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『薔薇というシンボルから花言葉も消した問題解決』


   


     10月 7th, 2017  Posted 12:30 AM

美大時代に、絵・スケッチが最も下手だった私が練習で描いたのは、
薔薇と菊の花が一番多かったことを思い出します。
薔薇は花弁と茨・棘の関係を最もよく観察していました。
菊は花苞と葉っぱの葉脈でした。
花というと直ぐに、薔薇と菊が練習した思い出に重なります。
47歳の母を見送ったとき、彼女を取り囲んでいた菊は好きではありません。
薔薇の品種改良はとてつもなく進化しています。
薔薇というロマンティックさもありますが、
一時は薔薇の花言葉をすべて暗記していたこともあります。
最も、よく薔薇で女性へのアプローチなどはふやけた男だという意志は、
今でも全く変わりません。
しかし、薔薇それぞれの色を見れば、
最近の映画では、決して間違ってはいけないはずなのに、
花言葉に気づかない監督?や助監督?に呆れることが多いです。
最近はある企業ブランドの薔薇をシンボルとしてきたその理由からも、
このようなシンボル、あるいはマークはあり得ないだろうと思って、
幾何学的にとか、特に化粧品とかの
ブランドマークとかを全て見詰めています。
そして、なぜ人は薔薇にロマンを求めるのかは、
どうも自分には似合わないとか思いながらも、
「薔薇は美しい」対「美しい薔薇」を再考しているのです。
これはあの「花は美しい」と「美しい花」を薔薇に求めているのです。
決して薔薇はあれほどの棘があってもロマン性は傷まないのです。
だから、それこそクライアントがもっと薔薇をシンボルに求めたい、
その気分・気持ちと商品価値性を現代整合性を見直しているのです。
もう一度、菊と薔薇を見直し、さらには牡丹という花など、
花言葉を決めてきた極めて人の物語性的な存在感を求め直しています。
きっとそれはグラフィカルなシンボル性の目印としてのデザインなのですが、
私自身は、花言葉も放れ、ロマン性を翻したそんなデコレーションとしても
薔薇という存在感に問題解決を必ず置きたいと思っています。

* 『「酉年」シンボルにモダンデザインの名作がある』
* 『製品記号論で語り直す時代がやっと訪れた』
* 『注射器はまだまだ痛い』
* 『装飾はデザインにあらず、されど装飾はデザイン可能』
* 『デザインというスタイリングの二種類』


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『白紙撤回すべきマークがある』


   


     7月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

言い出してはいけないことがある、とよく言われます。
しかし、「デザインとは社会への態度である」と、
インプリンティングされて育った者であるかぎり、
それは職能倫理観として、
眺め直して見なければならないマークがあります。
これらは我が国の省庁関係やプロジェクトなどのマークです。
ところが現代の今生においては、批判、時として非難は
決してしてはならないという社会的な不文律性が出来ています。
「白紙にしたい」というのは、日本のトップの権力になっています。
それをいいことにして、批判はしてはならないのです。
私は警官の息子として育ったので、今でも警察のマークは、
菊の御紋章と同じように大好きなマークです。
ところが、安易に決められてしまっている省庁マークは、
三流デザインだらけだとさえ私は思っています。
国家レベルのマークづくりに関わった経験がありますが、
デザイン対価が用意されていたものは皆無でした。
その程度にデザインは軽視されてきました。
それこそ、「この御紋が目に入らぬか」という時代では、
デザイン(designare=do+sign=design)という効用がありました。
何かが変というよりは、
何かセンスの勘違いが蔓延する世間になっています。
以前、私は大企業にはC.I.のロゴタイプはあってもマークが無い、
それゆえに日本の企業はブランド形成が難しいと言ってきました。
いわゆる工業意匠権20年では、オリジナルは抹消されていくのです。
言い換えれば、たかがデザインのマークデザインの効用はその程度。
肝心なことは、デザイナーの倫理観に関わっていますが、
情報時代の性悪説がはびこれば、
私は三つの無視こそ善なる倫理観ゼロに社会はつつまれると考えます。
それは、上場企業ビジネスがさも性善説を騙り、
匿名での平然たる批判がいかにも表現の自由を守護し、
そして、
ジェネリックプロダクトで何が悪いと言い出すデザイナーが出現、
これには、天誅が許されるべきではないかとさえ私は思います。

「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」


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