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Posts Tagged ‘設計’


「日本陶磁器の伝統革新」


   


     11月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

六古窯というのがあります。ご存知でしょうか?
日本で陶磁器が始まった六つの産地です。
しかし、この六つの産地で生き延びたのは、
すべからく茶道と結びついた所だけです。
したがって日本各地には陶磁器の産地が散在しています。
というより、陶磁器は陶芸の作家が居ればそれなりの産地になっています。
伝統工芸をデザイン対象にしたのは私自身が故郷にUターンしてからです。
陶磁器のデザインもやりたかったのですが、
なかなか産地に巡り会いませんでした。
福井の産地では私の論理が猛攻撃されました。
陶磁器は子供の頃に九谷焼に取り囲まれていましたからとても好きです。
しかし、より詳しくなったのは西洋や中国の青磁白磁を知ってからです。
とりわけティーカップやコーヒーカップには寸法決定の法則があります。
少なからず美大時代には陶芸を傍観していました。
そして後に知ったのは、岐阜県の美濃焼産地です。
ここには鼠美濃などを復元するまでの
日本全国の焼き物データが集積している製陶学の中心地だと思っています。
それでも、ティーカップやコーヒーカップの
伝統的かつ正確なモジュールは日本ではほとんど遵守されていません。
さらに釉薬や焼成方法などは
ほとんど進歩していないと私は断言しておきます。
有田焼は元来、九谷焼の母産地です。古九谷というのは有田焼風です。
しかし、ARITAという名称は中国に世界的に商標登録までされています。
そこでこの有田産地へのデザイン導入の最初は
ステッキの華飾として商品化しました。
当然、現在のステッキはリハビリ用品から抜け出ていません。
人間工学的な設計も十分にしてあります。
これはいづれ詳細を報告したいと思っています。
そして現在、コーヒーカップ、ティーカップの
デザイン設計、特に、新たな釉薬、絵付けの革新を狙っています。
理由は簡単です。景徳鎮で始まったchinaは、
まったく進化していないというのが私の結論です。
そして、
日本の陶磁器も伝統から抜けだそうとしていないことです。
いわば、伝統にだけ寄りかかってきただけだと判断します。
ふるさと福井は六古窯のひとつですが、
確かに作家モノはありますが、評価出来がたく、
かって福井に居たとき、若さもあって総批判した結果、
産地はもう私を絶対に呼ばないとまで言われました。
若い作家、人間国宝、文化勲章受章者も、
陶芸の世界には華々しさがありますが、
正直、私にはたとえ文化勲章受章者の作品であっても、
全く評価出来ないモノがあります。
それは、陶磁器という伝統と革新を美学として、
私が見つめる価値観が下敷きにあるからです。
だから、私は私が陶磁器をデザインするなら、
自分の美学を明確にすることだけは護ろうと言い聞かせています。

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「仮設という無能な制度設計の住宅」


   


     11月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

大震災に被災した人にとっては一大事なことです。
それを一刀両断的に「無能なる住宅」と断言します。
この表現は被災者の方々には失礼極まりないことですが、
やはりこの被災地の対応制度政策を評価するには、
こう言わざるをえません。
「仮設住宅」の制度は、全く知られていませんが、
これほど工業住宅が進歩した中で、呆れることが多すぎます。
この制度の入り込んでいる住宅対価詳細から、
この住宅建設の仕組みをもっとマスコミは報道すべきです。
パネル工法とガルバリウム鋼板の屋根材は低安価ながら、
きわめて一見合理的な印象がありますが、行程は省略工事です。
すなわち、防音材・断熱材・基礎工事の行程が省略されています。
明言します。手抜き工事ゆえに、
夏は相当に暑く、雨音はうるさく、この冬の寒さは当然です。
なぜ、私はこのことをほぼ告白として書くかと言えば、
中越地震の前にある住宅メーカーと、
「災害用住宅のデザイン」計画を進めていました。
ところが、そのメーカートップが病気で倒れてしまい、
この計画推進のリーダーを失いました。
結果、実に残念なことながらプロジェクト中断でした。
私は現在、復興計画では、建築や都市計画ではなくて、
「インダストリアルデザイン手法」の導入による、
特に「インクルーシブデザイン」としての計画を進めています。
いづれその詳細は、もし実現しなくとも「発表」する決意です。
基本は「仮設」ではありません。「佳設住宅」ですが、
「住宅」という概念も変更するつもりです。
「佳設」とは「美しい設備」が万端であり、
復旧でもなく、復興でもなく、
未来住居としての「佳設」が、「まち・みち・きち」、
すなわち、私のデザイン定石「いのち・きもち・かたち」が基盤です。
私は、現状の「仮設住宅」という制度、市町村と県の関わり方、
さらには、「仮設住宅」が工業生産される既得権、
これが建設族議員との関係を明らかにすべきと言っておきます。
やはり、日本のシステムがどれほど壊れているのかは、
「仮設住宅制度」が象徴しています。

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「メガネフレームはまず自助具でありき」


   


     11月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

メガネフレームのデザイン、
懸命に取り組んでもう25年以上になります。
インダストリアルデザインでの設計が、
産地に受け入れられてもらえたのは、
メガネフレームメーカー・増永眼鏡の指導と支援、
これがあったからだと思っています。
増永眼鏡は、フレームメーカーとして100年以上の歴史、
日本での眼鏡枠製造老舗、海外にはKOKIブランドとして、
最も信頼のある企業であり、技術力ではトップメーカーです。
メガネフレームは、ファッションであり流行に左右されます。
しかし、ファッション=自分演出のおしゃれ道具ですが、
根本的には視力支援器具、
いわば医療器具であることは免れません。
したがって、3プライスと言われるビジネスモデルでの
低価格商品は常にファッションというより、
「流行」だけをテコにした市場でありますが、
これは日本独特の市場展開なのです。
なぜなら、海外では度数の無いサングラスは、
どこでも買い求めることができますが、
医療器具としては、眼科医の処方箋が必要です。
眼科医というよりは、
「オプトメトリスト」=6年の大学専門教育と国家資格と、
「オプティシャン」というフレームとレンズの加工技師資格、
この二つの資格がなければ眼鏡ショップは経営できません。
日本だけがこうした資格無しでメガネが販売されているのです。
単なる広告宣伝でファッション性だけで語られる眼鏡は未完成です。
メガネフレームそのものがレンズが無ければ、
それはキーホルダーのようなモノにすぎません。
最近は、素材・重量(レンズ無し10g)・形態、
この形態がデザインだと受け取られていますが、
顔の形、耳、鼻などとのフィッティング=かけごこちは、
「性能デザイン」になっていなければなりません。
安易なデザイナーブランドや建築家が片手間デザインは、
「遊びのデザイン」として楽しめますが、
これをファッションとしてのメガネフレームだというのは、
生理的、倫理的、美学的には、私は認められません。
私は、いわゆるブランドフレームでも、いい加減なモノは、
それを着用しているユーザーの社会的存在性を自らが貶めています。
フレームの形態は、造形性能と造形機能が、
ある意味での「形態言語」になっていなければなりません。
私の提示した「アンチテンションスタイル」=レンズに応力無しは、
すでに「不易流行」のフレームデザインの一つの様式になりました。
メガネを着用している人、コンタクトレンズの人、
レーシックをしてしまった人、その手術を考えている人、
あらためて「視力」と「メガネ」、
この「造形言語」を読み直してください。
メガネフレームは「自助具としての性能・機能」が、
「効能」として、視力を支援し目を保護するモノです。

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7月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 12th, 2011  Posted 10:00 AM

7月12日 大安(戊辰)

少なからず、
デザインが技術的な設計に
立ち入るときには、
安心工学としての使い勝手を
その設計に対して導入されるべきだと
考えて発言してきた。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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3月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 22nd, 2011  Posted 1:18 PM

3月22日 先勝(丙子)

イエスと言ってくれないなら、
黙って引き下がるわけには
いかないだろう。

不自由な生涯という道程に、
美のあるモノを
こんなに考えて設計している。

それを認めてくれないなら、
喧嘩しか残らないはずだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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3月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 20th, 2011  Posted 10:00 AM

3月20日 大安(甲戌)

ともかく、
モノを設計し創作し創造する者は、
いつでも、
「こうあらねばならないのだ!」
という想いが強烈でなければならない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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『資本主義からの逃走』
「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」


   


     4月 11th, 2010  Posted 12:01 AM

応用美術
DesignがArtの応用にすぎない、という見解があります。
あるいは応用美術という歴史上でデザインが存在してきた、
この解説も、ほとんどのデザイナーは熟知しています。
私自身も、美大の産業美術学科という領域で、学びました。
したがって、特に、現代美術の様々な展開や、
歴史的な事件は、デザイナーの基礎知識として重要です。
この現代美術、現代アートとデザインとの境界には、
大きな戸惑いや、アートとデザインの融合性を確認する、
そんな事態は常に発生していることは認めています。
しかし、問題は、
Designが職能として、「かたち=外観づくり」だけ、
そんな印象が今なお強烈に有る、いや残っているのです。
私も、デザインは「かたち」に終結するが、
「かたち」と言っても、「形式」や「制度」、「システム」、
しかも「インタンジブル」な設計や戦略や策略と連呼してきました。
「欲望の刺激装置」
歴史的に見れば、
確実に「欲望を刺激する外観創成」だったことは否めません。
ところが、
さらに、いわゆる商品形態の区別化を
「商品の差別化という付加価値論」に呪縛されてきました。
そこで、「盗用」です。
「盗用」という言葉は、反倫理性がありますが、
この反倫理性を滑稽さやパロディで回避し、
判断停止を意図した芸術が登場しました。1919年代です。
無論、それ以前も、「表現の多様性」として、
生まれたきたのが、マルセル・デュシャンアンディ・ウォーホルによる、
強力な引用性のさらに複製化ということでの著作権への抵抗です。
L.H.O.O.Q.

デュシャンのL.H.O.O.Q.という作品がもっともその事例でした。
確実な著作権という制度に対する表現性の確立でした。
「モナリザ」は万人が知っている絵画、アイコンです。
このモナリザに髭を書き込みました。当然、複製のはがきに書き込んだのです。
それが話題になると、今度は「髭の無いモナリザ」です。
初めからモナリザには髭がなかったのですから、
創作性を引用=(盗用)パロディ化し、また元に戻すことで、
その創作性への思考停止、制度混乱を意図しました。
伝統的となってしまったアイコンの複製での意識操作や
作品への新たな鑑賞方法を破壊して、これが革新的アートだと主張しました。

さて、私は、応用美術であるデザインが唯一、
「かたち創出職能」=「購買刺激装置という付加価値」へ閉じ込めたことは、
デザインにとってその本質性を失わせたことだったと判断しています。
そして最近は、実質のモノのかたち=アイコン性だけを引用、
というより盗用しているにも関わらずデザインの自由性の謳歌、
この流行、氾濫、さらには正当なデザインという主張を見ます。
盗用は破壊を作動する
それがデザインの多様性であり、それはデザインの否定によるデザイン、
すなわち「面白い発想」という評価にデザインが対象化されることは、
デザインの本質性を破棄し、破壊したものと考えます。
しかし、この判断には私自身も、「盗用か引用か」、
という曖昧性の判断停止が起こっていることは認めなければなりません。
もっとも端的には、ロボットなどのヒューマノイド系、
それはSFでも登場する人間クローンがロボットというのは、
借用・引用・盗用なのかという問題解決は、
緊急な解答が必要となっていることです。
しかも、もっと大きくて深刻な問題は、
デザイナーに「Appropriation」という芸術史での事件を読み込むことなく、
「差別化のために創造表現という勘違い盗用」をしていることが問題です。


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『資本主義からの逃走』
  「社会主義市場経済論でのデザイン職能」


   


     2月 24th, 2010  Posted 1:00 AM

デザインでの予知と予測
現在、中国の「模倣」はやや活発さから、
新たな段階に進行しています。
そこに、デザインを「設計」から、
「策略」「新資源」として位置づけた、生産技術の進展が
明確に読み取れます。
すでにデザイナー育成教育においては、
韓国、台湾、香港での教育を学ぶという姿勢です。
決して、
日本のデザイン教育ではないということに、
私は大きな失望と、日本のデザイン教育の再構築を
強く意識しなければならないと思っています。
彼らは、すでに「設計」という生産手段の一つでは無いのです。
策略
「策略」というのは、
「付加価値」としての生産価値ではありません。
私は予言しておきたいと思います。
膨大な人口の中に潜んでいる「デザイナー才能」です。
この「才能」が主導権を持ち始めたとき、
わが国のデザイン主導力は、相当に、打ちのめされます。
韓国が、この20年で育成してきた「表現分野」は、
スポーツから映画・ファッション・コンテンツ、
そして、デザインでした。
「社会主義市場経済論」は、「資本主義」国家経済を
超越しようとしていることは明らかです。
無論、まだまだ国内統制が「開放」されてはいません。
ひょっとすれば・・・・・・・という・・・・
軍事力中心の政治体制は、歴史的には幾たびも、
その成功事例は残していません。
果たして、「市場経済論でのデザイン職能」は、
デザインの本質が、情報公開に及べば、
私は「市場経済論」は、もろく崩壊すると、
今度は予測をしておきます。


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『資本主義からの逃走』
  「コスメティックデザインという付加価値」


   


     2月 19th, 2010  Posted 1:00 AM

Cosmetic Design
資本論的にいえば、「商品」の価値、
それも「付加価値」は、商品選別での欲望対象です。
したがって、デザイン=コスメティックとしての理解は、
資本家・企業家には好都合でした。
私は、美大の産業美術学科の工業デザイン専攻卒です。
しかし、大学時代に、デザインはコスメティックではない
ということを徹底的にたたきこまれました。
「付加価値論」の見直しも体に染みこんでいます。
ところが、インハウスデザイナーになると、
「意匠」=形態のお化粧程度にどれほど反抗しなければ
ならなかったことでしょうか。
それこそ、グッドデザイン審査委員長になっても、
デザイン系のキャリアが「付加価値」と言えば、
必ず、喧嘩を売ってました。
かなり正確な論理は、「嫌がられる存在」に、
今なお、なっています。
おかげで、「御用学者」ではありません。
御用学者を演じている教授も知っていますが。
全体価値
デザインは「全体価値」であり、
「価値」創出者の代表であるとさえ思っています。
金融資本・対・デザインの構図を明らかにするべきです。
むしろ、その使い分けは、中国や韓国は見事です。
「コスメティック価値」と「デザイン価値」の構図、
あるいは構造=関係性こそ、
今、デザイン先進国である日本が提示すべきと思います。
中国が、デザインを「設計」から「策略」や「資源」と、
書き直したのは、先んじられています。
たとえば、政治家もグランドデザインとマニフェストに
用語として多用しているのも、「付加価値論」ではなく、
明らかに「全体価値」です。
「全体価値」という茫漠さがマイナスだとも思っています。
さらに、「何?価値」=デザインなのか、ということの
決定打が不可欠です。
価値
「価値」=望ましさ+好ましさ、と考えれば、
「望ましさ」を希求し判断するのは、理性的評価です。
「好ましさ」を訴求し評価を求めるのは、感性判断です。
デザイン設計・策略・資源での「価値」設計は、
すでに、デザインの本質意味を、
わが国も再確認すべきだと考えます。
デザインが、産業の一手段ではありません。


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『資本主義からの逃走』
  「資本論の、指摘不足と現代性との剥離」


   


     12月 4th, 2009  Posted 9:38 AM

「資本論」はとても魅力あふれる論理です。
その魅力はマルクスとエンゲルスの才能の成果だと思います。
しかし、私は、「資本論」では、
重大なキーワードでまったく皆無な言葉があることと、
この言葉への深い洞察があってほしかったと思います。

たとえば、「生産」という言葉は重大なキーワードです。
しかし、
「生産」と技術の関係では「設計」の論理が皆無であり、
「精神的生産」という重大な言葉に「安価」な生産、
その記述がありますが、思量不足を感じています。
それはなぜかということになります。
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最近、経済学者や経済評論家の方々は、
とりわけ、日本は「モノづくり」の国家論を喧伝します。
しかし彼らに、
「モノづくり」の根本や経験が欠落しているのですから、
それは「空論」になることは当然です。
私は、「資本論」の魅力を十分に感じるのは、
マルクス、エンゲルスが、結局指摘不足だったことです。
モノづくり=生産にとって、
現代性との剥離を見つけるたびに、
私のデザインを強化することができるのです。
なおかつ、
私のデザインが、必ず、「資本主義から逃走」可能、
そのことを強く認識しているのです。
明らかに、モノづくりには「安価」なモノは必要です。
この「安価」な生産性を「資本論」は、
指摘しているのですが洞察不足過ぎるのです。
その周辺論理への思考は、
「モノづくり」の無経験さが満ちあふれているだけに
私には魅力的なのです。


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