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Posts Tagged ‘国難’


「一条の光明は創出するもの」


   


     8月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

闇に一条の光明を、
これは私たちが闇にあるときに
必ず願うものです。
しかし、これもレトリックでしかなく、
一条の光明というのは、
創り出すものでしかありません。
それはまさに暗闇に入れば一本の蝋燭が必要です。
すなわち、暗闇に光りを見いだすには、
「蝋燭のような」発光体がツールとして不可欠です。
「蝋燭のような」というレトリックに何が、
その闇を明白にするかということです。
蝋燭は灯りであり、その正体は火です。
したがって、「蝋燭のような」というレトリックの本質、
レトリックではない具体物がツールになりうるでしょう。
「闇」という表現はレトリックではなくて、
メタファーという意味がみえてくる気がしてなりません。
特に未来が闇のごとく不明な場合には、
未来の不明さはレトリックにすることは容易ですが、
メタファー的に「闇」は置き換えること不可能です。
今、日本の未来は「闇」です。
この国難そのものが「闇」であるからには、
少なからず一本の蝋燭のようなツールが必要です。
しかし、これはすでに「ような」ツールではありません。
私が意図していることは、
国難のわが国・日本の未来を「闇」にするわけにはいきません。
今夜もその「闇」への一条の光明=蝋燭のような、
灯り=火となるツールを見つけ出すか、
あるいは発明、創出しなければならないと考えています。
結論は、ツールの創出というデザインに他なりません。
火が文明の基本であったように、
今、未来の日本は再文明化出来るツールの発明、
何を創出するかというデザインです。
デザインは、一条の光明を創出すると確信しています。

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「光陰の下で佇む姿勢」


   


     7月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本は哀しみの中。
この国難の中で、
哀しみは次々と巡っています。
3.11、あの日のことを
私たちは決して忘れることはないでしょう。
しかも、台風も巨大であり、
自然の猛威に私たちは晒されています。
だからこそ、もう一度佇んで観なければいけないのでしょう。
「考」という文字が教えてくれています。
この漢字の源は「老」です。
老人=白髪で腰が曲がった形象を示しています。
そして、この老人が杖をついて佇んでいる形象が「考」になります。
つまり、考えるというのは、
老人のごとく、経験から知恵を紡ぎ出す行為ということになります。
私は、「考える」ときには、まず経験がベースになり、
それを補完するように人間や歴史が思考してきたこと、
それが経験から「学」なり「論」なり、となっていることが基盤です。
「佇む」こと、その心の中には哀しみがいっぱいあり、
哀しみがあればあるほど見過ごしてしまうことがかえって増えます。
これは私の実体験です。
見過ごしたことは膨大です。
したがって、最も重大なことは佇んでいる姿勢が問題です。
自然の猛威は光景=光と影、まさに光陰を投げかけています。
この光陰は猛スピードであって、立っているどころか、
佇んでいる姿勢を保つことさえ出来がたいと思います。
哀しみが怒りとなれば、佇む余裕どころか攻撃姿勢となり、
喜びと楽しみは、佇むことを一時忘れてしまうものです。
私は、たとえば本当に今の時代、
光陰のごとき事象すべてを見渡して佇む必要性を感じます。
あらためて、このまま情報化の進展が「クラウドだけ」に、
エネルギーのあり方が「脱原発だけ」に、
もっと国際的な関係論が「民主主義だけ」に、
自然と技術が「調和だけ」に、などなどに想いを巡らして
「佇む」姿勢保持で光陰を受け止められるのかということでしょう。
私に突き刺さってくる「光陰の矢」はまだまだ多いようです。

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「復興と救済のため元気に」


   


     7月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

東日本被災地を見ると、
まだまだ救済が先決。
それを威嚇する政治家の存在、
人間としてありえない。
彼を代議士とした地域を彼は穢しました。
今回この国難が私たちに突きつけていること、
まずは反省と自省というのがそれぞれが引き受けるべき事。
その第一が、現政権を選んだこと。
日本人は穏やか過ぎるのかもしれません。
「節電」ということをしっかりと引き受けています。
それに罰則を与えるというのは、
私の経験では、「伝統工芸振興法」と同じです。
この法律は、沖縄返還時に、
沖縄の産業振興が直接的な動機だったと思います。
ところが、この法律にも罰則規定が設けられているはずです。
要は、すべからく報告義務を設けて伝統的な工芸技術伝承、
理解不能なことが罰則規定になっています。
法律機能の悲しさです。
私も法廷に立ったことがありますが法律には、
どこか、人間としての基本的倫理を押し潰すようです。
少なからず、私は被災地の人たちの「我慢強さ」に、
私自身が励まされました。
だから、まだまだ救済されていないことへの世論が必要です。
そして、復興というのは、
被災地ではなくて、本当は東京であり、日本全体でしょう。
現政権こそ、政治姿勢の復興がなされないかぎり、
実際問題としての被災地対応には進めないと判断します。
ゆっくりとしている場合ではありません。
ホテルはしっかりと「節電」を守っています。
にもかかわらず、
ある公益法人はかいくぐっていることを目の当たりにしました。
復興担当大臣というリーダー性に大きな欠落を知りました。
救済すべきは、リーダーたちの人間性だったのでしょう。
私たちは、ここから、被災地以前に日本そのものが、
復興しない限りは、被災地を救済もできなことを、
あらためて確認しなければならないようです。
日本が元気を回復することをともかく皆が意識することでしょう。

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「最大の国難とは・・・」


   


     6月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

議院制民主主義が見えない。
これが今最大の国難です。
革命などは時代遅れでしょう。
そしてわが国では不可能です。
しかし、大震災津波・原発事故。
わが国は戦後最大の危機です。
無念ながら、国政・現政権への期待は皆無です。
私たちが革命など起こしている場合でもありません。
それなら、新たな「地方独自」の体制創出が必然です。
福井大震災時に「条例」という地方から、
その地方行政においてのみ有効な法案が可能です。
東京・現政権は政党政治のみ議院制になっています。
知事会・市町村の首長、特に被災地の知事と市長村長、
そして専門官僚で、この事態からの救済と復旧です。
もはや、議員制民主主義での国政では、
日本自らが鎖国し、国際関係から離脱し、
日本は地球上で破滅し破壊しボロボロになって、
漂流しなければならない事態になってきました。
被災地には、大都市からの行政支援が知事指示によって、
被災地行政にあたっています。国政には出来ない事です。
それすら現政権は権力を纏った妨害装置になっています。
今の日本に国政はまったく不要なのです。
やはり、市民運動家から生まれた首相では、
全くその指導力・リーダーシップは無いのです。
私は市民運動家が民主主義を破滅させ、
民衆主義を拡大させたと判断しています。
よって、今わが国の国難とは、
議委員制民主主義が破滅してしまったことです。
しかし、被災地救済復興と原発事故復旧は
緊急事態であり、その指導は「条例」によって、
相当のスピードで展開させなければなりません。

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「新日本システムとは「生命と生きがい」」


   


     5月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

ともかく連日認識しておくこと。
東日本大震災・原発事故は国難です。
そして被災地は、津波と原発地域の救済。
戦後確実にしてきた日本システムがありました。
当然、問題は国内外、相変わらず問題山積でした。
そしてこの国難が決定的に日本システムを壊滅したと認識します。
震災前には、日本システムに対する私たちは、
すでに「政治」・「経済」から「福祉」・「教育」、
そして「国防」などに全国民が大きな不安感にあったことは事実。
この事実への問題解決を議員制民主主義を司る政治家・政治屋へ、
まったく信頼感を失ってきたことも大変な事実でした。
したがって、日本システムはすでに壊れていたのです。
それが、震災・津波・原発事故で歴然として明確になったのです。
結局、私たちも日本システムが崩壊していることへの自覚を、
「政権交代」に向けて期待したことも幻想だったということです。
日本システムと私が言っているのは、
私たちの「生命」に最も直結した私たちの存在性維持体系です。
私は身体障害者で車椅子生活を余儀なくし、
心臓障害で、常に、心臓発作への恐怖感を日常化しています。
しかし、大学=教育・研究とデザイン=モノづくり=商品化で、
私なりの「生きがい」で生命と自己存在性を保持しています。
すでに老年期にある私は、
この「生きがい」を次世代に大きな希望と期待を持っています。
けれども、この国難を現前とすれば、
次世代に、大急ぎでこれまでの経験と、
今なおモノづくりデザインでの具体的活動を示すだけです。
そして可能であるなら、
現政権に関わる代議員職能を完全に破壊することで、
東日本被災地だけではなく日本全体を、
まったく新しい日本システム構築にむけて、
次世代が主役でやり遂げる環境と知恵を
私たち世代が準備する役割になっているというのが本音です。
日本システムとは日本人の「生命」と「生きがい」体系です。

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「リーダーシップ性とディレクション性とは」


   


     5月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

この国難で明白になったこと。
露呈してしまったこと。
隠蔽されたり、隠匿されていること。
物質としての街が壊滅し、
フクシマ原発事故でエネルギー問題が、
この長期になるだろう国難を支配していること。
そして情報はすべからくその指導力に依存しています。
指導力というのは、リーダーシップ性とディレクション性です。
結局現在リーダーシップ性とディレクション性が問われています。
私は、あえて、企画・計画・実施・運営・維持・管理について、
その監督能力をリーダーシップ力とディレクション力、
この二つがあるものと考えています。
それは、モノのデザインを職能にしてきた経験判断です。
デザインは「モノづくり」そのものではありません。
企画して具現化する様々な手続きに、情報的に関与し、
時に、リーダーとしての決断と、ディレクターとしての判断が、
そのプロセスから結果を制御するのだということを実体験。
つまり、判断と決断には、決定的な違いがあると思っています。
あくまでも、情報管理の実体験によって、
判断した結果と決断した結果には差異性があることは確実です。
したがって、リーダー、ディレクターという役割は違うものです。
しかし、いずれの役割においても、「結果」だけが残り、
その経過・プロセスなどに価値があるということは、
経験値を蓄積していく要素・要因にはなりますが、
それ以上の価値感はありえないと考えていることも事実です。
今、現政権でのリーダーシップ性は皆無です。
ましてディレクション性もありません。
理由は簡単です。
 ● 決断と判断には明確な順序があります。
 ● 判断して決断すること。
 ● 決断が判断の連鎖性と連続性であること。
 ● 判断と決断を同次元で結果にしてしまうこと。
 ● 判断と決断の違いが明確でも瞬時性と長期性を熟慮。
少なからず、この判断と決断で、
リーダーたる自分なのか、ディレクターたる自分なのかを
自分への詰問で自身の役割を認識することだと私は考えています。

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「『国難』だから現政権への造反有理」


   


     4月 29th, 2011  Posted 12:00 AM

真実、「国難」にある日本です。
しかし、大震災・津波・フクシマ原発だから、
国難になったわけではありません。
「政権交代」を望まねばならない時から、
この国難はスタートしていたのです。
そして、みんなが新しい政策転向に大きな期待を持ちました。
けれども、民主党政治は「素人政治」であり、
党内党略が国政の前に政治環境、その最悪化を連続させています。
逼迫した国家予算も、「バラまき」一辺倒であり、
なぜ教育費が無償化などには、知識層は疑念を掲げていました。
官僚支配からの解放は「仕分け」というパフォーマンスであり、
「世界でNo.2でも構わない」。この発言に国民は仰天しました。
このような低レベルな言動女性代議士はホステス閣僚であり、
見事に、大衆主義を体現する象徴になったままです。
日本のイデオロギー構造(この見方をしなくてはならない)は、
明らかに「社会主義化傾向」を見せ始めていました。
こうしたときに、必ず、天災に襲われるのです。
村山政権時も同様に、阪神淡路震災に見舞われました。
自衛隊を「暴力装置」とみなす政権には、
本来、国政を司る権力性を預けるべきではなかったのです。
大震災は原子力発電所の破壊を誘発しました。
しかし、これは明確に人災でした。
よって、私は原子力推進派ではありませんし、
しかも脱原発派でもありません。
むしろ、どれだけ「文明の利器」が怖いモノだからこそ、
新たな原子力技術の進化を求めたいという人類義務意識者でした。
[自然・科学・技術]・対・[人間・デザイン]ということが、
今や一方的な脱原発思潮が世論化しています。
私は、無論、救済・復旧・復興がこの国難と対峙していますが、
それ以上の国難は、一方的な脱原発志向だと思います。
なぜならこの国難解決をさらに困難にする政権支配だからです。
私の世代は、70年学園闘争世代です。
にもかかわらず、この政権を破壊出来ないでいるのです。
私なりの「造反有理」はここに書き残します。


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「破綻していく議会制民主主義は・・・」


   


     4月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

資本主義、
その下意識主義には、
民主主義が正当な論理構造。
私が次第に納得できなくなってきたことです。
「資本主義からの逃走」という
ブログを書き始めた動機でした。
この予想は予知だったのかもしれません。
結論を連日見せつけられつつも、
何も抵抗できない自分が居ます。
民主主義がわが国では「議会制」の中に配置されながらも、
「議会制」に呪縛されて解放を成し遂げようという動機すら、
すでに忘れ慣れ切ってしまっていた私たちなのでしょう。
突然、天災がその巨大な特権を発動させた気がします。
わが国の「議会制民主主義」は破綻しています。
問題は三つだと突き詰めることができます。

  ■「多数決」ゆえの政党間騒動がそのまま政治反映
  ■ 民主主義への徹底した疑念を怠慢放置した思考停止
  ■ 議会を構造化している資本主義の脆弱さ放任

この三つを解明できない大衆主義があたかも民主主義という錯覚。
議会制民主主義の制度たる三権分立を崩壊させたマスコミの存在。
私たちは、このあたかも津波に飲み込まれた破綻事態を
「天災tunami」=国難で思い知らされているのでしょう。


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「資本主義からの逃走」
  「シビリアンコントロール能力の問題が浮上」


   


     3月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

やはり政権交代か・・・
自省しています。
やはりパニック状況が自身奈辺にあります。
私自身がヒステリックに言葉を選んでいるようです。
しかし、国難という判断は間違ってはいないでしょう。
自衛隊10万人というのは、全隊員46パーセントです。
二つの歴史的演説を想起しなければなりません。
自衛隊が発足されたとき、
吉田茂首相が最初の演説をしています。
要旨は、自衛隊の存在は、軍事であり軍事は有事と災害。
そして、とてつもない厳しい規律と訓練は、
自死を国家に、そして誹謗中傷の存在となるかもしれない。
万が一、国民から感謝と敬意を持たれたとき、
それは日本民族の存続と国難が問われた時という演説です。
今回の地震・津波・原電事故の訓練は幾たびもされていました。
しかし、それが現実となってしまったのですから、
これは国難です。
無知なる政治家・現政権のシビリアンコントロールは、
自衛隊最前線の配置人員すら知らないで「命令」しただけです。
その命令には、「処分」という言葉が本当にあったなら犯罪です。
統幕人員2200名に今、政権を任せるべきだと思います。
いわゆる「軍事政権」です。
しかし、有事=戦争ではなくて、敵は天災と人災です。
三島由紀夫自決の時に、
彼の演説は全く説得力がありませんでした。
けれども、いづれシビリアンコントロールに防衛庁(当時)は、
政権からの命令に言うがままであれば、
それは国家滅亡という檄文でした。
御用学者・学術会議・現政権・マスコミは、
国際的な監視に晒されています。
頭脳流出している海外在住の学者からの提案をも無視、
このような政権では、この国難突破の無理困難性がみえはじめました。
先進国家はじめ国際的な判断は、
人類の危機として、わが日本を監視しながら、
それぞれの決定を自国民に通達しています。
もちろん、国際的な風評での判断や裁決も目立ち始めていますが、
日本は、原爆被災国家、先進的技術国家、秩序有る有能な国民国家として、
この堅持をこれから長期にわたって、「復興」に向かうべきです。
新たな「この災害対応のための緊急的な軍事政権」で、
最悪シナリオでの政権運営が必要だと判断せざるをえません。
「官邸政治」を一時的な「防衛省政治」にするべきだと発言します。
今、私たちに問われているのは、
「何が自分にできるか」を自問する段階から、
「自分が何をするか」になってきたと思っています。
民主政治であったはずの政権交代に見切りをつけて、
世論判断での軍事政治にしなければならないほどの国難です。
私のパニック的かつヒステリックな陳述であってほしいのですが。


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