバシーのことかもしれません。
なにしろ、デザイナーとしてのSketch BookやMemoなど
膨大に悩み膨大に収集までしてしまっているというわけです。
筆記具、絵の道具、書道具からデジタルペンまで、
この収集は、ワイフから「また買ったの」と言われる始末です。
万年筆・硯と筆・和紙、そしてデジタルペンも、
語り尽くせない私の世界です。
オーディオ・鉄道模型から、デジタルペン、青い小物、
だから「手帳」もほとんど世界的な歴史や伝統性を
自分自身にも照らし合わせて考え。選び、使いこなして、
いや手帳に限っては「使いこなしてきた」とは言えないのです。
しかし、ここ数年、手帳は決定したモノを使ってきました。
2011年、わが国は多くの同胞を失い、国家が破壊しました。
なんとしても、来年に向かって、
この「国難」に対する自分自身のジャーナリズムツール、
それは「手帳」でしょう。
ジャーナリズムとは「日々の記録」です。
そして、「手帳」と「手帖」は日本の記録ツール、
明確な伝統性があります。
あらためて「手帳」、
来年の「手帳」への態度を決めたいものです。

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『資本主義からの逃走』
「マスメディアの傲慢さは権利だけを主張、義務に気づかず」


   


     3月 26th, 2010  Posted 2:05 AM

Blog=日記形式
私はブログが流行りだしたときにブログが「日記形式」に、
偏在して拡大していくことをかなり激しく否定しました。
そのおかげで、私も相当に非難されました。
私には、ブログが「日記形式」だけになると、
日記形式の「日記内容」が、プライベートの確認になる、
そんなふうに危惧し過ぎたのです。危惧でした。
Privacy
プライベート、すなわち「プライバシー」という定義は、
20世紀、特に大戦後はその定義は幾たびも変貌しました。
特に、法律定義として、法律術語として書き直されました。
だんだんと定義内容は複雑にならざるをえなかった言葉です。
プライバシーとは、
元来は単純、「他人から観察されない状況や状態」でした。
ところが、他人と自分との関係が膨らんでいくのです。
「他人から観察されない権利であり、
自分からの発信する情報、
その情報すら他人から保全される、
発信することも受信することも、社会的な観察・監理などから
まったく自由で解放されている」、という
きわめてこれこそ「民主主義」という極論に至ってしまったのです。
私は、このプライバシーやプライベートの権利主張は、
完全なる間違いだったことを指摘します。
完全なる間違い
「完全なる間違い」と断言するのです。
おそらく、この一方的な見解に、
またまた批判や非難が集中することでしょう。
構いません。受けてたちます。
なぜなら、「民主主義の偏り」は「自由主義」にあるのです。
「自由主義的な権利の主張」、あるいは、
権利の主張が自由主義、これこそ大きな間違いなのです。
そこに、「マスメディア」こそ「民主主義の代弁者」という、
とてつもない思い上がりが重なってきたのだと思います。
したがって、
新聞・TVなどのマスメディアは、
個人のプライバシーを、「知らしめる権利」とまで置き換えました。
有名な世相評論家の言葉があります。
「私は、正論で評論を書くのか、
あるいは、
反論で評論するのか、は、マスメディア企業方針で」です。
私が、プライバシーがブログで「日記形式」に偏ることを
最も危惧したのは、
このプライバシーをマスメディアが攻撃する、
そんな権利を宣言されてはたまらないと思ったからでした。
ところが、逆転したのです。
理由は簡単でした。
権利と義務
ブログの日記形式には「発言する権利の前に義務」をつくしていたことでした。
どのブログも、日記形式と内容は自分自身の意見吐露でした。
となれば、マスメディアは彼ら自身の「義務」にさえ気づかず、
「権利」ばかりを「表現」してきたことだったとも言えます。
これこそ、マスコミの傲慢さと暴力性にまでつながっていたのかもしれません。


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