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Posts Tagged ‘人工物’


7月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 13th, 2011  Posted 10:00 AM

7月13日 赤口(己巳)

特に、
人工物と生命の関わりが
派生してくるような場合は、
なおさらのこと、
この考え方を具現化させていくために、
デザインがあると思っている。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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『資本主義からの逃走』
「十牛図確認・モノはヒトとコトをつなぐ構造化助詞」


   


     6月 20th, 2010  Posted 2:00 AM

モノ=モ・ノ
モノいう表現は、私流には「人工物」をという意図です。
今日ある大学デザイン系の報告書を読みました。
大学の後輩が教授職にあります。
デザイン系学生への教育方針を模索している相当の内容でした。
確かに、先般、ある「デザイン系大学の作品展」でも、
この大学、学生の作品はとても優れた成果でした。
学生の作品は、教える側の反映であることは間違いありません。
この報告書では、「デザイン」を「モノ」と「コト」の関係性を
重点的に教育方針で論議の経過や結論にまとめていました。
大学の意欲を強く感じた次第です。

「デザイン」がようやく、
「外観づくり」とか、「応用芸術」ということからは解放されつつあります。
明らかに、デザインは、「コトのデザイン」だということは明白になりました。
単純な図式は、
「ヒト」と「コト」を「も・の」でつないでみれば、ほとんど論理性などもなく、
図式ができるということです。
●「ひと」モ「こと」=「情景」=人間と情報の関係
●「ひと」ノ「こと」=「情報」=人間と人間の関係
これは、「モノ」が介在して、人間と情報・情景を構造化していることを可視化しています。
再度、{人間と情景・人間と情報}・{人間も情景・人間も情報}
この関係式になるということでは、
「モノ」=モ・ノという助詞の機能=助詞がコンテクストの要になっているということです。
私は、あらためてこの関係性=構造性に、「人工物」の役割を配置する必要性を感じます。
助詞
「助詞」である、「モ」と「ノ」が、
日本語のコンテクストの構成要素であることに注視します。
私は、常に「日本語」と向き合っています。
それは日本人として生まれ、「いのち」をつないでいるのが「日本語」だからです。
私はデザイナーという職能で「モノ」の「かたち」を対象化してきました。
その対象である「モノ」・「モノづくり」=「かたち・づくり」に関わっていますが、
その基盤であり背景には「コト」があります。
そして、その「コト」と人間の関係は、
「ことば」だというすべてが、実は「十牛図」のごとく、
連環していると考えることができます。
今日も、「十牛図」のイメージは、私に「ひと」・「モノ」・「こと」に覆い被さっています。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:27 PM

曖昧性
ある有名情報機器メーカーがかつて、
「情報」とは、「情けに報いる」という広告コピーを出したことがありました。
なんとなく、人情味の交換という意味性を匂わせていますが、
厳密には、「情」は心の中の黒ずんだ感覚であり、
報はそのやりとりが縛り付けられていることというのが原意との解釈ができます。
それは、あまり良い意味性ではなく、
「情報」という表層的な意味の軽量観になっているということです。
したがって、「情報」というのは、四つの意味性で取り囲んだ核心に配置すべきだと考えます。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

以上のことを熟慮すると、「情報」という集約語には収束はしないのです。
むしろ、こうした「伝達性や伝導性の事項」の統合性を一言で言い切ること、
断言できる言葉が必要だったわけです。
「情報」という言葉に収束させて生まれてきた言葉、
「情報」が冠詞的となった、たとえば、情報工学や情報操作などがあります。
「情報」が結語的となった、個人情報やデザイン情報など、
すべからく、包含されている意味性が部分的であり、
なおかつ、誤解される要素に満ちていたものと判断します。
だからと言って、今さら「情報」を日常語から外すことは不可能かもしれません。
したがって、私は、情報を取り囲んでいるこの四つの意味性の総合化を諮るには、
「モノ」=物質=人工物が発明されなければならないと考えています。
この判断は、過去事例に明らかです。
「マルチメディア」という「マルチ情報」をコントロールするモノが結局は登場しなかったこと。
さらには、本来、Informationでしかなかったジャーナリズム思想は、
なんらメディア=新聞・雑誌・ラジオ・TVなどの
モノの形式から解放されなかったのです。

曖昧さからの解放と再利用
だからこそ、思想としての変革は置き去りになり、
電子書籍という形式とそのモノの登場がありました。
その発明とか登場によって、大きな驚愕とともに、
マスコミすら変質あるいは喪失すらするという不安が拡大しています。
私はあらためて「情報」という日本語に押し込められた意味性の曖昧さを指摘し、
この曖昧語からの解放、あるいはこの曖昧さの再利用が必要だと評価しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念である物質系デザインはエコロジーの具現化か?」


   


     5月 22nd, 2010  Posted 12:45 AM

世界観としての物質・情報・エネルギー
私は「物質・情報・エネルギー」が世界観だと考えています。
そしてこれらをまさしく、歴史的な世界観と照合させます。
五大思想や五行説、あるいはインド的三大(火・水・土)です。
「物質・情報・エネルギー」この三大世界観を日常化するには、
この三大世界観、私なりには、世界の構造軸、
その要素と要因を意図しています。
物質
物質というのは、物ですから自然物から人工物全般です。
私はこの中でも人工物=モノと表現しています。
デザイナーとしては、このモノ=人工物を中核にしています。
本来なら、自然の中での人工物ですが、
私は、デザインするモノ・デザインされたモノが、
自然との関係と人間との関係、すなわち世界観の構造というわけです。
自然物が当然、世界観の基本ですが、
私は、人工物=モノから自然を見ていると思っています。
エコロジー
このまなざしゆえに、たとえば「エコロジー」という、
ある世界観へのまなざしには慎重でありたいと考えています。
とりわけ「エコ」ブームには懐疑的になっています。
「エコプロダクト」という呼ぶ方に集合されているモノのデザインに、
「デザインの本質性」があるのでしょうか? 正直、無いと思ってます。
いづれ明快な回答と解答を書くつもりですが、
現在、「エコプロダクト」という商品で、
デザイナーとして納得できたモノは有りませんでした。
なぜなら、人工物=モノと自然物=もの・物,
この二つは対決せざるをえない構造を持ち合っていると判断するからです。
もし、世界観における「物質」系=自然もの+人工モノは、
調和・ハーモニーと均衡・バランスの相互性が必要です。
したがって、モノとものという「物質」系は、
ハーモニーとバランスという相互作用性がデザイン対象意図だと判断しています。
ただし、調和とバランスには、反発構造や対決と融合・融解までの幅もあるわけです。
あらためて「エコロジー」という言葉の由来、
そして生態系バランスのあり方を見直す必要があります。
デザインが世界を変える
「物質系」世界観の最適解としてのデザインこそ、
「デザインが世界を変える」ことになります。
「世界を変えるデザイン」というのは、
本質的な論理性が実は壊れているのです。
このことに気づかないデザイナーには、
デザインの本質がまるで見えていません。
もっと基本的な「世界観」・観念論的哲学の基本が必要でしょう。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationはオブジェクト指向という勝手・5」


   


     4月 25th, 2010  Posted 11:55 PM

モノ=ハード
私はデザイナーだから、常に「モノ」中心主義です。
したがって、ハードウエアとソフトウエアということになれば、
ハードウエア=「モノ」を優先的に考えます。
ハードがあってのソフトという考え方です。
私がコンピューターをデザインツールとしてきたのも、
コンピューターという「モノ」の形態と使い勝手でした。
しかし、使い勝手は二通りありました。

コト=ソフト
「モノ」の性能・効能・機能=使い勝手がありますが、
その「モノ」としてコンピューターを制御するソフトの使い勝手です。
人類は、「モノ」という人工物を創り、さらに、
その「モノ」を使う「コト」=ソフトまでを手に入れたのでしょう。
デザインは、また「モノづくり」と「コトづくり」でもあります。
ただし、モノがあってコトだと私は考えてきました。

使い勝手
そして、モノのデザインもコトのデザインも、
「使い勝手」=ユーザビリティの自由度という考え方もできます。
私はこの二つの「使い勝手」というのは、「勝手」の問題です。
最も「勝手口」というのは、台所に直結している入り口です。
さらに、様子や状況など広範囲な意味を日本語は持っています。
「モノ」=ハード・対・「コト」=ソフトとしての、
共通項は、オブジェクトとユーザビリティです。
そこで、デザイン対象は、この「モノ」と「コト」だと定義すれば、
オブジェクト+ユーザビリティ=オブジェクト指向というコンセプトが生まれます。

概念記法
私は、このコンセプトを
「概念記法」=ゴットロープ・フレーゲに戻るのはどうかということに終着しています。
フレーゲを対象にすれば、
多分、私の予感は、
「デザイン数理学」論が必要なのだと思うに至ったわけです。
私が言い続けてきたMedia Integrationは、
端的に断言すれば、「勝手」概念の具体化です。
もっと勝手な言い方を重ねておきます。
「モノとコト」がデザイン対象だとすれば、
オブジェクト指向がMedia Integrationの目標かと考えています。
しかし、まだ、この結論には至っていません。


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『資本主義からの逃走』   
「Mー素材がかたちを呼ぶ」


   


     4月 8th, 2010  Posted 12:01 AM

Material
アルファベットは、表音文字と言われています。
しかし、これは正しくはありません。
ヒエログラフから派生した象形からの歴史性をもっています。
したがって、このMが最も端的にその意味性は、
「m」という小文字のアルファベットに象形的意味があります。
m
上部の形は、「波」表面の形です。
ここからおおよそ、海・羊水・振動という原意につながります。
Maritime=海は、umi=umuという「生む」ことです。
umu=umiはシュメール語・サンスクリット語に同等同値です。
なんだか、怖くなるほどの意味性がアルファベットに存在しています。
Mother=母、その羊水、そして振動=Musicに展開し、
Matetial=素材というところまでの言葉の拡大は意味性が、
見事なまでに、世界要素になっていることです。
私は、素材=MaterialがMotherであり、
素材が生み出していく、ひとつが「かたち」だと思っています。
そして、素材の「素」からも、
あるいは「振動」からも、かたちの源である素材を求めます。
これはすでに私の慣習にもなっています。
常に、何かモノのデザインでは、「素材」へ回帰し帰着します。
かたちの母だと考えることが出来るからです。
「素材」が生み出してくれる具体性が「形態=かたち」であり、
「素材」の「素」には簡素・簡潔・清潔を抽象性として、
明確に手に入れたいと考えるわけです。
だから、デザインの母として、造形を生み出してくれるのは、
「素材」です。
この40年にわたってデザインしてきたモノには、
必ず「M」がありました。
Mono、というのは言い過ぎでしょう。
私のモノは人工物です。
物は、生物・動物・大きな牛が日本の古代からの定義でした。
羊から始まる美・義・善という古代中国(説文)ではありません。
むしろ、素材の簡素な清潔性に美を見つけ出すことだった気がしています。
「素材」は、やはり、かたちの母なのです。
Mother


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・1」


   


     3月 31st, 2010  Posted 1:40 AM

「物質」・「情報」・「エネルギー」
いきなりの世界観を提言します。
それは「物質」・「情報」・「エネルギー」が世界構成因です。
この明快なアイテムは今世紀と共時する私の確信です。
ようやく、私がデザイン対象とするモノをすべて、
これらのアイテムに包含しながら、
再度、「物質とは何か」という問いかけの変更を重ねました。
それは「何が、物質か?」ということへ、
デザイン対象を入れ直すということでした。
「物質」というのは、私には自然物ではなく、
人工物=モノと必ずカタカナ表記する物の性質性の存在です。
性質=物性の質(たち)という言葉の定義仮説を用います。
この仮説は、物性・対・物理の差異性と同値性・同質性です。
つまり、差異性を仮説化し、
同値性、それは「質・たち=性質」の価値感と、
同質性という「性質の機能性」という性能性です。
上記は、同値性・対・同質性ですから、
論理的には、物性学と物理学でそれらの背景を与えられます。
もっと短絡的に言い切れば、性能という具体性を、
理学的な抽象性をモデル化するということになります。
モデル化するというのは、記号的な処理=数理学に配置する、
そんな作業になるでしょう。
何が物質か?
仮説化という冒頭にもどれば、
「何が物質=人工的なモノ」か?という仮説は、
人工物質=モノの性能価値が「物質」になるでしょう、
ということです。
極めて自分勝手で、読み手理解を無視していますが、
それは、私がデザイン対象とする人工物質=モノ、
すなわち、自分だけの定義にしているからです。
仮説の連続性
この仮説が、何を次に定義化していくかというのは、
「何が情報=コトとなり、コトの機能性」も、
デザイン対象にすることができるのだろうか。
「何がエネルギー=源となり、源の効能性」を
デザイン対象にすることができるのだろうか。
この二つのテーゼに、
物質=人工物質=モノからつないでいく連続性を考えるためです。
デザイナーとして、常にモノの形態=かたちを想像します。
想像の中で、モノの存在を「かたち」とするとき、
その「かたち」の「たち=質」に「かち=価値」を与えたいのです。
その連続性に、「情報」・「エネルギー」を対象化する
デザインには何が可能だろうか、という仮説化です。
この仮説化が、
イノベーションをデザインするという確信を持ちたいのです。


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『資本主義からの逃走』
 「# チュッパチャプス武器論・効能考察です #4」


   


     3月 23rd, 2010  Posted 12:01 AM


効能=結果考察
戦術結果というのは「効能」ですから、
チュッパチャプスの効能を考察することに集中します。
論文の文体プロット的に、私が題材とした映画の武器結果から、
チュッパチャプスが武器だと思ったことへの考察・熟考を
試みてみたいと考えます。
ジェネラルルージュの凱旋
ジェネラルルージュの凱旋」というのは、
映画テーマとして現代救急医療制度、
その問題点をとらえた物語性としては面白く、
エンターテイメント性を、社会正義とするための反正義性、
贈収賄を二重構造として、主人公の横柄さや権力への反抗が
よく表現できていたと私は評価しています。
その演出小道具が、チュッパチャプスであったということ。
しかもチュッパチャプスも贈収賄物品だったというオチに、
「武器」なるものの、威嚇性・抑止性がどれほど実際的には、
滑稽さがあるかという批評性が基盤であり、演出でした。
この映画の演出結果、それは演出効果であり、
チュッパチャプスの武器効能に直結していると考えます。

無論、ジェネラル=提督たる緊急医療時の指揮官の話です。
緊急かつ救急医療に立ち向かうときの指揮官の決意には、
青ざめる唇に口紅を塗ってまで自己を奮い立たせるという
口紅と凱旋光景があるという題名があっても、
全編では、主人公が自己選出にはチュッパチャプスの存在、
私はその存在物を「武器」だと感じ取り、
この武器を演出にとどまらず、
自分の武器にしようとさえ思いついてしまったわけです。
そして、明らかに、この武器論を書くまでには、
武器として使用し、武器なるモノのあり方を確認しました。
実験というより実施した体験からの考察です。
モノの体系は武器の体系
だから、結論は結果・効果は効能、
すなわち、現代のモノ、そのすべからく体系には、
ツール性とメディア性の分別も述べてきました。
結局、ツールやメディアも、武器なのです。
だから「モノの体系」論として、
たかだか、舐め舐めする飴にすぎないチュッパチャプスすら、
使い方では「武器」になる!ということです。
武器デザイン
したがって、文明が人類に人工物としてモノ全てが、
武器であるというのは、決して言い過ぎではないと考えます。
デザイナーとして、
モノのデザインは「武器デザイン」を常に意識することです。
欧米のデザイナーが、拳銃デザインに関わっていることは、
あまり知られていませんが、
私は毎年、新製品が登場する拳銃デザインは、
誰が、どのデザインスタジオがデザインしているかを、
「造形言語」から読み取ることができると自負しています。


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