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Posts Tagged ‘幸運’


『この実例に世の中の無責任でいいかげんさが表れている!』


   


     12月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

駅舎の屋根裏に、それなりに機能実装をしていることですが、
まるで、やっつけ仕事であり、
この設計担当者には確実に教育を受けたはずですがやりきっています。
確かに、必要な現代性的技術表現はかなっているだろうし、
ホームを利用している人間も気づいて無視を決め込んでいるのです。
せめて、コード類のカラー表現ぐらいするべきでしょう。
この配線などどうでもいい人間には、無視で構わないでしょうが、
私には許せない。絶対に許せないのダ!と叫びたいほどです。
電柱の電線もこれに等しく、ただ張り巡らせばいい、それが賃金仕事。
それで「構わない」仕事だ、という風潮が間違っていると思います。
この風潮を正すことは、重い仕事だと思っていて、疲れ果てました。
経済とは経世済民を略した、いい加減さがあり、
経営とは、経世済民運営をもっと略して経営なのでしょうか?
いえ、経営とは金儲けの手段にしてしまった貧しさにしたのです。
そんな経営者ばかりが脱税など才能と言い張っています。
貧しさとは、この屋根に取り付けられた配線函そのものです。
日本には、武士道があり、食わねど爪楊枝の真意、極意にまで、
我々が生涯を賭し近づくために生きのびて死を迎える哲学でした。
この哲学に貧しさこそ美学、美学ゆえ貧しさは誇れることでした。
さて、この配線函は貧し過ぎるはずです。これが象徴なのです。
これは「フツウ」なことでしょうか?
フツウが美しいわけはないのです。
フツウの取り違えは、平気で盗作を行います。そんな制度は許せません。
いい加減な連中が、ブームだ、流行だと喧騒化を仕掛けています。
こんな仕事を選ばなかったことは本当に幸運でした。
私は躊躇無く、正視することができます。
正視できる幸運さがあるから、この配線函すら許せません。

『私の大疑問は電力というエネルギーへの不配慮』


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『男に嫉妬あり、田中泯と松岡正剛の間に割り込む』


   


     1月 30th, 2014  Posted 12:00 AM

大体、男世界でのライバル心とジェラシー心について、
私にはとてもつまらないことです。
だから、私が相手にもしない男輩には、
ほとんどがジェラシーしかないものだと断言してきています。
大学空間、デザイナー空間も、つまらん輩のジェラシー一杯です。
久々にライバル心を確認することは幸運さだとさえ考えています。
そしてつまらん輩にはなるべく会いたくもありません。
先般、盟友・松岡正剛の「暴走古来稀」の集まりでは、
いつも少数ながら話し込む人物に出逢えます。
いとうせいこう、ワダエミ、真行寺君枝、井上鑑、そして内藤廣。
無論松岡正剛を支えるスタッフは長年変わらずの懸命な賢明さに、
いつも大きな敬意があります。
今回、田中泯そして石原淋と出逢いました。
田中泯、この舞踏家は久々に出逢った「男」でした。
そうしたら、「意身伝心」という対談著作が出てました。
早速注文して、会議中も読んでいました。
正直、松岡正剛と田中泯のやりとりに「嫉妬」しています。
まだ、読書途中ながら書き留めようと思いました。
なぜなら私と田中泯との出逢いと突発的な緊迫時がありました。
そうして、次にいつ逢えるかと私は思い続けていて、
そうだ、ともかくこの本ともう一冊、彼の本を読みます。
知ったこと、彼も私も警察官の息子でした。
父親が警官であることは、
ある種の生真面目な礼節で社会に向かう性癖は残るようです。
しかし、その環境が育成してくれたことの差異はあるでしょう。
ともかく、私がなぜ、田中泯にこれほどの親密感を覚え、
なぜ、松岡正剛との対談に嫉妬しているのか、
もはや、この男の嫉妬は無論ジェラシーごときではなく、
されどライバル心ではありません。
もう一度、今度は三人で逢ってみたいのです。
というより、田中泯と松岡正剛の間に割り込んでやるのです。


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『人生70暴走古来稀・松岡正剛氏』


   


     1月 25th, 2014  Posted 10:36 AM

松岡正剛氏を知の巨人だと人は呼びます。
彼の存在を知り出逢い、すでに彼は70歳になりました。
もし、彼の執筆活動すら知らないとするなら、「知」無き人でしょう。
彼の誕生日の会、その発起人をしました。
私は「幸運と幸福」をといつも考えますが、
彼のその集まりでひとしきり彼に宿っている幸運と幸福を見ました。
そうそうたるメンバー定員100名のはずが、200余名集まり、
「誕生日」という制度を全否定直言しつつも「祝う」ことに、
私は日本の知性の深度を確かめた想いでした。
本来は「幸不幸」から生まれた「幸運と幸福」には「幸」が基底です。
「幸」とは、両手に手かせで行動を遮断された意味があります。
この話をして、ある著名な舞踏家にたしなめられましたが、
それさえ私の幸運さがあり、その集まりの雰囲気でした。
これほど私たちの国が、確実な天災を予知しながら、
見失っているもどかしさを抱きつつ、
まだ幸運で幸福でありたいとだけを願う哀しさがあります。
いつの日か、書き留めなければならないことが一杯あるのです。
とりわけ、私にとっての松岡正剛なる人物の「あっぱれ」さです。
しかし彼の論理には、「あわれ」と「あっぱれ」は、
同値とする断言力に彼を敬意し、
この力がなぜ備わっているのかが、実は「知」の正体かもしれません。
ちょうど彼と出逢ったのは私が40でした。今私は間もなく65です。
だから5歳年上の彼の「知あればの幸運と幸福さ」を見届けました。
これから、この日のことも時にふれて書き残すことがあるでしょう。
知力が磁力だと証明できうる唯一の人が松岡正剛でしょう。
贈答された「暴走族ユニフォーム」もあっぱれでした。
ここに集まりし人たちの集合知をもっても「現代日本」を変革できません。
それこそ、私たちが「失っていく課程」の瞬間に生涯がある悲哀です。
だからこそ、「祈る」ために「祝う」幸運さが幸福を招くこと、
私は松岡正剛という人物の70年目にそれを見届けた一夜でした。
そして、私は感謝の行為をその舞踏家から教わりました。


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『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』


   


     1月 12th, 2014  Posted 12:00 AM

私が仏教関係の書籍を最も読みあさったのは29歳でした。
それは車倚子生活を余儀なくされたので、
「なぜ、自分にこのような生涯が・・・」という疑問からでした。
したがって、仏教関連の書籍は相当に持っていますが、
先般、森政弘先生の講義を受けて、
すぐに先生の「仏教新論」とともに、
講義の核心であった「華厳経」はこれから徹底的に読破を決定。
届いた「華厳経」の口語全訳は上下二巻でこの厚さがあります。
少なからず教養的に知っている程度では森先生の講義本質には、
私はとても到達はできないと考えました。
「華厳経」は、様々な仏様同士の会話であり、
この経典が仏教の骨格であり、あの道元もこの引用がありました。
森先生は、坊さんが葬式で読むあの「お経」の意味に興味があり、
この「お経」から哲学的な思考とその結論を知ったという話です。
いわゆる「般若心経」の解説本のいい加減さも批判されました。
私にとって「読書する」ということは、
一人っ子で育ったこともあってか、とても好きな領域です。
私は常に思います。
「読書」が何よりも好きだったことが、
そういう家庭でそだったことがとても幸運だったと思います。
「大学人の間は持っていなさい」と恩師に言われて、
名古屋から大阪にほとんどの書籍を移しました。
もう書籍などいらないとすら思っていましたが、
結局、自宅の寝室は常に書籍だらけになってしまいました。
ともかく、整理をし直して、
これからこの「華厳経」の世界にどっぷりと入ってみます。
最近は、電子本であれば読書も簡単ですが、
この上下二巻は、本の香りがします。
これを読み終えたなら、また私の活動の何かが変わるでしょう。


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『ご飯のふりかけ最高もの・福井名産数多し』


   


     11月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

子どもの頃から、ご飯には「ふりかけ」が必需品でした。
そうして、ふるさと福井には「ふりかけ」最高品が一杯あります。
なんといっても、蟹とウニが最高です。
残念なことは甲殻類アレルギーになりました。
理由は、除細動器を体内に埋め込んでからのアレルギーです。
したがって、ウニのふりかけが一番のお気に入りですが、
きわめて高額です。
このふりかけは出征を余儀なくされ、これが生まれたらしいのです。
おそらく国内のふりかけの中では最高品最高額品でしょう。
でも、大好きです。
ウニは子どもの頃には三国の浜のおばさんが売りに来ていました。
シンプルな曲げ木のパッケージに、
ぎゅうぎゅうにたくさん詰め込んでもらった記憶があります。
だから、名産となって、気取ったパッケージを見ると、
当時の簡素なパッケージの方が美味かったとさえ思います。
最近は月1にはふるさとに必ず帰るので、
ふるさとの味は、いつでも自宅にそろっているのがうれしいです。
ワイフは京都ゆえに、京都に帰ればやはり京野菜は買い込みます。
車椅子になって、父や恩師から北陸に帰って来いと言われたときも
結局は、帰ればあれが食べられるとすぐに思ったものでした。
味覚は14~5歳で決定するとさえ言われていますから、
北陸に育った私には、なんといっても「ふるさとの味」が、
今でも楽しめることはとても幸運なことです。
ただ、母とは21歳の時に死別しましたから、
母の味の記憶はあっても、もう確かめることはできません。
父母や祖父母の好みは想い出すことができます。
人って、結局は育った環境の食べ物こそ生涯の味の基本です。
私にとって、ウニは欠かせない食べ物のひとつです。


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『久々にCDを購入する・・・もうその時代は終わったと思うが』


   


     10月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

オーディオからデザイナーをスタートさせたこと、
それは私にとってとても大きな幸運でした。なぜなら、
オーディオからダンディズムを学べる恩師を持てたことです。
実は、もうCDの購入は辞めました。
理由は、まだリッピングしていない相当のCDがあることと、
CDよりも直にインターネットで音楽がデータとして購入可能です。
しかし、私は恩師録音のCDは買うことにしています。
もちろん、すぐにリッピング(Appleロスレス・エンコーダ)します。
iPod classic160GBは、カテゴリー毎に5台目ですが、
まだあるCDのリッピングをすれば、もう人生はそれで充分、
一応そうは思うのですが、ついつい新曲にはひかれます。
最も、私が惹かれるのは、
なんといっても恩師と同等の力量ある評論家選出の音響と音楽。
しかし、これはもうほとんどありえません。
あとは、私が講演会スタートで利用する音楽の収集です。
もう一つは、このFB内に「オーディオファイル達のクラブ」、
その中で、信頼できる人が選び抜いている音楽は、
どうしてもともかく一度は聴くことにしています。
恩師自らの録音や、彼が選び抜いている音楽については、
なるべく、いや絶対に私の収集曲になります。
かつて、オーディオ評論家の何人かの人たちに、
東芝のデザイナーとして意見を聞いていた時期があります。
その当時には、正直、どうしようもない評論家がいました。
そうして、この人がいつかはこのオーディオ界で有名になるかも、
そんな人が現在メディアでの発言を読むと、がっかりします。
そういう意味では、私にオーディオだけでなくダンディズムを
徹底的に仕込んでいただき、
名古屋の自宅では、オーディオチェックをしていただき、
そのまま恩師連載に取り上げてもらいました。
だから、リッピングしてもこのCDは持ち続けるでしょう。

 


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「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」


   


     9月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

車倚子生活を余儀なくされてふるさと福井のデザイン活動は、
福井県内の伝統工芸と格闘をしてきました。
私が幸運なことは、越前打刃物の伝統に工業デザインを導入し、
工房まで建設し、今や第二世代が育ってきたことです。
一昨日には盛大なセレモニーをしました。
越前和紙、越前漆器、越前陶器までの仲間もいます。
私は、改めて第二世代に、私のデザインで新開発に入ります。
これまでも幾人かのデザイナーも取り組んでくれましたが、
感動できるモノは・・・・・です。
私は「中興の祖」を自負するだけに、
絶対に革新的な刃物を提案してみせる覚悟です。
第二世代に、第一世代にいつも語ってきた、「切る」こと、
それは漢字の世界に見事に展開されています。
もう一度みんなに、この世界観にもどって、
「世界一の産地」になってもらうつもりでいます。
昨日工房をたずねれば、やはり海外からの方々もみえていました。
第一世代は「親方衆としての刃物芸術」にまで入ってもらいます。
今、私のデザインはすでに30年のロングライフ商品のままです。
越前市長とは、彼が大卒後に松下政経塾生時代から、
現地の素材メーカー社長とも久々に私のアイディアを伝えました。
最近、日本各地の伝統工芸産地や地場産地の、
誰が考えた計画案なのかを調査するたびに、
私は呆れ怒りがわきます。
それだけに、私にはPFI=Private Finance Initiative方式を、
大学人・デザイナーとしても、この「国難」に差し出します。
第二世代には、親方衆との闘いの日々を伝えて、
もう一度、今度はいきなり海外で「見せる」のです。
日本の伝統的刃物はこうして革新することを、
「次の私たちも、美しい切れ味を鍛えていきます」と。


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「オーディオの恩師はダンディズムの恩師でもある」


   


     5月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

オーディオからデザイナーになってきたことは、
私の最大の幸運だったと本当にそう思っています。
これは2002年7月4日25年ぶりに恩師の本宅前で会った写真です。
オーディオ評論家という人たちには、
オーディオ機器のデザインというよりも、
その本質である音質を技術性能や営業投資効果と、
その評価と判断を受け、なおかつ彼らの推奨をもらうことでした。
正直、私はほとんどの評論家、
彼らのセンスを認めていませんでした。
本当に、人間として最悪な商業主義の方もたくさんいました。
高校時代に会ってたら、殴っていたと思います。
本当に信頼し、人間としてはもちろんのこと、
オーディオだけの評論家よりも、音楽から芸術まで、
さらにデザインとなると、当時はほとんどが駄目でした。
たった3名を私は認めていました。
ついでに述べれば、当時、いつかはこの人も評論家になる、
そんなことを幾ばくかの上司からも聞かされながら、
「あの人になったら、最悪だ・・・」。
まさに、現代、そういう評論家が大家と言われていますが、
本当に最悪の評論を書いています。
親しい教え子たちには、
あの人の評論なんて無視してかまわない、と伝えています。
そんな中で、私の恩師は、西洋人形からパイプから、
ともかく「ダンディズム」ということの本物を知りました。
恩師とともに、あるオーディオ誌で連載を持ちました。
しかし、編集部方針には合わず、すぐに辞めました。
あの時の私の予測に、現代はなってしまっています。
その頃、<そんな時代になるわけがない>とか非難されました。
ところがどうでしょう。
やはり、商業主義方向はさらに進んでいまやベッタリの誌面です。
オーディオの物欲は、ダンディズムの極致です。
オーディオ機器の前に、音楽があり音響があり、機器があります。
それどころか、基本は科学性と芸術性が見事に、
デザインに集中しています。
「デザインベクトル」はオーディオに突き刺さっていますから、
それはダンディズムそのものの物欲を超えることかもしれません。


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「『学際化』によって危機管理デザイン工学をめざす」


   


     5月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

4月から、大阪大学大学院を一旦退任し、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設しました。
その基本となるように危機管理デザイン工学を
定義可能かどうかを、どこか学会に論文提出を考えていました。
幸運にも、日本機械学会誌から依頼論文をいただきました。
私にとってと講座学生にも、
これは大きなチャンスになりました。
依頼論文は4頁でしたが、
デザインと機械工学、この二つの学域を「学際化」論にしました。
連休前には準備論文を殴り書きしたら6頁にもなってしまい、
大慌てでこれを削り落としながら、
かえって、論旨を短くすることが出来ました。
そして、その論旨を図解化することや、
図解をしながら、再度論旨の要点をまとめることに繋がりました。
韓国から帰国して、
あらためて、原稿締め切りを確認したら、
当日が締め切りということで、またもや大慌てになりながら、
自分を集中させて取り組みました。
まだ描き終えていなかった図解も、論旨検証をしてまとめました。
一応大学を退任して、特任教授という立場になったからこそ、
今年は正月から論文を書くことができたのかもしれません。
正直、大学退任時期になったこともあって、
いくつかの学会を退会しましたが、
残っておくべきだったかもしれません。
もっとも、今、寄附講座選任での博士後期課程学生もいます。
このところ、論文作成に向かいながら、
「デザイン」は、科学=知識体系=分科学の統合に対して、
学域の接着剤のようなものだと実感し直しました。
なんだか、落ち着いて、これまでのデザイナー・大学人、
この二つの実体験を「ことば」の集大成=論文化可能です。
私に残された時間を常に意識するようになりましたが、
かえって、次世代、次・次世代に書き残すこと、
本当に増え続けている気がしてなりません。
私のこれから大学での大きな役割は、
「学際化」するデザインの実務だと思っています。


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「『光造形システム』での全置換人工心臓モデル製作」


   


     5月 9th, 2013  Posted 12:00 AM

私が名古屋市立大学で導入してもらったシステムは、
当時は最高のシステムでした。
IDEASからPro-Engineering、そしてCATIAへと、
それぞれをSiliconGraphics社のEWSで造形実験が出来ました。
したがって、3D-CADそのものの大学提案を求められて、
いつでもアプリケーションは提供される幸運でした。
大学は新設のために、
かつては名古屋女子短大の調理実習室が大改造された部屋を
二つに造形装置と重合硬化装置や洗浄機までがありました。
大学を転籍する時には、
光造形装置は紫外線レーザーと半導体レーザーが二台ありました。
高価だったのは、紫外線レーザー光管は500時間で取り替え。
硬化樹脂素材も大変に高価でしたが、
芸術工学部として、当時はデザイン系大学にも無かったので、
大学の施設シンボルになっていました。
私は市民税という血税で運営されていることからも、
24時間常に稼働させるとともに、
海外からの見学者や医学部の整形外科からも研究生がいました。
メビウスリングそのものがとても3D-CADではEWSがトラブル頻繁。
しかし、院生の中でも際だった者は、様々な形態を
光造形で造形を成し遂げて論文も勝手に作成していました。
私の想像では、想いもつかない造形に成功していた僅かな者は、
必ず、3Dプリンターを即刻理解すると思っています。
現在、3Dプリンターには三つの流れがあります。
2002年FabLab、2005年RepRap、2012年MAKERSという図があります。
もちろん、この見事な分析図からは、
今後の「デスクトップのモノづくり」が見えてきます。
しかし、光造形でエポキシ樹脂にレーザーを照射して、
最後に装置のエレベーターでモデルが仕上がって登ってきます。
この状況を見ている人はどれだけいるのでしょうか。
これは本当に「とても美しい」のです。
私は当時は、光造形装置の部屋には入りませんでしたが、
このモデルアップの時は惚れ惚れと眺めました。
だから、現在の3Dプリンターではその美しさはありません。
けれども、とても安全装置になったのは、
この装置を
自宅のキッチンに設置しておいても大丈夫になったことです。
「安全」な装置という進化が3Dプリンターにはあります。
でも、モデルアップの光造形の美しさは格別です。


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