kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘表現’


『資本主義からの逃走』
 「信号と記号は光線上にあるかもしれない」


   


     5月 14th, 2010  Posted 12:01 AM

S/N
アナログ時代、オーディオ評価には、S/N比がありました。
それは「信号=Signal+Noise」だったからです。
1960年ビートルズの登場と、
同時期頃カセットテープが音楽メディアでした。
デザイナー成り立ての頃
カセットデッキのデザインを担当して夢中だったのです。
その当時、技術陣はいつもS/N比の話で大変でした。
そして80年代直前頃、デジタル時代技術へ大転換が始まりました。
デジタル時代が呼び込んだ主軸がコンピュータだったという見方が可能です。
さらに、コンピュータは「記号」、
その一つがアイコンという表現になったということもできるでしょう。
信・記
さて、信号の「信」は人+言語であり、
記号「記」は言語+人(跪いている形象)ですから、
言語を受け止めています。
70年代後半に、「記号論」や「記号学」が提案され始めるのです。
「記号」という言葉が道元の発案言葉説もあります。
これは日本記号学会発足誌初版にそんな論文がありました。
A/D・D/A
私が、この「信号」と「記号」の組み替え技術が、
アナログ(信号)からデジタル(記号)へ=A/D ?
デジタル(記号)からアナログ(信号)へ=D/A ?
これらを、私は、現代性に配置して見ている気がしてなりません。
「気がしてならない」と、いう私の想いを書き残しておきます。
なぜなら、今、信号も記号も、それらは光線上に、
あるいは信号の光、記号の光なるモノがある気がします。
● 信号的な発想ができるだろうか、
● 記号的な発想ができるだろうか、
このところ、私に与えられているデザインテーマを熟考するとき、
この二つを交互に、相互に、対決させている気がしてなりません。
「信号」と「記号」が「光」になっている。
そんな「あかり」に包まれて考えている自分が居ると思っています。


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4月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 6th, 2010  Posted 7:40 PM

4月6日 大安(丙戌)

私が、
最もデザイン表現に込めたいのは、
私のデザインしたものが
体感してもらえるようなかたちであることだ。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・3」


   


     4月 2nd, 2010  Posted 10:24 AM

物質の情報化・情報の物質化
物質の情報化の代表実例を一応、「写真」とします。
情報の物質化の代表実例を一応、「時計」とします。
「写真」はメディアという呼び方ができます。
「時計」はツールという呼び方ができます。
物質と情報の相互性の一例を、
私はメディアとツールとの相互性という考え方が可能です。
したがって、物質の物質化はそのままではなくて、
たとえば、「写真」といっても、カメラ本体とフィルムです。
「時計」といっても、時計本体と時間表示ということです。
ところが、「写真」=カメラ+フィルムの進化がありました。
それはデジタル化でした。
INNOVATION
これはイノベーションでした。
電子機器(コンピュータ)とメモリーです。
写真機が進化=技術革新、これをイノベーションと呼んでいます。
イノベーションは、本来は、技術革新と呼ぶのは多少違っています。
「時計」にしても、ゼンマイという駆動器械から、
発振子とコンピュータによって、本来は見えなかった規則性、
これは情報と呼んでもいいでしょう。
「時刻」という情報を、地球規模でそれぞれの地域情報化しました。
上記はきわめて簡単に、物質・対・情報の相互性を例示しました。
さて、問題は、物質、一応ツールというモノにします。
情報はメディアを介在した事項としておきます。
そこで、メディアとツールの相互性に働く「力」は、
明らかに、弱い相互作用と強い相互作用が働いているのでしょう。
意識化社会
さらに、メディアのツール化もツールのメディア化は、
同根・同値になる傾向が明らかに起ころうとしているのを、
脱・工業化社会=ポストインダストリー=情報化時代、
情報時代の到来は、「意識化社会」です。
この「意識化社会」での物質と情報の相互作用は、
すでに、現在のインターネット=Network社会になりました。
それは、物質・情報は相対論的な現象の中に融合されていく、
そんな過程に、私たちの日常・「生」と「死」が挟まれているのです。
私は、デザイナーゆえに、物質と情報を常に入れ替えを、
コンセプト化して具現化していることになります。
結局、「何が物質であり、それが情報化する」とか、
「何が情報であり、それが物質化するのか」を相対論的にしています。
この過程が私の日常であり、私の日常では、物質が実は情報であったり、
情報が物質であるという「入れ替え」体験を、
自分のデザイン発想にし、表現、具現化していると考えています。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・2」


   


     4月 1st, 2010  Posted 2:30 AM

「情報」への正直な態度
「情報」というのは、概念もしくは観念と聞かれたら、
正直、ほとんど回答は不可能だと私は思っています。
だから、私なりに回答しておきます。
ただし、これは応答でも解答でもありません。
回答だということを断っておきます。
抑圧と解放
私は、情報というのは「日常を構造化している抑圧要因」だと思います。
しかしもう一方では、
情報は「毎日の連続性を無意識化してくれる解放要素」という、
「抑圧性と開放性」の意識環境だと考えています。
「情報」ということが、私を取り囲んだのは、
ある「物質」の登場でした。
その「物質」=モノはコンピューター、
もっと厳密には、パソコンとケータイというモノだったのです。
したがって、「情報」が襲いかかってきたのは、
こうしたモノ=物質だったのです。
だから、このモノは、過去のモノも引き込みました。
過去のモノ、その集合体を「メディア」としました。
堂々巡り
そのメディア、新聞からTVとかInternetには、
「表現」された事項すべてが、
もう一度堂々巡りとなって「情報」と呼ばれました。
この堂々巡りは「連続性」によって、
私たちを錯乱させているのです。
この錯乱を、私は「抑圧性」と「開放性」の混乱だと思っています。
あらためて、「情報」を学や論の中に差し込めば、
「情報学」とか「情報論」とすれば、
いかにも、知的で高尚な印象になりました。
この印象が、科学性から芸術性までを封鎖しているのです。
封鎖されているから、「抑圧」があり、「解放」を期待するのです。
私は、「情報」が日常や意識へ与えてきた混乱・錯乱は、
生・情報・死
「生」の連続性を素直に正直に認めている態度だったのです。
ところが、「生」そのものが連続性であったとしても、
その「生」には、停止=「死」が突然襲いかかります。
人間を襲いかかる事項=「情報」と「死」は同等だったのかもしれません。
となれば、「死」を無意識化するために、
私は、「情報化」を、人間はいとも容易く受け入れてきたのです。
その理由は、闇雲に混乱・錯乱させられているからです。
本当は無・意識=情報だと考えることも可能だったのです。
無・意識は、空・意識に連続し、この連続が「生」であるなら、
「情報」は、私たちの日常、
すなわち環境として取り囲んでいるのです。
私たちは、「情報」で抑圧され、また解放もされるということです。


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3月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 27th, 2010  Posted 9:00 AM

3月27日 先勝(丙子)

プレゼンテーションは、
一回一回がトレーニングになるものだ。

まさしく発想、表現、伝達のための
試行錯誤のひとつの方法でもあるのだ。

『プレゼンテーションの極意』


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3月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 18th, 2010  Posted 11:50 PM

3月18日 仏滅(丁卯)

製図の技は、
三次元の立体イメージを
ハードラインで正確に二次元に
表現することである。

そして、その製図を読み取った結果を、
モノとして現前化=プレゼンスする。

「イメージ=バーチャルな世界と
プレゼンスリアリティをつなぐ」
メディアが図面にほかならない。

『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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3月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 4th, 2010  Posted 10:49 PM

3月4日 先勝(癸丑)

デザインという
理想を追求する営みの成果物である、
モノのかたちの詳細を図面は表現する。

その詳細とは、
大きさ=寸法、材質の指定、
構成と構造などの仕掛け=
これを私は実装と呼んでいる
=である。

『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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『資本主義からの逃走』
 「色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04」


   


     1月 22nd, 2010  Posted 1:00 AM

Natural Phenomena
ALIAS本社は、私を受け入れてくれました。
二夏にわたって、トロントに出かけました。
そこでCGソフトのトレーニングを受けました。
その頃、夕焼け、燃えている火や、蛇口からの水を
「Natural Phenomena」という表現研究を傍らで、
Videoや写真でプログラムしているのを見ていました。
今では、火も水も、その勢いまでがCGですが、
当時の研究はチームが大変な緊張感で進行してました。
私は一通りの説明、講義をトロント大出身の新人が、
朝から夕方まで、昼食も一緒になって取り組みました。
「dolly 」という言葉が常に出てきて、意味不明!
dolly

すぐにトロント市内の書店で英英辞書を買いました。
dolly=お人形?なんだ?わからん。
結局分かったふりをしていました。
もう今日で終わりという時に、質問をしました。
「ところで、dollyって何?」
「Oh My God!」でした。
今日までのこと分かっていたのかということでしょう。
dollyとは、画面の中でのカメラの位置を変えること。
それで、すべての謎が解けました。
しかし、それ以上に私の中で、「色彩論」の知識は、
ことごとく破壊されつくされました。
CGでは「色」は「光」そのものの要素と要因で、
プログラム単位を表せば、「質感」、
すなわちMappingの基本を教わったのです。
「透過」・「反射」・「凹凸」・「不透明」・「硬軟」・「吸収」
この六つにパラメーターを与えれば、
ガラス・大理石・木材・絨毯・プラスチックなどが
表現できたのです。
当時はRGBに頼る以前の手続きでした。
そして、そのCGに動きを与えるのに、
24コマをイメージしたパラメータの設定でした。
今ではそうした「手続き」が、
ソフトにパレット化されてツールを選ぶだけです。
トロントのALIAS本社で私が結構知り尽くしていた
「色彩論・色彩学知識」は完全に消去されたのです。
色彩論・色彩学知識の完全消去


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『資本主義からの逃走』
 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」


   


     1月 21st, 2010  Posted 1:00 AM

MacWorld
SIGGRAPH
米国では、まずMacWorld(見本市)、
そしてSIGGRAPH(学会)に何もわからず、
ほとんど物見遊山感覚で出かけました。
1985年から毎年、夏と冬に出かければ、
車倚子で日本人、すぐに質問する人物として、
多少目立つようになっていたのでしょう。
ところが
帰国すると、日本はNECの98シリーズが、
圧倒的なパソコン社会になっていました。
この頃から、
日本のデジタル時代は良くいえば独自性、
悪くいえば、
このままでは必ず取り残されていく、
という予感が疼き始めました。
その感覚は現在、確実に明確なものになっています。
つまり、わが国は「まったくBit社会・Bit資本」は、
未だに見えていないと考えています。

ニュージャージーにALIASというCG会社のブランチを
訪ねたことがありました。
ちょうど米国のデザイン誌に私の名前と作品が、
掲載されるようになっていたので、
それだけが「自分を紹介」する手立てでした。

もう一つは、まさにバブル直前であり、
福井銀行がNew York支店を開設直後でした。
だから経済的な支援は「福井の情報化」ということを、
大儀として福井市の青年会議所へ提案していたので、
「IRIS 3030」を直談判で発注しました。
7000万円でした。相手もとてもびっくりしてました。
国内ではこの2倍だったのです。
そうしたら、
「君は、初めてやってきたクリエーターだから、
2台持っていっていい。日本は商社マンばかりで、
本当に我々のめざしていることが分かってはいない。
だから、カナダ本社でトレーニングを受けないか」、
という申し出を受けました。
私は、翌夏からトロントにて、CGの基本をUNIXで
学ぶようになったのです。
bit感覚の衝撃
そこでまず、
「色彩」表現のbit感覚に衝撃を受け、
デザイン世界に「ツール化」していくだろう予測は、
確実なことになっていきました。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*


   


     1月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

手と空
いつもスケッチと数式を描き書いています。
「手」に造形・数理の思考が採集・集中・集約します。
「手」が動き出すまでには、
「手」はほとんど運動神経が支配している所ですから、
頭脳は「空」=emptinessになっています。
だから、思考が蠢いているとは感じられません。
ところが訓練した「手」には「思考脳」が発生します。
これが不思議なことですが、私は確信しています。
デザイナーの修練・資質・才能・意志・存在感、
それらを統合化しなければ、
この不思議さを身体化できません。
これはほとんどスポーツや楽器演奏とも同一だと
私は想ってきました。
手の訓練
美大生時代は、徹底的に「手」の訓練をしました。
泣くほど訓練をしてきたと思います。
デザイナーである現在も「手」をひたすら精進です。
今、教育者として「手」=デッサンを重視しています。
もう、「手」で一本のラインを見ただけで、
学生や若いデザイナーの「力」=能力が見えます。
私自身のデッサン・スケッチには健康状態も出ます。
もう一つは「手」は女性のごとく「手入れ」必死です。
ハンドクリーム
手の洗い方からハンドクリームについても、
相当に試行錯誤してきました。
特にハンドクリームについては一家言持ってます。
「手」が、
実は「脳科学」が集約しているとさえ思っています。
「思考」は「試行運動」で「手先」から表現されます。
私は、思考が行き詰まるといつもじーっと、
自分の「手」を見つめることにしています。
ちなみに、ハンドクリーム評論家にもなりたいです。


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