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Posts Tagged ‘大学人’


「『MAKERS』の正しい受け止め方」


   


     5月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

「資本」の解釈を決して誤ってはいけません。
自然資本主義という認識を鵜呑みにしないことを
私はプロのデザイナーとして、大学人として記載しました。
そして、ここまでをもう一度書き残します。
「MAKERS」という現代流行の読み方です。
この本に多くの人が騙されています。
オバマ大統領の演説にまで出てくれば、なおさらです。
やはり米国の民主党では政治は無理だと断言しておきます。
彼がこの著作で語られた具体的な3Dプリンターで、
「産業は決して革新されません」。
案の上今、光造形データを3Dプリンターでの具体化を見ています。
大統領は、米国中西部・オハイオ州のブルーカラーからの
「票集め」の戦略だと考えておくべきです。
そして、彼の演説にまで登場したわけですから、
英国での政策評論などは踊らされています。
日本には、もともとの光造形発明があったわけです。
勘違いしている国外国家政策を傍観しながら、
「わが国独自の未来づくり」を地道に創成すればいいのです。
先般、NHK批判を私はブログで記載しました。
想像以上の人たちが、この番組をまったく信じていませんでした。
私はあらためて、日本人のバランス感覚と正当な知識判断を
心から敬愛します。
ずばり、言い切れば、「MAKERS」を下敷きにします。
そして、次のことを提示します。
● 3Dプリンターのデメリットが光造形のメリットだろうか?
● 光造形のデメリットが3Dプリンターのメリットだろうか?
この最も具体的なデザインとその造形をいずれ提示します。
そうすれば、おそらく、このメリットに未来への革新があります。
光造形にしろ、3Dプリンターにしろ、
基本的には「精度はまず求めません、特に廉価シリーズは」。
ただし、高額商品なら「精度と仕上がり、さらに造形素材質」は、
当然に必要です。
とりわけ、小玉博士発明の光造形の進化は、
日本のナノテクノロジーでは、進化の真実を歩んできています。
私は現在、3Dプリンターで「MAKERS」に刺激されて、
そこの未来を想像するならば、
わが国独特の手法と実務を、欧米に惑わされずに、
正当な進化を「これからの革新」のための要素にするべき、と、
考える次第です。


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「『学際化』によって危機管理デザイン工学をめざす」


   


     5月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

4月から、大阪大学大学院を一旦退任し、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設しました。
その基本となるように危機管理デザイン工学を
定義可能かどうかを、どこか学会に論文提出を考えていました。
幸運にも、日本機械学会誌から依頼論文をいただきました。
私にとってと講座学生にも、
これは大きなチャンスになりました。
依頼論文は4頁でしたが、
デザインと機械工学、この二つの学域を「学際化」論にしました。
連休前には準備論文を殴り書きしたら6頁にもなってしまい、
大慌てでこれを削り落としながら、
かえって、論旨を短くすることが出来ました。
そして、その論旨を図解化することや、
図解をしながら、再度論旨の要点をまとめることに繋がりました。
韓国から帰国して、
あらためて、原稿締め切りを確認したら、
当日が締め切りということで、またもや大慌てになりながら、
自分を集中させて取り組みました。
まだ描き終えていなかった図解も、論旨検証をしてまとめました。
一応大学を退任して、特任教授という立場になったからこそ、
今年は正月から論文を書くことができたのかもしれません。
正直、大学退任時期になったこともあって、
いくつかの学会を退会しましたが、
残っておくべきだったかもしれません。
もっとも、今、寄附講座選任での博士後期課程学生もいます。
このところ、論文作成に向かいながら、
「デザイン」は、科学=知識体系=分科学の統合に対して、
学域の接着剤のようなものだと実感し直しました。
なんだか、落ち着いて、これまでのデザイナー・大学人、
この二つの実体験を「ことば」の集大成=論文化可能です。
私に残された時間を常に意識するようになりましたが、
かえって、次世代、次・次世代に書き残すこと、
本当に増え続けている気がしてなりません。
私のこれから大学での大きな役割は、
「学際化」するデザインの実務だと思っています。


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「三つの革命を促してくれた『光造形』デザイン」


   


     5月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

私は大学人を選んでもう18年目になります。
なんとしても自力でやりたかった事が「光造形」でした。
それ以前に心臓発作で何度か倒れて、
結局、162日間入院して担当医への質問攻めをしました。
流石に担当医は、一般書から専門書を私に貸していただきました。
私は人体が中空な物の集合体だと思ったのです。
「光造形」は大学でそれなりの設備が無ければ不可能でした。
様々なトポロジーの代表形態を想像力で、
当時のEWSと3D-CADでは、とても困難でしたが、
とりわけ、私を惹き付けていたのは心臓でした。
それは私がやがては「心臓障害者認定」までなりましたが、
これは見事に空洞の中に中空なパイプがトポロジー空間でした。
私は、次の三つを次世代の革命と予想して、
講義や講演ではその具体例をグラフィカルに見せていました。
  ● 遺伝子革命・・・iPSが具体例
  ● 光重合革命・・・光造形から3Dプリンターへと進化
  ● 電磁波革命・・・エネルギー(水・食糧・電力)を意図
この三つの予測はほぼ的中していたと思います。
それでも、おそらくデザイナーとしての半分は、
この進化や連鎖を思考し、具体例を「見える形態=言語」へと、
私は様々な概念や理念で希求してきたと思います。
もっとも私はデザイナーですから、
その世間的な信頼性はいつでも、
「デザイナーは外観の造形専門家」とみられてきました。
しかし、美大時代から、
「デザインは造形という手法で問題解決を提示すること」でした。
したがって、
遺伝子革命や電磁波革命は、
私の科学性=知識性を高めてくれましたから、
直接的ではなくとも、
私の「造形手法での問題解釈」を支援してくれました。
そして、「光重合」では光造形システムから、
3Dプリンター、さらにはこれを取り巻く環境までを知りました。
しかも、この三つの革命は、やっと入り口にきたようです。
私が特に3Dプリンター素材に拘っているのは、
「中空」です。
そうした素材が、「危機解決」という、
人間として生存する日常での最適な応答・回答・解答こそ、
この国難・日本の産業に出来ないかとさえ思っています。


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「手紙、そして私自身の肉筆は大事」


   


     4月 20th, 2013  Posted 12:00 AM

正直、子どもの頃に「手書きでの日本語書き」は鍛えられました。
とても父に感謝しています。
手書きの文字は、今流行の「美文字」だと自負しています。
もちろん、毛筆での文字書きも大好きです。
あえて、今回は時折、メールでなくて手紙を書くことを写真に撮りました。
相手は、私が最も敬愛するクラフトデザイナーの小松誠氏です。
彼の作品はいつもハッとさせられる美しさがあります。
おそらく、
どんなテーブルであっても、彼の食器や特に花瓶を選んでいる人は、
最高に美しさを見極めた人物だと思っています。
彼も私同様に、大学人を退任と同時に「作品集」を出版されました。
食い入るように彼の作品を見て、欲しいモノをいくつか見つけました。
そこで、彼には手紙を書きました。
彼なら、細字が良いと思いました。
毛筆ではないだろうとか迷いもありましたが、
この迷いも手紙への楽しみです。
さて、長らく大学人をしてきて、
日本人は、文字書きがとても下手が圧倒的に多いと思います。
学生には、かなり厳しく「文字の書き方練習」を命じます。
だから、毛筆展などは、見つけると必ず見ることにしています。
ふるさと福井駅には、毎回、県民の「書」が展示されていて、
ソースカツ丼ともどもに楽しみのひとつです。
「書」という文化については、懸命に見極めの技と、
自分も書写したいものがいくつかあります。
したがって、この手紙を書く楽しみのための万年筆収集は、
とてもあきらめる気にはなれません。
すごい万年筆ではとても高額なモノがあります。
買える価格ではありませんが、高額な時計以上のモノもあります。
そろそろ万年筆収集は辞めようかとも思いますが、
そのペンで、「私自身の文字」を知りたいと思うのです。
かつて、ある高名なデザイナーの先生からいつも、
葉書をいただいていました。
無論、その葉書も毎回優れたデザインでしたが、
まだ読み取る力が備わっていなかったのでしょう。
その先生が突然に逝かれてしまわれたのです。
そのデザインされたポストカードと直筆の文字を失いました。
これは私にとって、なんたる不覚なことだったと今も思っています。
それだけに、私は、ポストカード、便せん、筆記具、毛筆は、
すべからく「私自身」だと思っています。
だからこそ、手書き文字は「私の身体」だとも確信するわけです。


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「やはり、持ち物はブルーが基本」


   


     4月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

身の回りをじっくりと見渡して見ました。
そして、とりあえず、最近使っているモノを並べて、
写真を撮って見ました。
やっぱり、ほとんどというか全てがブルーの色のモノばかりでした。
基本は時計と筆記具、そしてネームカードと名刺入れです。
筆記具は、
ワイフから誕生祝いに私が最も評価しているビスコンティのモノでした。
これを選ぶとは、私のコレクションで覚えたのでしょう。
とても欲しかったモノであり、国内入手は難しいと思っていました。
それで、
その万年筆に合っているモノはクロスで見つけたボールペンでした。
ボールペンはデザインのスケッチでは必需品です。
したがって、鞄もブルーのモノを選んでいます。
コレも最近なかなかのデザインです。
さて、ブルーという色は、
海と空の色に別れています。
もっと詳細に言えば、水と水以外の自然の色です。
一般的に「ブルー」と言われる元来の自然からの色彩論は、
すべてをリタイアしたら、書き残そうというのが私の夢のプランです。
時計は、おそらく全てが高級品だと思います。
自分でも「時計のデザイン」をして商品化もしていますが、
かつて、名古屋のマンションで仕事が終わると、
記念に収集をかねて持っていたすべての時計が奪われました。
正直、2年ほど立ち直れないほど落ち込みました。
しかも、その時盗まれた時計は全てがブランド品でした。
いわゆる「デザイナーモノ」は全く泥棒には無価値でした。
そのとき、デザイナーモノの一般的な価値感不足を見せつけられました。
それから、特に「スイス製」は徹底的に工房や職人技を知った気がします。
したがって、時計に関してはどれほど高級ブランドであっても、
市場価値の流れが分かるようになりました。自信を持って本が書けます。
私は、モノに拘らないというデザイナーが制作しているモノは、
きっと残らないモノと判断しています。
それは、私がデザイナーで出発したときに、
上司から、「高級品をしばらく勉強」と言われて、
銀座のある高級品ブランド店で学んだことがあります。
これは私の逸話にもなるので、また、書き残したいと思っています。
ともかく、大学を退官してからどういうわけか、
毎日、論文作成が大きな一つの仕事になっています。
と同時に、
これまで会員となっていた幾つかの学会を退会もしています。
ブルーを身につけることで、
あらためて「大学人の自分」と向き合っている気がしています。


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「赤と白、すぐに目に付く・・・」


   


     4月 7th, 2013  Posted 12:00 AM

私は北陸人ゆえに、
色彩感覚についてはとても厳しく自分自身を見てきました。
理由は三つあります。
美大時代には「色彩論は実技で徹底的に教え込まれ」ていました。
私は金沢美大当時、
山岸教授からの「色彩との格闘」と塗装実習の中谷教授の授業は、
私の「色彩」への徹底的な改造が出来上がり、
デザイナーから大学人になるまで、
まず、色彩関連の書籍収集から現物でのカラーモノ収集によって、
自分の日常に寄り添っています。
だから、私は親友のデザイナーやアーティストには、
しつこく彼らの色彩感覚をよく聴き出します。
ただ、デザイナーで私に色彩のことで質問は、
学生と親友の数少ないデザイナー・建築家・アーティストだけです。
そして、私が気づいているのは、
車倚子になってふるさと福井で「色について」、自分を確認したのは、
秋から冬に向かう頃、寒さが厳しくなり、雨かも知れない、
雪かも、
そんなときに「利休鼠色」ってこの色、
本物の金色は、実った稲穂と麦の色が太陽に照らし出された感覚です。
春先の稲穂の緑、竹林の緑です。
しかし、北陸人の特長は、「色彩彩度が平均よりやや暗め」になる、
そんな傾向があることです。
だから北陸出身で同じ業界の後輩には、
よく色の「彩度感」の話をしています。
この写真はきまって海外では道端でカフェがあります。
日本の「軒先文化」との一論をまとめることができるでしょうが、
いつも、倚子・テーブルなどやその配置が気がかりです。
そんな中で、パリで白いテーブルと赤い灰皿が気になりました。
おそらく、赤い灰皿はパリだからだと思いますし、
きっともうすぐ人間から喫煙文化は消滅すると思います。
ただ、気づいたのは、白と赤です。
日本人にとって、「国旗のごとく日の丸カラー」も、
私の肉体感覚の色彩だと思っています。


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「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」


   


     4月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

以前にどこかで、初めて上京して見た桜が白かったこと。
そんな話を書いた記憶があります。
正直、阪大を退官して、しみじみと吹田キャンパスを眺める気がします
8年目春、初めて満開の桜に囲まれた阪大キャンパスを
iPhoneで思わず撮りました。
ちょうど、パリのフォーシーズンズ ホテル・ジョルジュ サンク パリの
いつもながら、趣向ある生け花は桜のつぼみでしたが、
ワイフとやけに白すぎるね、と言い合いました。
退官してからは阪大内の退任挨拶などの行事が大変に多かったのですが、
辞めてみてなんだかこれからが本当に、
開発・研究・養成を大学人として出来そうな気配に私はなっています。
だからかもしれません。
大阪地方、阪大の吹田キャンパスに来てみて初めて、
じっくりとこれほど桜木立があったこと、
とても驚き、そうして見事なピンク色も満開第一段目でした。
それは自分の研究棟は、
元来はフロンティア研究機構事務室が改装された平屋建てですが、
高層建築が次第に多いキャンパスでは、きわめてユニークな建物です。
私の部屋は多分、旧帝大系の教授室と比べれば、
それなりの出来映えで、綺麗ですが、
スタッフにもっと「清潔」であることなどを命じる有様でした。
驚いたのは、修士の学生達が使い放題のままだったことです。
これはすでに彼らの今後の人生を決定づけています。
またそうさせていた塾長の責任も彼らの人生を決定しています。
そう言えば、私の母校・金沢美術工芸大学は、
旧日本軍の明治以来の兵器庫が改装された学舎だったので、
冬には雪が舞い込み、配られた石炭ではとても寒くて、
作品であろうが、置き放しの作品もすぐに燃やしてしまいました。
それだけに躾は厳しく(=今だと訴求?=それがおかしい)、
掃除は行き届いていました。
大学、特に国公立は税金で持っている機関ですから、
研究室は、しかもデザイン系ならば、
「徹底した清潔さ」で出来た、
美しいインテリアであるべきと私は思っています。
私の研究室周囲の桜木立は桜が芽吹いていました。
秋になると銀杏が食べつくせないほどの木立があります。
そして、ちょうど写真手前、
右側には「銀杏会館」という美しい建物があり、
大きなセミナーから一流のレストランがあります。
国内外のお客さまとは、ここで食事をします。
なんだか、退任してキャンパスの自然を落ち着いて見渡しました。


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「4月1日は『春』開始」


   


     4月 1st, 2013  Posted 12:00 AM

エイプリル・フールというのがありますが、
これまで私はエイプリル・フールが適用されていることには
ほとんど無感動でした。
日本は、常に梅から桜、そして「春」が始まるという風情を持っています。
だから、春から新学期が当然でした。
この改編は実に日本の風情=文化破壊だと考えます。
さて、私は前年度で大阪大学を退任しました。
わがままな大学人をやらせてもらいました。
たとえば、教授会も最初と最後に出席したほどです。
出席できない事情もありました。
最後の教授会で挨拶をさせてもらいました。
名古屋市立大学時代にはすでに、
2004年、大阪大学・フロンティア研究機構特任教授でした。
2006年から正式に転籍してきました。
もう一度整理すると、
私が大学人になったのは、母の生涯と関係があります。
私の母は47歳で亡くなりました。
彼女の天命は47年間でした。
だから、私も47歳で大学人になりましたが、
応援してくれた先輩と恩師たちに恵まれました。
正直、大学という空間での人間関係は世間離れしています。
だから、恩師に何度か「大学人を辞めたい」旨報告もしました。
しかし、この春からは「特任教授」として、
「危機産業創成デザイン重要拠点」づくりを工学研究科にて行います。
基板は「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」です。
危機管理に関しては、
すでに、危機管理学=これは文科系で行政政策の制度設計論です。
今ではいくつかの大学にありますが肝心のテキストは欠落しています。
また、ようやく危機管理工学というのも
基本は制度設計を工学的にとみなしているだけです。
私は、なんといってもプロダクトデザインの「学際性」を持ち込みます。
これまでの「制度設計」にはモノが介在する必要があります。
だから、プロダクトデザインが主導する必要があります。
さらに私は危機管理に関わる産業を
起業・創成していきたいと考えています。
それは「形態設計」として産業成果を生み出すことです。
この形態にはmade in Japanとして、
危機=「最悪の状態」を可決=切り抜けて命を護ることへ、
学際的なデザインを持ち込みたいことです。
すでに「第一回危機管理デザイン賞」を創設して授賞式をすませました。
この秋には、大阪の見本市でも、
「危機管理デザイン」の備わったモノを選びたいと考えています。
そして「講座」であることから、
大阪大学からドクターである、
専門的なテクノロジストを養成するつもりです。
テクノロジストというのは、工学はじめ各種学域を学際化して、
プロダクトデザインの理念・技法によって、
デザイン・ディレクションできる人物を育てたいと考えます。
インターン生を募集します。


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「今日からフランスへ」


   


     3月 4th, 2013  Posted 12:00 AM

一昨日「最終講義」を終えました。
母が47歳で逝きましたから、私も47歳で生き方を変えました。
1996年に名古屋市立大学芸術工学部が新設とともに、
私は大学人になり、デザイナー活動と二足のわらじを履いたのです。
2006年には、芸術工学科・博士後期課程が完成年度とともに、
私は大阪大学大学院に転籍しました。
「光陰矢のごとし」です。
64歳にて阪大を退官することになり「最終講義」をさせていただきました。
退官しましたが、
「危機管理デザイン賞」総合審査委員長ということもあり、
大阪大学大学院工学研究科は、3.11という大経験を乗り越えて、
これからmade in Japan産業を「危機管理関連産業へのデザイン応用支援」の
重要拠点として、国家ミッションを引き受けることになりました。
特任教授(名誉教授)・プロジェクトリーダーとして
現研究室をさらに拡大していくことになりました。
講義前日には、「危機管理デザイン賞」の審査で、
大阪市内のショールームで応募賞品や、
阪大研究室に送られてきたり、
作品ともども持ち込まれた応募者と会談もしました。
気づいたことは、わが国がこれほど天災・地震や津波国であることですが、
「危機管理」といっても、まだまだ知識不足が多いことでした。
もちろん、
グランプリやゴールド、シルバー賞、特別賞候補などを決めました。
その翌日には、阪大発祥の大阪大学会館にて「最終講義」でした。
大勢の人が見えて、会場は満杯になり、
お花やプレゼントを一杯いただきました。
明日から、
フランス芸術大学(エコール・デ・ボザールはフランス各地に散在)
パリにて、
退官後、引き受けることになった「危機産業創成デザイン重要拠点」にて、
阪大が「危機管理産業のmade in Japanをしていく話をしてくるつもりです。
最終講義にご来場していただいた皆さんや、
来れないからと連絡いただいた皆さん、
そして、すべてを管理してくれた研究室やオーザックデザイン、
現スタッフ、元スタッフに心から感謝します。
帰国とともに、
デザインによるこの災害から危険、危機への産業化を主導します。


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「これからの私、私が賢明で懸命になること」


   


     2月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

2月26日誕生日でした。
本年度で大阪大学大学院は定年退官が決定しました。
しかし、昨年、「危機管理デザイン賞」審査委員長を拝命し、
昨年7月2日には、前政権の防災大臣に1時間半も
プレゼンテーションをしましたが、
案の上、この「政権ごっこ」などは、
全く私の想いとはかけ離れていました。
8月1日には、弁護士会館にて、
危機管理デザイン賞」創立の講演をしました。
その結果として、
大阪大学大学院工学研究科の私の研究室に、
特任教授として、
「危機産業創成デザイン重要拠点」づくりが与えられました。
64歳にして、再度、この国難国家をデザイン主導、
大阪大学大学院を重要拠点とした、
プロジェクトリーダーになる決意をしました。
ところが、インフルエンザで阪大病院に入院するとか、
グアムに行くとか、東京でのクライアントに会うとかでした。
幸いにして元気を回復し、
博士後期課程=博士号取得者もいることから、
3月2日には「最終講義」をします。
デザイン界の恩師・平野拓夫先生や従兄弟やふるさとの伝統工芸産地から、
教え子たちも来ていただけることになりました。
今回のインフルエンザで、多分、もう本当に駄目かと思うほどでしたが、
元気になってしまい、熊本大学にて後輩の依頼で講演をしてきました。
まだ、走り続けることになりそうです。
公共政策では、制度設計論が様々な大学にもありますが、
私は、3.11があったからこそ、
国家防衛から警備警察、さらには防災・防犯などへの
新しい産業を「デザインで牽引する」というテーマを抱きました。
ようやく、新政権が本格的になろうとしてくれています。
であるならば、
デザイナーとして、デザインディレクターとして、
そして大学人として、大阪大学大学院をハブに危機産業の創成こそ、
これからの「公共」のあり方を支える、
産業構造を創出したいと考えています。
これが、これからの私が、
より賢明になり、より懸命に行学を貫く所存です。


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