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Posts Tagged ‘意志’


「SNSが変えたデモ参加の心理は反射的群衆化」


   


     7月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

3.11以後、デモは新たな政治批判勢力になっています。
日本の政治状況を見れば、そうせざるをえないことは明らかです。
ここに4冊の本を取り上げました。
古典的定本から、まるで検討違いもあります。
しかし、私は様々な著述を知ってこそ、
自分の意志と判断を出来るかぎり正当にしたいと考えてきました。
かつて、大衆は分衆化するという時代がありました。
ただ問題は、大衆の群衆化は慎重に見まもる必要があります。
現在のデモ形態は大きな変貌と新たな戦術を手に入れています。
いわばこの力学が正当に、
直接民主主義になってくれると思い込んでいる風潮があります。
これは風潮にすぎません。
三つの戦術はとても有効です。

 ■「非暴力」であること、
 ■「TAZ=Temporary Autonomous Zone」
   一時的自主管理空間の占拠が可能となったこと、
 ■「マイク・チェック」という、
   主張の尊重がデモ意識を精査していること、

私は、すでに民主主義と資本主義が対立しはじめていることによって、
デモが単なる民主主義表現ではなくて、
民衆主義という群集心理の総体になってしまうこと、
それはハッカー攻撃をするハクティヴィズム集団「アノニマス」までを
正当化している脆弱さを引き込んでいます。
彼らの手口はやはり情報化テロリズムだと私は糾弾しておきます。
SNS特にTwitterやUSTなどでのライブ情報の共有にも、
反射的な即断を促されてしまう、
リーダー無き群衆を動かしている事実も精査・熟考するべきでしょう。
私は三つの戦術に大きな期待感もありますが、
「群衆心理」になってしまうことから開放される
革新的な方法論とデモ形式が必要だと思っています。


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2月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 6th, 2012  Posted 11:46 PM

2月6日 先負(丁酉)

「わがまま」が強ければ強いほど、
自分の意見や考えを
最後まで押し通そうとする意志も強くなる。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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9月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 20th, 2011  Posted 2:15 PM

9月20日 赤口(戊寅)

見つめるべき表裏、
表面という外観と
その外観を構造化している
内実=デザイン意図や、
デザイン表現の意志=哲学は、
語り切る言葉が少ないからかもしれない。

『デザインという先手』触手


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「資本主義からの逃走」
     「識ること、科学という訳語の原点視界」


   


     1月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

訳語「科学」の間違い
「科学」という訳語は大きな間違い。
哲学者N先生から私は学びました。
この指摘を受けられたことは私の幸運です。
したがって、デザインをあたかも支援している科学を吟味してきました。
さらに科学と技術、その認識デザインの関係に大きな誤りが最近ますます蔓延しています。
この蔓延状況に翻弄されているデザイナーへの忠告です。
「だから、あなた方のデザイン造形が美しくない」ということに至るわけです。
それは「意識」としての「識る」ことが、
ラテン語・sciusからフランス語・scienceに定着したことに関与していることです。
この原野から見直すべきでしょう。
それはScienceのことです。
scentia・良心的な知性の育成であるべき学域領域の訳語間違いに端を発しているのです。
日本語訳では、様々な「科目」=「分科している学域」、
これが「科学」となってしまったことをN先生は多くの著作で書かれています。
科学技術はもっと間違い
しかもこれが「科学技術」となれば、
原意・原点的な経緯と由来が正確に意思に反映された意識・意志にはつながりません。
もし、正確無比を目指すなら「科学」と「技術」です。
科学技術では、デザインの意思決定、すなわちデザイン意識の基盤ではありえないのです。
したがって、文明・文化の下敷きとして科学・技術をそのままデザインの背景とすれば、
デザイン表現である造形「美」の間違いが氾濫することになるわけです。
願わくば、意識=「識る意思と意志」がscienceという前に、
むしろ「芸術」からのデザイン意思が良心的な解釈だと考えてきました。
デザイン決定=造形への思索・意思が、科学あるいは技術で支援されるとするなら、
芸術・artと技術・technology/engineeringの意思を再度見渡しておくべきでしょう。
芸術原野への「意」
その視界には芸術でインクルーシブされた科学と技術、
この原野に取り囲まれている融合性へと、デザイナー意思を向かわせるべきでしょう。
あえて科学的な表現をするなら、
「学際的な統合」としてのデザイン、
デザイン造形への決定意志は「意」の原点にあるということを私は確信しています。


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「資本主義からの逃走」
     「意識とは生の認知であり良心」


   


     1月 14th, 2011  Posted 12:00 AM

『諳+戈』
意は「意識」に至ります。
通常の「意」に対する解釈です。
私はその前提に「音」と「言」にしました。
私なりの解釈は、
「諳」ということが「意識」への手がかりということになります。
『諳+戈』ということで戈(ほこ:ほこづくり・はこほこ)が「識」です。
これは音=もやもやしていること+言=発音明確の諳に刃物が入るわけですから、
明快になる、あるいははっきりさせるということです。
しかし、意識には意という諳の状況を「決定する形容詞」とした識です。
この意識そのものを明確にしている言葉を探し出してみます。
そうするとconsciousnessという言葉を見つけ出すことができます。
ラテン語[conscius]は、cum(接頭辞) +scire(「知る」の過去分詞scius)であり、
これは英語にもフランス語にもつながっています。
意味はこの構成通りに、三つの意味があることが確認されています。

   ■ ある知識を共有したり共謀したり、時に共犯関係まで意味します。
   ■ ある行為、思考、感情までを含意した知という自己意識そのもの。
   ■ そしてその自己意識にには、「良心」=conscentia
自己意識という良心
私はこれは、「義」あるいは「善」を意味していると解釈しています。
よって、諳+戈とはいわゆる「明」=道理が明らかであることを認知する力だと思います。
日本語は「意識」の前にまだ「意思」と「意志」がありこれは「良心」だと認識しています。
さらに私は「情報」には「意識」という意味も含蓄されていますが、
もう一度、「意識」=「意志」+「意思」を「良心」が本来包み込んでいる言葉だと思っています。


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『資本主義からの逃走』
    「表現としてのデザイン、その構造」


   


     7月 27th, 2010  Posted 12:51 AM

構造=関係
このところのブログでは、「構造」という言葉を私は使いすぎています。
しかし、それには私の重大な思い入れがあります。
デザイナーとして、本題の資本主義、その構造を見詰めているからです。
構造は、思想的な「構造主義」や、
学術的な領域それぞれでの術語定義がありますが、
私は単純明快に、いわゆる国語的な語彙としては意味を二つの見方だと考えます。

● 全体の仕組みから、その全体性を要素づけている関係
● 様々な要素が、全体あるいは総体を仕組んでいる関係

いづれにも「関係」という語彙がありますから、
構造=関係、関係=構造でもあるという見方です。
そこで、資本主義、特にマルクスによる批判から現代世界の構造あるいは関係に、
全体性となるデザイン、あるいはデザインという総体性に、
「表現としてのデザイン」を再配置する動機、意志、態度、方法、手段、結果、効果、成果が、
「逃走の場」になるかもしれない。
いや必ず「場」になる、その構造こそ、「デザイン表現」だと思っています。
私はデザイナーになるための「表現」、その技法、技術ということを身体化してきました。
「表現」に対する精神性とか心理性とかには、まったく無関係です。
ともかく「デザイン表現」とは「視覚化できる」技法・技術です、
それはテクニックと言った方がいいかもしれません。
スケッチ=資本
ずばり、テクニックというのは「スケッチ」です。
デザインスケッチということは、「問題解決イメージの視覚化された二次元表現」です。
資本主義構造に当てはめるなら、
そのスケッチが「資本」、
または「貨幣的なモノ」などに当てはまるでしょう。
デザインスケッチをひとまず「資本」とするなら、
この「資本」は、問題解決の構造を明確に「視覚化」できるということです。
そう言う意味で、私は「資本」=デザインスケッチ=「表現としてのデザイン」こそ、
新たな資本主義を必要とし、
その必要性こそ「逃走する場」だと確信にまで至るのです。


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『資本主義からの逃走』
   「綺麗事が慈愛資本になることを確認する」


   


     7月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

「綺麗事」
「慈愛」という「優しい」感性論を私は述べてきました。
まさに、「綺麗事」です。
むずがゆくなるほどの「綺麗事」です。
しかし、「慈善」という制度となっている社会的演技性は全否定しています。
「慈善」というのは「綺麗事」ではありません。
もし、慈善事業で私が認めるのは、
その資金を提供することと、町中を掃除することぐらいでしょうか。
「綺麗事」というのは、まず「綺麗にする」コトが前提です。
この前提は、形容動詞の行動だということです。
「きれいな私になりたい」という女心、
最近は男性も「きれいになる」ということが具体例です。
しかし、「綺麗事」は辞書的には三つの意味があると定義されています。
1. 表面だけを取り繕って、見かけや口先だけ、体裁を整えて見せること。 
2. 手際よくきれいに仕上げられた仕事  
3. 自分は汚れないで済ませられること。  
こうした定義から、むずかゆさを覚えるのは、
体裁づくりや、自分が免れるようなことをも「綺麗事」という意味があることです。
私の本命的な意図は、
 ● 手際良さ 
 ● 美しさを呼び込むために綺麗にする意志
 ● 仕上げが充実していること 
この三つです。この三つをデザインの目標にすることです。
いわば、「綺麗事」を口にするときに覚える体裁や
自分逃れっぽさを全否定する清々堂々とした態度が「綺麗」であることです。
デザインは「美しさ」を目的にしています。
偽りや体裁づくりではありえません。だから、正に「綺麗事」の中核を創出することです。
たとえば、理想主義の思想は「綺麗事」です。
それも抽象的な表現に傾く傾向があることは否めません。
だから、政治も経済もその思想には、体裁や見かけでの誤魔化しが横行します。
けれども、デザインで具現化されたモノ・コトは、
まず、綺麗かどうかの判断評価があります。
清々堂々・正々堂々
もし、体裁デザインであれば、それは即刻否定され、デザインされた価値を剥奪されます。
デザインは正直です。
その正直さに「慈愛」が込められている「綺麗事」が真正面的に評価されることです。
「綺麗事」への信用と信頼をデザインが発信し、
「綺麗事」という社会的評価が正当でなければ、そのデザインは全否定されることになります。
デザインが創出する「綺麗事」こそ、
「きれいな社会」から「美しい世界」へという道程にほかなりません。
私は「綺麗事」を正々堂々と表現伝達する職能がデザイナーだと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*


   


     1月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

手と空
いつもスケッチと数式を描き書いています。
「手」に造形・数理の思考が採集・集中・集約します。
「手」が動き出すまでには、
「手」はほとんど運動神経が支配している所ですから、
頭脳は「空」=emptinessになっています。
だから、思考が蠢いているとは感じられません。
ところが訓練した「手」には「思考脳」が発生します。
これが不思議なことですが、私は確信しています。
デザイナーの修練・資質・才能・意志・存在感、
それらを統合化しなければ、
この不思議さを身体化できません。
これはほとんどスポーツや楽器演奏とも同一だと
私は想ってきました。
手の訓練
美大生時代は、徹底的に「手」の訓練をしました。
泣くほど訓練をしてきたと思います。
デザイナーである現在も「手」をひたすら精進です。
今、教育者として「手」=デッサンを重視しています。
もう、「手」で一本のラインを見ただけで、
学生や若いデザイナーの「力」=能力が見えます。
私自身のデッサン・スケッチには健康状態も出ます。
もう一つは「手」は女性のごとく「手入れ」必死です。
ハンドクリーム
手の洗い方からハンドクリームについても、
相当に試行錯誤してきました。
特にハンドクリームについては一家言持ってます。
「手」が、
実は「脳科学」が集約しているとさえ思っています。
「思考」は「試行運動」で「手先」から表現されます。
私は、思考が行き詰まるといつもじーっと、
自分の「手」を見つめることにしています。
ちなみに、ハンドクリーム評論家にもなりたいです。


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10月06日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     10月 6th, 2009  Posted 2:46 PM

10月06日 先勝(甲申)


「わがまま」とは、
自ら思ったことを積極的に口に出し、
自分の想い通りにことを進めていこうとする
心意気に他ならない。
この「わがまま」が強ければ強いほど、
自分の意見や考えを最後まで
押し通そうとする意志も強くなる。

『プレゼンテーションの極意』とても「わがまま」下手な日本人。

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