7月 26th, 2015 Posted 12:00 AM
7月26日 仏滅(癸卯)
膨大な知識
その知識欲と
完璧な想像力があれば、
「喧嘩道」ができるかも知れない。
しかし、
その知識と想像力にも
喧嘩をしなければならない。
川崎和男「喧嘩道」
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7月 26th, 2015 Posted 12:00 AM

ESA・NASA・NASDA(現JAXA)が宇宙ステーションを設計していたとき、
幸い、私はいとこがいたヒューストンのNASAの設計オフィスを見ました。
宇宙工学者のいとこが毛利氏をケネディ宇宙センターで見送って、
もうそれから23年で、日本人10人目が飛んで行ったとメールが来ました。
そうしたらNASAでは地球から1400光年も離れた「はくちょう座」に、
太陽とよく似た恒星付近を周回している
地球のような星を発見したというのです。
名前は「ケプラー452b」と言うらしく、地球同様に水?液体があるから、
岩石もあるらしく、ほぼ地球のいとこのような惑星らしいのです。
しかも太陽の46億年よりもさらに15億年早く誕生していた恒星は、
もし、宇宙人がいれば、科学はもっと発達しているかも知れません。
確実に生命が存在できる条件が整っているというこの見解は、
私にはまったく理解できる知識ではありませんが、
ケプラー宇宙望遠鏡などで発見された太陽系外惑星は1879個、
今回の調査では500個以上を追加しました。
もっと驚くのは、
生命が存在できる天体は12個を確認していると言うのです。
ひょっとすると、私は28歳で歩けない体になってからは、
自分はもう地球人ではないかも知れないとすら思ってきました。
さらに、私は無神論者ですが、亡くなった祖父母や父母も、
もし、おとぎ話のごとく「星になっていたなら」、
あの世とはこうした惑星に居ることかも知れません。
私はこの恒星からきたケプラー452b星人かも知れないと思います。
なんだか、寿命も星人としてこの地球から飛び立つ日までかも、
とか真剣に思ってしまいます。
そうだ、これからは「ケプラー452b星人」です(笑)、と、
名乗ってみようかとさえ思っています。
Tags: 1400光年, 46億年, ESA, JAXA, NASA, NASD, ケプラー452b, ケプラー宇宙望遠鏡, はくちょう座, 地球, 太陽, 宇宙ステーション, 宇宙人, 宇宙工学者, 寿命, 岩石, 恒星, 星になっていたなら, 星人, 水, 無神論者
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7月 25th, 2015 Posted 12:00 AM
7月25日 先負(壬寅)
わがままの我慢、
この我慢が叶わなければ、
喧嘩は暴力性へとなだれ込む。
だからこそ、
「喧嘩道」という
暴力回避術という道が要る。
川崎和男「喧嘩道」
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7月 25th, 2015 Posted 12:00 AM

言い出してはいけないことがある、とよく言われます。
しかし、「デザインとは社会への態度である」と、
インプリンティングされて育った者であるかぎり、
それは職能倫理観として、
眺め直して見なければならないマークがあります。
これらは我が国の省庁関係やプロジェクトなどのマークです。
ところが現代の今生においては、批判、時として非難は
決してしてはならないという社会的な不文律性が出来ています。
「白紙にしたい」というのは、日本のトップの権力になっています。
それをいいことにして、批判はしてはならないのです。
私は警官の息子として育ったので、今でも警察のマークは、
菊の御紋章と同じように大好きなマークです。
ところが、安易に決められてしまっている省庁マークは、
三流デザインだらけだとさえ私は思っています。
国家レベルのマークづくりに関わった経験がありますが、
デザイン対価が用意されていたものは皆無でした。
その程度にデザインは軽視されてきました。
それこそ、「この御紋が目に入らぬか」という時代では、
デザイン(designare=do+sign=design)という効用がありました。
何かが変というよりは、
何かセンスの勘違いが蔓延する世間になっています。
以前、私は大企業にはC.I.のロゴタイプはあってもマークが無い、
それゆえに日本の企業はブランド形成が難しいと言ってきました。
いわゆる工業意匠権20年では、オリジナルは抹消されていくのです。
言い換えれば、たかがデザインのマークデザインの効用はその程度。
肝心なことは、デザイナーの倫理観に関わっていますが、
情報時代の性悪説がはびこれば、
私は三つの無視こそ善なる倫理観ゼロに社会はつつまれると考えます。
それは、上場企業ビジネスがさも性善説を騙り、
匿名での平然たる批判がいかにも表現の自由を守護し、
そして、
ジェネリックプロダクトで何が悪いと言い出すデザイナーが出現、
これには、天誅が許されるべきではないかとさえ私は思います。
「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」
Tags: C.I., DESIGN, designare, インプリンティング, オリジナル, ジェネリックプロダクト, デザイン, デザイン対価, ブランド, プロジェクト, マーク, ロゴタイプ, 三流デザイン, 上場企業ビジネス, 不文律, 倫理, 倫理観, 倫理観ゼロ, 効用, 匿名, 国家レベル, 天誅, 工業意匠権20年, 御紋, 御紋章, 性悪説, 批判, 権力, 白紙, 省庁, 省庁マーク, 社会への態度, 紋章, 職能, 菊, 表現の自由, 警官, 警察, 軽視, 非難
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7月 24th, 2015 Posted 12:00 AM
7月24日 友引(辛丑)
わがままになることは
喧嘩に通じている。
わがままになることは
困難ゆえか
喧嘩することも
困難な時代だ。
川崎和男「喧嘩道」
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7月 24th, 2015 Posted 12:00 AM

米国の自然史博物館で恐竜に出会ったときは本当に驚きました。
1980年代ごろ、単純にただ体育館のようにとても広い館内に
チェーンで現物に近づけないようだけでしたが、
それ以後、なんだかデザインされた展示になってしまって
実物のデカさとかが感じられなくなりました。
私は一時、
小学生のように恐竜のフィギュア集めをしたこともありました。
しかし、今、持っているのはこのディノザウルス一体だけです。
甥っ子が小学生になったときにも、
恐竜図鑑を全巻買ってやろうかと言ったときには、
もうとっくに小学生だし、
恐竜図鑑もすべて読んでしまったと言われる有様でした。
確か、私は福井にいた頃に、恐竜の爪か何かが出土して、
今ではふるさと福井は「恐竜天国」になってしまいました。
おそらく日本中の子供たちが行ってみたい場所になっているようです。
先般も、金沢は新幹線で大変な事になっているのに、
福井の駅前には実物大の恐竜ロボットがうなっていました。
英国で恐竜の存在がわかったころには、その存在すら疑われていましたが、
なんと北陸の勝山市には恐竜博物館ができています。
しかも、この博物館は超有名建築家K氏のデザインであり、
福井大学非常勤講師の頃の教え子Oさんが現場監督をしていました。
一度行きたいと言いましたが、なかなかいっぱいらしくて
それなりにしっかりと余裕を持って行かなければならないようです。
実際、恐竜の色は推測に過ぎず、今や恐竜の肌には鱗もあったとかです。
なんにしても恐竜=dinosaurというのは
まだまだイメージの古代生物ですが、
私はロボットと恐竜は想像力の対照的存在だと思っています。
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7月 22nd, 2015 Posted 12:00 AM
7月22日 赤口(己亥)
技術進化に方向性と基礎理念を与えることができるのは
唯一デザインでしかできないと考える。
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7月 21st, 2015 Posted 12:00 AM
7月21日 大安(戊戌)
日常的暴力、
宗教的暴力、
情報的暴力、
商売的暴力、
そして政治的暴力を
日本の「喧嘩道」には解答がある。
川崎和男「喧嘩道」
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7月 21st, 2015 Posted 12:00 AM

正直、阪大に来てからは読書を辞めようとすら考えていました。
名古屋から大阪に来るときに、蔵書はすべて処分しようかと思い、
故・恩師に電話で話したとき大学人の間は持っていなさいと言われました。
そして寝室には絶対に本は置かないとワイフに約束していた程です。
ところが、阪大では学生から、あの本とかこの本の読後感や、
論文作成などで名古屋時代以上に蔵書は増え続けてしまいました。
退官後は、なんだか上下巻を読まざるを得なくなっています。
しかし、盟友である松岡正剛はまもなく1600冊の書評を
書き続けていることには大敬意しなければなりません。
さて、「暴力論」ともなれば、
これまで数人が人間の野性として書いてきています。
60年代安保を見、警察官の息子だったことから、
学生運動に飛び込んでいた者の親が辞職することも見てきました。
70年代安保は学生運動のなかで傍観していた私でしたし
学生運動の弱さが赤軍の馬鹿さになることも予想していました。
だからこそ集団的自衛権の最も賢い手法論が語られないことを
確認するのがこの上下巻だととらえています。
まだこの上下巻は拾い読み程度ながらにも私は大ショックでした。
人類は明らかに「戦争をしないこと」と「平和でいたいこと」に
たどり着いてきたという見解に驚きました。
それは私自身が「喧嘩道」で暴力性への葛藤を抱え込んできたこと、
その大回答でした。解答にはなっていないと予想しています。
まだこの本を読み切ってはいませんが、戦争もバーチャル化と
武力の高度な技術戦では、
ISISの存在や、情報戦での悲惨さは増大している、
そんな印象はかき消されましたが、この本では未だに、
「暴力とは何であるか?」が主体的であり、
「何が暴力となっているか?」はかき消されている感が私には
強く残っているようです。
体罰も暴力とされる現代においては、「いじめ」なる暴力犯罪や、
宗教戦とマスコミが商売化している報道での演出暴力などは
これから読んでいくことで、私に確固たる読後考察が残るのだろうかと
思っている次第です。
私は今生のためには自分の暴力性は
しっかりと残存させておくことを替えようとは思っていません。
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7月 20th, 2015 Posted 12:00 AM

死はこともなげに奪う、ということを現実的に知らされるものです。
揺るぎなくある人が亡くなれば、
後継者はそこそこの能力があるがゆえに、
目の上のタンコブ的存在を追い越して、
あたかも後継の権威づけを簡単に示そうとするものです。
しかし、オリジナリティの天分的な能力がねじ曲げられた瞬間に、
その死ゆえに「失われたこと」の悲しみを再確認してしまいます。
私にとってApple社の存在は
コンピューターへの夢をすっかり無くしていたときに、
Apple ?で見直し、1984年Macintosh 128Kで決定的になりました。
そして思いがけずも私はクパチーノのApple社で、
ジョンスカリーやアランケイと仕事をするチャンスがありました。
それだけに、私のパソコン生活はすべてAppleであり、
パソコンもパッドもスマホもAppleでした。
しかし、最近、大きな違和感を感じるのは、
Apple-WATCHとApple-MUSICのロゴタイプを見たときに、
ジョッブスの最期の置き土産だったiOSと同時に成し遂げられていた
あのレタリング形式がすっかり失われていることから、
WATCHもMUSICも、Apple理念が消滅していると感じてしまいました。
しかし、このことを胸にしまっていました。
ともかくあらためてこのロゴタイプを見詰め直してみても、
カリグラフィーからモノの美しさ、
特にあるべき終着点を知り尽くして決して妥協をしなかったことが
ジョッブスの死とともに抹消されていました。
このことを世界的なコンサルタントであるH氏と話をしていて、
さらに大確認をしました。
「そうですよ。ジョッブスが生きていたら絶対に許さなかったことが
安易にプログラミングされていますよ」
そのアプリケーションも教えてもらいました。
Apple社の後継者達はまだましかもしれません。
おそらく、日本では「デザイン」は未だに政治的にも装飾に過ぎず、
設計=デザインと言っていた中国がデザイン=策略からも
デザインは大きく後退しているだけに。
Apple-MUSIC、Apple-WATCH、
このロゴタイプをもっと注視すべきだと思います。
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