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Posts Tagged ‘デザイン’


『タバコ・喫煙再開せず』


   


     1月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

心臓を痛めてからやむなく禁煙。
浪人時代にすでにこっそりと喫煙をしていました。
浪人時代、ふるさとから大阪にもどろうとしていた時、
母は私にチョコレートをくれました。それを見ていた父が、
「もうすでにタバコを吸っているだろうそれならコレをやる」。
すでに喫煙している私を見透かしていた父から、
いわゆる洋モク、ロスマンズを3箱もらいました。
しかし、父は、洋モクは自分が働くようになるまでは買うな、
そう諭されて、時々、まったく喫煙していない父が、
ロスマンズをプレゼントしてくれました。
デザイナーになってからは、ロスマンズを吸っていて、
自分がデザインしたオーディオ機器のカタログには常に、
そのロスマンズを広告担当にお願いをしていました。
そんなこともあって、すでに日本では手に入らないコレを発見。
老年期の私は買い込んで吸ってみました。
とても懐かしい味がしましたが、もうとても無理でした。
20年も禁煙していた私にはこのタバコ喫煙は不可能でした。
あらためてパッケージを見てみると、怖い写真が貼ってあります。
禁煙を促すパッケージになっていました。
やはり、タバコはとてもこの時代には不要のモノです。
無論、心臓疾患のために禁煙を果たした私には思い出のモノです。
最近は、禁煙を常にうるさく友人達に言ってきましたが、
その友人も65歳を過ぎても喫煙をしている彼らには言いません。
それは、どうしても喫煙から離れられないのならば、
もう「楽しみである喫煙」には楽しんでもらいたいと思うのです。
だから、このロスマンズを彼らに私の思い出とともに贈呈します。
まもなく、タバコは世の中には不要のモノになるでしょう。


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『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』


   


     1月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

この車輌を準備していただく方々には大変申し訳ないのですが、
車椅子対応車輌として、このデザインは大間違いです。
かねて、グッドデザインの審査員・審査委員長時代に、
私はこのデザインは、認知症の車椅子使用の方々には必要なデザイン、
ということで認めてきましたが、
車輌メーカーデザインの車椅子認識大間違いだと主張してきました。
まず、30分程度の移動なら、車椅子で車輌に乗っていることができます。
しかし、車椅子で車輌内で固定されて乗っているのは苦痛です。
おそらくこうした発言を私はする義務があると思っていますから、
あえて「間違いのデザイン」と言っておきます。
最近は、車輌のシートがそのまま電動車椅子になっているのが、
わが国の進化した車椅子使用者の車輌デザインだと認めます。
先般もベンチャー企業で「車椅子開発」を見ましたが、
これも大間違いのデザインを進めていました。
健常者の人が車椅子に座って移動するのは「腰」を使うことができます。
ところが、車椅子使用者は腰では車椅子移動は不可能です。
明確なデザイン使用者に対応したデザイン設計無くして開発は不可能です。
車椅子にて移動をする障がい者と、
健常者使用車椅子へのデザインは区分・分別されることが肝要です。
また、腰椎・胸椎・頸椎での障害程度によって車椅子デザインは、
それぞれが全く異なることを述べておきたいと考えます。
正直私は1989年から自分のデザインした車椅子(MoMAコレクション)
使ってきていますが、加齢とともに、細部の変更をしてきています。
そしてもはや手動は諦める年齢になってきました。
今、メーカーと「電動車椅子の設計」に苦しんでいます。
なぜなら、私が納得できる電動車椅子が皆無だからです。
したがって、せめて車輌の車椅子対応デザインは熟考と実現を望みます。
また、車椅子使用の運転者のための車輌変更部品設計も、
「国際化」が望まれます。
その詳細については、わが国の制度設計へのデザイン提案が必要です。
高齢社会のわが国はもはやその制度設計が必要になってきたようです。


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『桜=日本という誤った大間違いのイメージ表現』


   


     1月 15th, 2014  Posted 12:00 AM

このことは指摘し書き残さなければなりません。
もし、桜が日本をイメージする表現だとしても、大間違いを、
私は指摘し、この表現に安易に乗っている馬鹿どもを許しません。
100円ショップに、阿南漆で生産されたお椀にすら、
桜がそれらしく装飾されています。
桜を表現するデコレーションのデザインです。
最も安っぽい表現が、なんと日本イメージになる低レベル。
なんでもソメイヨシノを植林すればそれでいいとする有名建築家。
その存在も私は大否定しておきましょう。
なぜなら、ソメイヨシノこそ、日本の桜を台無しにしてきた、
とんでもない存在だからです。
ソメイヨシノを植えれば、他の植物を殺す存在ゆえに、
日本の桜文化も否定してきているのです。
有名建築家なら知識として知り置くことです。
これが見事に中国製で阿南漆の100円ショップお椀になり果て、
その浅薄な知識が「日本表示」のマークにもなり果てています。
桜はまさしく日本を表現するシンボルであるだけに、
その知識の深度が必要です。
浅はかな無知識な「桜」表現を私は全否定します。
それは、日本人の知識人ゆえに、
万が一海外から、「あぁ、とうとう日本人も浅はかな!」という、
そのようなことを言われないためにです。
桜=日本、このイメージこそ、
日本のわび・さびにつながる重大な思想が必要です。
しっかりと、桜のイメージを見ているプロがいます。
そのことを忘れないでいただきたいと思っているのです。
桜=日本このイメージにはまともな思想が必要だということです。


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『端的な社会制度の具体的な改善が必要』


   


     1月 14th, 2014  Posted 12:00 AM

わが国は、一言語一民族の倫理性(最近は低下)によって、
ある意味では優れて整っていた社会制度になっていました。
その具体例として「ゴミ箱・ゴミ収集の社会制度」があります。
私は、海外でも公衆的なゴミ箱にはその国の社会制度を見ます。
過去に名古屋市立大学・芸術工学部の入試実技問題には、
この「ゴミ箱アイディア」を出した経験もありますが、
最高と思える回答はありませんでした。
つまり、この「ゴミ箱のデザイン」には、
背景に社会制度が必要であり、ゴミ分別・収集・廃棄までの大変な
デザインするべきモノとコトのデザインがあります。
最近では、ゴミ分別での焼却システムは技術進化しています。
そして各都道府県の行政システムでのアイディアが条例化、
こうした事実もありますが、普遍性は失っているようです。
とりわけ、「3.11」によって、国土と社会制度は大変革が必要。
ストリートファニチャーのデザインは一新するべきでしょう。
東京オリンピックという具体的な計画遂行時間もあれば、
首都直下型から南海トラフまでの天災と人災への対応を
このストリートファニチャー全体の社会システム革新が必要です。
おそらく、この写真のゴミ箱はJRの待合室にありますが、
万一、地震や津波ではこのデザインは不適合だと思います。
しかし、現在、デザイン教育においても、
ストリートファイニチャーに表現されている社会制度全般、
制度へのデザインシステムづくりが求められています。
ゴミ=塵としてのわが国の東洋的な哲学には、
あの梁塵秘抄があったごとくの知恵=デザイン解決が
最も今求められているということになります。


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『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』


   


     1月 13th, 2014  Posted 12:00 AM

「技術革新=イノベーション」は大間違いだと述べてきました。
それはイノベーションを提示したシュンペンターに戻れば、
一目瞭然です。だから、わが国の解釈が歪んだのです。
たとえば、4KTVが話題になっていますが、
これは「応答商品」にすぎず、TVメーカー業界の技術進化、
そのものが誤った方向に進もうとしながらも、これを、
デザイン職能=デザイナーが是正出来ないほど企業腐敗症例です。
少なからず私の自宅のTV環境は最も先進的だと自負しますが、
これらはほとんどが東芝とSONYと海外AUDIOで構成しても、
かつて私がEIZO(液晶TV事業撤退)でのデザインには及びません。
このペーパーモデル=製品提案と商品を見比べても明らかです。
すべからくTVデザインはTV本体裏面とリモコンデザイン、
この対照化をすれば、技術革新とデザイン解決、
すなわち、応答商品=市場意識と解答商品=真の実装技術が瞭然。
私のデザインでは、放熱口などありません。
すべてアルミでの放熱効果性とコードマネージメントと、
ディスクプレーヤー造形での可搬形態づくりまで昇華しています。
無論、このリモコンを超えられるモノは未だに存在していません。
したがって、東芝最高級品の液晶TV造形・システムも、
SONYの商品を付加し、なおかつオーディオは海外高級品です。
これらをくみ上げてようやく、私なりに納得せざるをえません。
真の「技術進化」を目指すなら、まず、デザイナー造形
この造形提案を技術回答から解答を造形実現の実装技術が必要。
こうしたことの意志決定できうる経営陣の能力、
特に、「美学的解決」知識不足、いや皆無性を指摘しておきます。
多分、こうした経営者は日常的にも「見づらいTV鑑賞」でしょう。
美しい高解像度の映像と音響を知ってほしいものです。
このTVデザインを「技術進化」の踏み台にしてほしいのです。


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『現代妄想には闘い続けなければ大間違いの世情になる』


   


     1月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

TV放映では語り継げないことが多いことは明らかです。
しかし、私の表情を読み取った人たちは多かったのです。
私の恩師はすべてを読み取って二つの感想の電話がきました。
私がプロとして相当に押さえた発言をしていたかということ。
それでもTV出演しているだけの演技もデザインには必要。
私は今この日本が、特に大企業が国家を支えられず、
しかも若い世代は大企業への信頼感すら失っています。
しかし、やはり大企業だからこその真の力、
その偉大さ、尊大さと矮小さまでを識り尽くさない限り、
ベンチャー企業の起業能力は妄想にすぎないものになります。
いくつもの企業体験をしてきました。
特に、モノづくりとコトづくりをそれぞれデザイン対価で
評価判断もしてきました。なぜなら、デザイン対価にこそ、
デザイン職能の価値が規定されているからです。
結果、海外は明快にデザイン対価を取り決めます。
わが国でのデザイン価値とは大きく異なっているのです。
つまりデザイン成果価値をProfitとBenefitで峻別できます。
わが国のデザイン成果価値をそれこそベンチャー企業ですら、
未だに理解どころか分別もできないのです。
そのような企業が30年も存在することは不可能です。
Profitとは「金銭価値」=純利益であり、
Benefitとは「印象価値」=ほぼ経常的な利益と考えられます。
まず、「デザインする」という価値を、
デザイン対価=Profit+Benefitに出来る起業家には才能が必要。
もう私にはその才能も見極めがつくようになってきたと思います。
この自負心が正直に私には表情に出てしまうようです。
恩師にはそれを見透かされていましたが、まだ闘う覚悟です。


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『医工連携など妄想である!』


   


     1月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

どういうわけか、「医工連携」が大流行です。
しかし、医学と工学の連携などは絶対に無理だと語ってきました。
理由は、医学と工学は決して対等になれるはずがないのです。
医師と技師を連携させることは不可能だと見てきました。
実際に「医工連携」での創造物に「美しさ」は皆無です。
だから私の主張は、医学と工学に「デザインが介在すること」、
デザインという接着剤または触媒が絶対に必要だということです。
デザインは機能だからということに大不満なのです。
工学的な機能性が医学的に証明されていても、
決して美学的な存在性はありえません。
たとえば、医工連携を果たしたとしても、
それは必ず、医学的なエビデンスが要求されます。
となれば、技師の努力は医師の証明で成果とされてしまいます。
したがって、「医工連携」の裏側では技師は医学との連携を
本当は望んでいない現実もいっぱい見てきました。
技師が取り組んだとしてもそれは「商業主義」で固まっています。
「医工連携」は私が大学人になって以来、
私は、「医工+デザイン」を常に提示し続けてきました。
もっとあからさまには、医学+デザイン=工学+デザインです。
すなわち、デザインが問題解決・難問解決の実務ゆえに、
医学と工学を真実支えるという実例を提示してきたのです。
それが、現在の私のデザイン活動につながっています。
私が「人工臓器・人工心臓」にデザインを導入した理由なのです。
「Artificial Heart」はArtで始まりartで締められる言葉です。
この言葉どおりに、「人工物」の究極だと考えるからです。
まずもって「医」という略字そのもので、
本来の「醫」の総体を失っているのです。
おそらく、「医学+工学+デザイン」にならない限り、
医学と工学は完成して「命」に関わることは不可能です。
「医」という漢字の曖昧さをデザインが補強することを
「医工連携」に関わる人には識ってほしいのです。


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『カンブリア宮殿にて、デザイン職能をもう一度』


   


     1月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

4年ぶりにTV番組に出演しました。
正直に「よくまた日本復活にデザインを」という想いでした。
TV番組の趣旨にデザインを選んでもらったことが一番嬉しいことでした。
バブル以後、いや、私がデザイナーに成って以来、
どれほど「デザインは問題解決の実務」だと主張し続けてきました。
が、現代の経営者で「デザイン意義」を知らない人物、
つまり、美学性の無い経営者たちによって、
この国は大切なもの、大事なことを失ってきてしまったと思っています。
そのことで経営者たちとぶつかることで、
私自身の活動までが疎外されてきました。
私はこのことを「必死」で言い残す覚悟でいます。
万一、その発言で封じ込められることがあればあるほど、
美学無き経営者の「生き様」は惨めなものになるでしょう。
その一端をこの番組で表現できなかったかもしれません。
その意味も語り残す必要がありそうです。
デザインの効用と効果をできる限り伝えたいと考えています。
1月9日に放映されます。

【カンブリア宮殿】
・放送予定日:2014年1月9日(木)よる10:00 – 10:54
・放送局:テレビ東京系にて放送
・詳細はこちら>>


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『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』


   


     1月 6th, 2014  Posted 12:00 AM

年末年始は、ロボット学者とロボットベンチャーとの
忘年会と新年会で今年はスタートをしました。
昨年末、いわゆる「玩具」である「オウム返しするおもちゃ」を
私は見つけて、それなりにワイフとこのおもちゃに対して、
二人で言い合いをしていました。
私自身、ロボットに関わってきて、
「ロボットデザイン基礎学」をいくつかの大学カリキュラムを
書き上げて提示もしてきました。
私のロボティクスには、AIBOをGマークにするかどうかで、
哲学者・中村雄二郎先生からの教えが基本になっています。
わが国は世界的にもロボット先進国と言っていいでしょう。
しかし、ロボティクス学には私は三つの間違いがありました。
それが明白になったのは、人災であった3.11原電事故があります。
● 膨大な研究費でのロボットは原電事故に全く未対応
● ヒューマノイドとメカノイドでのロボット研究に分離
● デザイン介入に大きな過ちが入り込んでいた
これが私の見解でした。
幸いに、メカノイド系とヒューマノイド系は、
現在はアンドロイド系とナノマイクロ系に分離しながら、
私も大学人にて「ロボットデザイン基礎学」を蓄積してきました。
その結果は、「身体論」と「形態論」、
さらには、「モノの体系」で指摘されたロボット言論があります。
そして、今では「玩具としての具体」は、
「おもちゃゆえの安心的な存在」に至って商品化されてます。
この二つが私はその象徴的な「モノ・ロボット風存在」です。
一方は単なる景品であり、一方は「リピート」存在です。
さて、問題は結局、玩具から兵器までが、
果たしてあの「不気味の谷」での論理と、
これから人工物としての人間あるいは人間社会との関係性です。
だから、環境デザイン=ロボティクスデザインであることを
わが国は根本からの再構成が必然だと確信しています。


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『ブログご笑読ありがとうございました。』


   


     12月 28th, 2013  Posted 12:32 AM

今年は、毎日連載することを時々休筆させてもらいました。
来年にはこのブログも8年目になります。
65歳になりますから、書き残したいことはまだまだあります。
しかし、休筆が続くと最近は読者数が減ってきています。
私には、特にデザイン・デザイナーとして、
書き残すこと、その内容に対しては自分の厳密さが増えています。
読者数が減っても、私は自分の思考と創造を明確にするには、
このブログは重大です。
あらためて、65歳の自分を「ことば」にしておくつもりです。
よろしくお願いします。


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