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Posts Tagged ‘効能’


「今年2本目論文仮説の図解紹介」


   


     1月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

東大経由で、自動車技術系論文誌からの依頼論文。
今年最初に提出予定です。
まだ、作成途中ですが、
私は論考全体の概要はいつも図解表現をしてしまいます。
与えられたテーマは、「形と性能」です。
そして、デザイナーにその考察を求められているわけですから、
当然、「形」デザインから「性能」を、という依頼意図はみえています。
私自身は、カーデザインを自分の作品として持っていません。
が、カーデザイナーは教育し、
自動車企業には教え子がデザイナーになってます。
ヨーロッパに企業留学している連中もいます。
無論、車は趣味の対象ですから、
これまで、「男の子として」それなりの車は所有し使用してきました。
運転手がいてくれた時期もあります。
ロングリムジンからスポーツカーまで10数台は乗ってきました。
現在はベンツ550SL、一台だけになりました。
ワイフと二人だけの外出用です。
さて、この論文の思考下敷きは「製品記号論」ですが、
最も強調しておきたいのは、ガソリン車からハイブリッド車、
そして、電気自動車へと車両動力系がまったく変わってしまいましたから、
基本的な性能は、空力特性や走行・運転・収納などは当然ですが、
情報社会において車は、情報機器・情報装置に変身しています。
さらに、デザイン対象としては、
か+たち=化+質とかた+ち=型+値という漢字語句から読みとる、
性能・機能・効能と関係、
すなわち、構造論も重大だと思っています。
したがって、
多分、図解などや資料まとめで一挙に書き上げようと思っています。
今年の仕事始めは、論文や編集、「ことば」からスタートしています。


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「デザインは機能美ではありえない」


   


     11月 20th, 2012  Posted 12:30 AM

未だに、商品が語られるとき、
「デザインと機能が云々・・・」という表現が余りにも多過ぎます。
デザインには、すでに「機能」は内在しています。
したがって、この場合は、
「デコレーションと機能が・・・」に言い換えるべきです。
日本には、戦後、「デザイン」という言葉は、
洋装やファッションで用いられることが今日まで影響しています。
そして、もう一つは、
「機能的なモノは美しい」とか、
「機能美がデザインの目標」などというのも間違いです。
「この車はカッコいい」
「この車は機能美に溢れている」
「この車の性能は優れているがデザインがいまいちだ」などなど、
これはとてもヒューリスティックな会話=パロールですが、
私は、デザインには「性能・機能・効能」があると言い続けてきました。
だから
「性能が優れ、効能という社会的効用があり、使い勝手としての機能」、
これらの統合があって、
はじめて「デザインが出来ている」と考えています。
「この車は速そうな格好をしているからカッコいい」というのは、
論理性を失っています。
「速い車」、というのは、
「速度が存分に性能性があるから、目的地に速く着ける」、
この効能が社会的な効用であり、そうした速度性があっても、
運転などの制御性や安全性が機能的に完備している。
これがデザインが果たす職能効果です。
そして、速度感を表す形態・流体力学的な性能・機能が、
その車が社会に存在している効能性だということです。
さらに、そうした車を所有できる社会的な階層がイメージできるとき、
その車はすでに「商品」ではなくて「記号」になっているということです。
性能・機能・効能が形態言語=designed languageになるためには、
その「記号がすでに意味していること」を社会が認知していることです。
すでに「商品」としての車は、
「記号」として存在性があるイメージの中にあるということです。
「速く目的地につける形態」だから、
速そうという性能、
速いから制御と安全性が確保された機能、
だから、社会的な存在価値が効能になっているということになります。
「デザインとは何か」ではなく、
「性能・機能・効能が統合的な記号になっているのがデザイン」、
これが私のデザイン、その本質的な定義です。


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「招き猫の右手と左手の効能」


   


     10月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

奈良から帰阪途中のサービスエリアで見つけました。
いわゆる「招き猫」です。
初めて知りました。
「右手は金を招き、左手は人を招く」というらしいのです。
ともかく、写真にいっぱい収めましたが、
私の物欲刺激にまではいたりませんでした。
ところが、写真をパソコンに取り込みながら、
「縮緬生地」のぬいぐるみは、
なかなか招き猫の一般性からは離れていて、
癒やされるモノだと思った次第です。
「招き猫」を室内に配置することに抵抗があったから、
きっと欲しいとは思わなかったのでしょう。
しかし、右手と左手の「効能」結果を知ったこと、
こうした俗世間的な物語り=ナレジオンを知っておくことは大事です。
ワイフから、ある有名海外ブランドにも招き猫が、
しっかりと右手と左手のペア猫が
オブジェとして存在していると知らされました。
招き猫の効能は癒やされます。
今夜は、そんな休日を過ごしました。


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「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」


   


     10月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

久しぶりに、高速道路のサービスエリアに立ち寄りました。
サービスエリアには必ず、ご当地キティちゃんグッズが揃っています。
かっては、キティにまつわるグッズは相当に収集していましたが、
久々に小っちゃなぬいぐるみに引き連れられてカメラに収めました。
キティは世界ブランドであり、
日本が産み出した展開可能なガゼット・コア、
つまりこの顔であれば、無限のガゼット展開が可能かどうかです。
そして、この笑ってもいない無機質さが
「かわいい」という核心を与えたモノは無かったかもしれません。
その無機質さにも関わらず
「かわいさ」を表現している最大の理由は目です。
その目は、黒丸扁平な「黒点」にすぎません。
キティがキャラクター表現で
確実なヒットを遂げたのは、この「黒点」でした。
したがって、キャラクター表現では、
「黒点」もしくは目の表現を全くしないことが基本になっています。
私の研究室では、
「顔表情を決定づける目の配置など」を
修士論文にまとめた成果があります。
この論文は、私がこれまで大学人としては「最高の修士研究論文」でした。
私は、キティの一見無表情に近い「黒点」的目の入れ方には、
一つの大きなテーマ解を見つけています。
それは、「安全」と「安心」です。
「安全」だから「安心」できること。
「安心」だから「安全」だと納得できること。
これが、一つの解答結果ですから、
なぜ、この無表情な「黒点」目には大きなヒントがあると思ってきました。
「安全神話」を信頼するということが大きな間違いでした。
「安全ゆえに安心可能だろうかということと、
安心しておられるから安全」は、
常に相対性をもって統合されなければならないと考える訳です。
奈良にて警察署主催のイベントで講演をしてきました。
「安全で安心できるまちづくり」でした。
私は、この写真のキティをコレクションしたい想いでしたが、
取りあえず、写真撮影し、ここでひとまず、
この文章の中で、さらに熟考していかなければいけないと思っています。
「安全で安心なまちづくり」の結論は、
教育と防災と防犯をしっかりとコミュニティに育むことしかないでしょう。
「危機管理デザイン賞」の選定基準には、
「安全と安心を納得できるデザイン表現」、
その性能と効能と機能が統合されている、
そんなデザインで語ることが可能か不可能を問いかけています。


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「泡・バブルって、やっぱり凄いんだって思います」


   


     10月 16th, 2012  Posted 12:00 AM

台所用品、浴室用品の地場産業といえば、
和歌山県海南市です。
「東の湘南、西の海南」、当時の市長の弁でした。
海南市で国際コンペの審査と
現地の「地場産業」に関わったことがあります。
徹底的な、ウレタン素材で「洗浄用スポンジ」の製品開発にのめり込み、
商品化もしました。とても高額商品でしたが高く評価されました。
しかし、素晴らしい素材の「スポンジ」は、
100円ショップの中国製には市場では完敗でした。
ただし、モノの性能・効能・機能は抜群だったと自負しています。
だから、その頃、同時に「トーラス亀の子束子」も開発してみましたが、
これは製品開発で終了せざるをえませんでした。
今、私は私自身の「乾燥肌対策」には、
あらためて、当時、様々な「泡づくり」と「泡性能調査」をしました。
だから、TV-CFで「洗顔用石けん」の泡立ちを見るたびに、
「泡」そのものの「泡立ち」の肌理の細かさが気になります。
それは、ボディソープからシャンプーに至るまで、
TV-CF画面の泡を見ながら、
「本当か?」とTVに向かって、話しかけてしまいます。
そして、学生にも、「正しいシャンプーの仕方」などを論じてしまいます。
つまり、「泡立ち」という性能は「肌をきれいにする」、
とても大事な手続きであることは間違いありません。
「綺麗」な泡立ちが、必要不可欠なわけです。
となれば、絶対に「泡立ち評論家」になるつもりで、
「泡」をじっくりと観察しています。
今、ブームで売れているシャンプーが、
本当に「正しい洗顔・正しい洗髪」ではないのです。
どれだけの肌理の細かさの「泡」=バブルかが大事です。
そのバブルで綺麗にするべきかが問題だということです。
結局、「バブル」ってのは、
やはり、何かしらスゴイ力があることは間違いありません。


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「ブランドが語りきろうとする高密度品質とは」


   


     9月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

私は、文房具というアイテムにおいても、
これだけの品質と、そのデザイン展開で「最高品」を選ぶとするなら、
やはり、このブランドになります。
私にとって、ノートはスケッチブックでもあってほしいのです。
当然ながら、大きさ、紙の高密度、
そして記録としての保存性を確認すると、
このシリーズノートはほとんど完璧だと評価しています。
だから、なかなかペンを走らせるとか気軽に使えるかというと、
高価格なモノゆえ、正直、怖いほどの緊張感がありますから、
日常的な気楽さで対峙するというわけにはいきません。
しかし、翻って考えてみれば、自分のアイディアを前頭葉に集約するには、
これだけの品格・品質・上品性をまず「目の前」に置いたとき、
自分のアイディアそのものが、
高密度な想像性と創造性を遠慮無く差し出せるものだろうか、
そのような自問自答をこのシリーズノートに、
スラスラと発揮できるかどうかに繋がっています。
結局このブランドが相当な高価格ゆえの品質への詳細で精微なモノとして、
その完成度を基準化しています。
私は、このシリーズノートには、
自信をもってあるプロジェクトの発想の原点を描き込むこと、
それこそ、
発想の決断を自分に問い直している自分自身に出会うことができます。
ブランド、それは「牛の焼き印」が原意でしたが、
現代では、企業メーカー・作り手が、
ユーザーにこの品質・品格・品性を問い詰めてくるのです。
ということは、ブランドが提供しているのは、
安易な「使い易さ」では無いということです。
<あなたは私たちの商品を手に入れましたね>
<さあ、あなたはコレを使いこなす決断を持っていますか>
<私たちがこの商品に託していること、理解できますか>
これほどの世界観を突きつけてくるのです。
ブランドが創出すべき最も重大なことは、
単なる性能や機能や効能だけでは無いということです。
自分の物欲を果たそうとする決断、「覚悟」までを問いかけているのです。
それだけの「モノづくり」こそ、ブランド、
その存在性の証こそ、「焼き印」なのです。


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「丸ポスト・街角のアイコンから貯金アイコン?」


   


     7月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

先般、ワイフが郵便局の人に欲しいとかで、
わが家に貯金箱が4つ体制になりました。
「貯金」というのは郵便局で、
「預金」というのは銀行、
私の金銭感覚はこの程度です。
さて、この丸ポストは日本の町の風景の一部でした。
最近は本当に見かけなくなりましたが、
デザイナーから見るとある意味、不思議な形態ですが、
おそらく日本人の郷愁感にすっかり溶け込んでいるアイコンです。
おそらく現代デザインでは絶対に出てこない形態。
蒸気機関車のような日本の郷愁景観アイコンだと思います。
円筒形に正面は郵便物を受け取りますが、
庇があって雨よけでしょう。
そして取り出し口が正方形というのは、
まさに回収管理という造形言語ですが、なんとも不思議な形態です。
丸ポストの現在までの歴史そのものが、
今度は「貯金アイテム」というアイコンへの変貌はとても面白い。
これはフィギュアやミニチュアの「効能的存在性」をという
形態言語になっていると判断できます。
私は、ほとんど小銭を持たないので、ワイフの小銭管理を申し出ています。
私は車椅子になったときに貨幣デザインが変わったので、
500円硬貨に感激しているという漫画的な存在です。
だから、500円硬貨だけは持っていたいのです。
一応、1円・5円・10円・50円はこれらのポストに貯金し、
100円硬貨だけを持ち歩くようワイフに伝えています。
これらの貯金は、1年後には寄金するということにしています。


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「ウェリントンタイプ眼鏡など忘却すべし」


   


     2月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

眼鏡には定番のスタイルがあります。
そして、流行的なファッションとして繰り返しています。
その代表が「ロイド眼鏡」=正円レンズと、
「ウェリントンタイプ」=上辺長・下短辺の台形レンズです。
おそらく最も安心できる定番スタイルです。
これを不易流行のモノと私は思っていません。
メガネフレームは時代との共時性があり、
こうした定番は、顔表示を古くさくする野暮さが、
時代的な流行時と共時しない限り、
そのまま自分のセンス放棄を顕示します。
だから不易流行のモノにはなりきっていないのです。
ウェリントンは日本人に似合っているというのは、全くの大間違いです。
顔幅の細さと鼻の高さが無ければ決して似合いません。
しかもそのリーダー的な映画スターたちに
現代性は無いとすら私は思います。
そして最もメガネフレームの
性能・効能・機能は「かけごこち」に終局します。
「ロイド」も「ウェリントン」も結局は、
フレーム自重を軽減不可能の構造であって進化することも不可能です。
我田引水ながら、
私の発明した「アンチテンション」は、すでに定番になってきました。
テンプルを広げても、レンズに応力はかかりません。
だから、瞳孔距離を変えませんので、乱視になることを防止できます。
このタイプ構造は真似られていますけれど基本的なかけごこちを失えば、
意味ありません。そのようなモノも氾濫しています。
2000年にシルモ・グランプリを受賞したモノとしては、
その軽量さ、体感重量、かけごこち、
そしてファッションの不易流行性は確約できます。
「アンチグラビティ」、『アンチテンション」、エアストリーム性など
表面的、装飾的な類似品を多く出ることで、本物が浸透するでしょう。
新たな素材開発と新たなフレーム構造構成を
さらに発明的な革新を狙い続けていくつもりです。

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「メガネフレームはまず自助具でありき」


   


     11月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

メガネフレームのデザイン、
懸命に取り組んでもう25年以上になります。
インダストリアルデザインでの設計が、
産地に受け入れられてもらえたのは、
メガネフレームメーカー・増永眼鏡の指導と支援、
これがあったからだと思っています。
増永眼鏡は、フレームメーカーとして100年以上の歴史、
日本での眼鏡枠製造老舗、海外にはKOKIブランドとして、
最も信頼のある企業であり、技術力ではトップメーカーです。
メガネフレームは、ファッションであり流行に左右されます。
しかし、ファッション=自分演出のおしゃれ道具ですが、
根本的には視力支援器具、
いわば医療器具であることは免れません。
したがって、3プライスと言われるビジネスモデルでの
低価格商品は常にファッションというより、
「流行」だけをテコにした市場でありますが、
これは日本独特の市場展開なのです。
なぜなら、海外では度数の無いサングラスは、
どこでも買い求めることができますが、
医療器具としては、眼科医の処方箋が必要です。
眼科医というよりは、
「オプトメトリスト」=6年の大学専門教育と国家資格と、
「オプティシャン」というフレームとレンズの加工技師資格、
この二つの資格がなければ眼鏡ショップは経営できません。
日本だけがこうした資格無しでメガネが販売されているのです。
単なる広告宣伝でファッション性だけで語られる眼鏡は未完成です。
メガネフレームそのものがレンズが無ければ、
それはキーホルダーのようなモノにすぎません。
最近は、素材・重量(レンズ無し10g)・形態、
この形態がデザインだと受け取られていますが、
顔の形、耳、鼻などとのフィッティング=かけごこちは、
「性能デザイン」になっていなければなりません。
安易なデザイナーブランドや建築家が片手間デザインは、
「遊びのデザイン」として楽しめますが、
これをファッションとしてのメガネフレームだというのは、
生理的、倫理的、美学的には、私は認められません。
私は、いわゆるブランドフレームでも、いい加減なモノは、
それを着用しているユーザーの社会的存在性を自らが貶めています。
フレームの形態は、造形性能と造形機能が、
ある意味での「形態言語」になっていなければなりません。
私の提示した「アンチテンションスタイル」=レンズに応力無しは、
すでに「不易流行」のフレームデザインの一つの様式になりました。
メガネを着用している人、コンタクトレンズの人、
レーシックをしてしまった人、その手術を考えている人、
あらためて「視力」と「メガネ」、
この「造形言語」を読み直してください。
メガネフレームは「自助具としての性能・機能」が、
「効能」として、視力を支援し目を保護するモノです。

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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルをデザインモデルにするために」


   


     11月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

創る・探る=モデル
モデルには二つあります。
「創るモデル」と「探るモデル」です。
デザイン手法は、創って探る、探って創るために、
その両方を往復思量する模型・モックアップモデルで検討をします。
そして、そのモデルで確認するのは、
 ● 性能が果たせるだろうか、
 ● 効能の効き目はあるだろうか、
 ● この二つがあるから機能が生まれているだろうか、
ともかく、この三つが確約されるかどうかを検証するわけです。
性能・効能・機能の「美しさ」
最終的には、性能・効能・機能が「美しさ」でまとめられて、
その綺麗事が日常生活の暮らしで、現実的な問題解決をしているかどうかです。
それはまさに健康的な社会づくりに向かっているかという綺麗事です。
私はそれが最も重要だと思っています。
さて、ビジネスモデルは経営仮説と収益構造ですから、
効能があるかどうか、効能があるという仮説です。
そして性能として数値的な確実さが回収できる経営の確約がビジネスモデルです。
したがって、そのモデルが「美しい」とか
「社会的に義であり善である」ということは、経営手法からははずされています。
ビジネスモデルに経営哲学は無い
ビジネスモデルの経営哲学に欠落しているのは、
美しさ=美学と正しさ=倫理性だったと思います。
もし、経営哲学があったなら、納税すら無視するということはありえないのです。
しかし、現代の景気=不況を言い訳にして、
「納税義務放棄」する企業論理は犯罪ですらあるわけです。
もし、納税できない、収益構造でのprofitは自分たち企業内で独占して、
企業が社会的に存在していくための義務放棄はあってはならないのです。
不況ゆえに企業倒産するというのは、経営哲学の根本を見直すべきでしょう。
ビジネスデザインモデルの綺麗事
経営仮説と収益構造は、
本来は「美・義・善」ある存在性のある企業かどうかが基盤であったのです。
ビジネスモデルにデザインという視座と、
デザインの視界にそのモデルがあるかどうかが現代、試されているのです。
当然、ビジネスモデルで産出と算出される「商品」には、
「美しさ」と「正しさ」を、私は綺麗事として求めています。
そんな綺麗事を企業家に主張していきます。
そんな単純明快なことすら理解も行動もできない企業家に、
デザインは理解不能だということをいやというほど体験してきました。


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