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Posts Tagged ‘オーバーヘッドプロジェクター’


「レーザーポインター、今はコレ」


   


     5月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

レーザーポインターは、プレゼンの重要道具。
パソコン以前には、
オーバーヘッドプロジェクターとスライドプロジェクターが、
画像プレゼンの機器でした。
1984年にMacintosh128Kが登場してプレゼンは一変しました。
その後、Macintosh SEには、そのオーバーヘッド自体が
透過型液晶にエンハンスメントしてプレゼンが可能になりました。
このシステムでのプレゼンを福山市のデザイン会議で使いました。
おそらくこれがPowerPoint1.0、日本初だったでしょう。
こうした革新は、1988年だと記憶しています。
なぜなら、Illustrator88とPowerPoint1.0(白黒)、
さらにはPostScriptというOSが華々しくデビュー、
レーザープリンターを米国から持ち帰り、税関で喧嘩しました。
88年からMacWorldが全盛期を迎えようとしていました。
その時に、プレゼンソフトはもとより、
追い求めたのが、CADとレーザーポインターでした。
10数本は使ってきたと思いますが、
現在は、これだけになりました。
スタートレックのガンを模倣したガジェットも、
音がして愉快な製品ですが、
最近は真面目にこの3種であり、発光色もグリーンです。
USBで、画面コントロールから時計機構があり、
プレゼン終了告知でバイブレーションしてくれます。
ところが最近では、大型液晶60インチを使うこともあります。
その時にはこうしたポインターは役に立ちません。
5月25日夕方、Apple Store 銀座で、
iPadでのスケッチ技法を紹介します。
おそらくこのポインターを持参することになるでしょう。
出来ればもっと新たなポインターの
デザイン革新が望まれます。


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「フリーランススタートの頃」


   


     4月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

関東労災病院でのリハビリテーションを終えて、
私は赤坂にデザイン事務所を開設しました。
1978年でした。
まだ東芝社員のままに独立を許諾されたのです。
ただしオーディオ関連以外のデザインに従事することが条件でした。
しかも給与は支給されていました。
ただの直感でデザイン事務所名は「Super Edison」でした。
技術・エンジニアリングを意識し、
「デザインは発明でもなければいけない」
という柳宗理先生の思想を込めたネーミングでした。
たまたま、米国人のモデルがガールフレンドの一人だったので、
彼女は来日すれば仕事休日に、モデルとして手伝ってくれました。
それで、デザインスタジオのプロモーションスライドづくりです。
当時は口コミだけでデザイン依頼をしてくるクライアントに、
「Super Edison」のスライドとオーバーヘッドプロジェクターで、
スタジオでのデザインワークプロセスなどを見せていました。
工業デザインの仕事よりも、
イベント企画や商店街活性化企画をしていました。
とてつもなく大きなイベント企画ばかりしていたようです。
ちょうどピンク・レディー全盛期で、
新宿で新築の最高層ビル「野村ビル」屋上で、
紅白歌合戦終了とともに日本で最大の鐘を突き「ゆく年くる年」をやる。
そのために高岡で鋳造されている直径2mの鐘を東京まで陸送、
それは陸運会社のTVCFにし、
屋上には陸上自衛隊のヘリコプターで下ろしてもらうという企画、
実現いよいよとなりました。しかし、
澁谷のNHKから新宿まではパトカー先導ということまで決まったのですが、
没になりました。
ある仏教系からの文句が大きくて
「とんでもないそれは除夜の鐘の冒涜だ」という批判で中止になりました。
東京のある商店街通りに、
パリのごとく「花街道」にしようという企画、
そのために花咲く季節前にビニール栽培をしていたら、
その花が突然すべて枯れるということもありました。
それから3/4インチビデオ撮影スタジオ業もやり始めていました。
また新宿に高層ビルが竣工となり、
その屋上にハリウッドから実寸の映画モデル「ゴジラ」を座らせる、
なんてこともスタッフがハリウッドの演出会社を説得し
船便で運んで来る企画も実現間際に、
消防庁の許諾どころかお叱りを受けたりしました。
すべてが失敗していたわけではありません。
晴海埠頭にあった晴海の見本市会場では、
「日本オーディオフェア」で展博ディレクター。
1988、1989とあるメーカーを人気No,1にしたこともありました。
東芝時代には東芝でのディレクターをしていたので、
開催前日、ディスプレーデザインのチェックには
会場内まで自家用車・当時はGMの「モンザ」で乗り付けると、
顔なじみの展博屋さんたちが大拍手で迎えてくれました。
「よくがんばったな」
「生きていてくれてありがとう」
「流石にまったく新しいディスプレーだ!」
「車椅子になったからさらに神がかりな展示だ」なんて言われて、
長髪の頭をみんながぐちゃぐちゃにしながら撫でて喜んでくれました。
(あぁー、自分はオーディオのこの世界にまた戻れた)と、
大笑いしながら泣きました。
毎日、でかいイベント企画、その発想の楽しみを懸命にすることで、
寿命は40歳まで(当時のドクター診断予知)という重くて真っ暗闇、
心に突き刺さってくる「哀しみ」と闘っていました。
1%の精進で 99%は死に向かっていく諦観を心に留め、
ともかく明るく振る舞っていました。

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