kazuo kawasaki's official blog

Archive for 8月, 2014


『具体化まで、あと一息だ!』


   


     8月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

2004年にPKD=Peace-Keeping Designを連載で文章提案しました。
もう随分経過しているかもしれませんが、開発続けています。
低開発国での感染症防止のワクチン接種は、シリンジの開発を続け、
経皮注射だと痛いので、経肺接種なら痛くないからと決め、
ようやく登録も終了したのでその形態を紹介できます。
ワクチンも2種決定し、しかも、遺伝子検査は1ヶ月を5時間、
この医療検査ユニット開発をデザインしその搬送や展開もデザイン、
接種手順にも相当に工夫を込めてきました。
私が、
医療検査ユニットと訴えかけてもう10年になりますが諦めていません。
最近のデザイナーは提案で終わってしまうことに平然としています。
これは許せないどころか実はデザイン才能が無いと断定しています。
「モノづくりが大好きだから・・・デザイナーを」とかいう
そのような若手が本当に多くなってきていますが、
私の断定は、「ヤルと決めたら、まっしぐらにヤルんだ」なのです。
もちろん、私にも出来なかったコトは一杯ありますが、
それは未来に向けても、何らかに残しておきたいと考えます。
私はこれまで、いわゆる大風呂敷を広げることこそ、デザイン。
しかし、その大風呂敷は畳んで帰ることができる大きさにしました。
PKOもPKFも、すべて軍隊的な要素が強く、
それこそ軍事力で世界平和という考え方が時代遅れです。
今日も、一日5000人の子どもたちが死んでいるわけです。
これはジャンボジェット機が10台墜落しているという想像力です。
国内はもちろん、海外でも、PKDのことを語ってきましたが、
ワクチンシリンジ・遺伝子検査・接種システムの具体化デザイン、
これらでPKDを訴求する具体的なモノとコトのデザインが、
もうあと少しで展開ができそうになってきました。
「ヤルときめたら、ヤルんだ!」この決意こそ、
デザインを成し遂げるデザイナーの裁量だと確信しています。

『デザイン都市でのデザイン会議報告』
「シリンジの問題解決・2006年から取り組んできた」
「『危機管理プロダクトデザイン』は先端統合デザイン」


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8月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

8月21日 甲子(友引)

友だちをつくること、
人は友だちは生きている人だけ、
これは悲しい。

もう死んでしまった友だちが大事だ。
死んでしまった友だちは
その人の著作の中で生きている。
だから、
死んでいる友だちを
私は一杯持つことに決めている。

「川崎和男 強い人弱い人」


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『自然と対峙することは泥水を危機ととらえる』


   


     8月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

私たちは熟知、地震・大津波・大豪雨・大洪水となります。
もはや自然の猛威、まさに暴力性なるものが、
私は泥水が象徴していると思います。
コンクリート化された自然との対決は、今回の大洪水でも、
泥水によって、一瞬にして自然は多大な危機を与えます。
まだ詳細の検討には至っていませんが、
多分、私の推測は「紙粘土」のようなことが性格づけかと考えます。
ただし、紙粘土が固まることはまだ不明点が多いようです。
それは「水素結合」によってあるパウダーが固まるということです。
あるパウダーは、まだ企業秘密事項ですが、
私はその製品化から商品展開に、グラフィックを与えます。
それこそ、デザインの造形言語=デザイン意図=意味することです。
大津波・大豪雨・大洪水、さらには液状化防災においては、
この危機を危険事態こそチャンス=機会にすることです。
そして、意味されたこと=デザイン内容が形態言語になりますが、
素材は、モノのかたち化するわけではありません。
素材がモノの形となって、そのモノが何事かを起こすコトです。
したがって、形態言語は素材が成しえるコトになります。
危機に対して、素材デザインの形態言語化はコトのデザインです。
私は危機管理学に基づいてデザインを進めながら、
危機は管理出来ないコトに気づいていますから、
危機管理学は、学術性を失っているのです。ということからも、
デザインが基盤にすることの根本には、言語性で危機の解放するコト
これがデザイン意図とデザイン内容で、モノとコトの成立こそ、
危機解決としてのデザインするモノとデザインするコト、
この融合と統合にあるということになります。
私は、この素材デザインのベースを「コンシリエンスデザイン」に
具体的なデザイン対象にしていきます。
そして、この「GP」という企業には、三つの企業方針があります。
Great Possibility=偉大な可能性=抜きん出る事業
Ground Possibility=基準的な可能性=基本づくりの応答・回答・解答事業
Green Possibility=環境保全の可能性実現=地球と人類、自然と人間事業
この三つをめざしています。

『「危機解決」という学域の再設定を基本にするべきである』
危機解決産業創成デザイン重要拠点


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8月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

8月19日 壬戌(赤口)

人間の未来は、
「死」である。
生きていくことは
死んでいくこと。

だから、生きていく未来を
私たちは「豊か」にすることでしかない。
その「豊か」さは、
死んでいく毎日に、
その豊かさを
懸命に積み重ねていくことしかない。

「川崎和男 強い人弱い人」


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『大雨・洪水・山崩れ・・・自然とは調和できない』


   


     8月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

私は、「自然と人類の調和」に違和感を感じて生きてきました。
このところの大雨は、異常さを超えています。
そして、私が疑問に思うのは、天気図表現が余りにも狭くて、
日本近海からしかありませんが、せめてもっとインド周辺からの
気温変化や気圧変動の情報が必要だと思っています。
CNNなどでは地球規模の気圧変動の方がわかりやすいはずです。
私の記憶では、4~5歳ぐらいに福井の荒川が当時は氾濫して、
押し入れの上段に置かれていたことがあります。
警察官だった父はもう暗くなってから帰宅し、官舎のみんなで、
機動隊道場に非難した経験をいつも思い出します。
途中で、父に肩車されていても共に濁流の中に放り出されて
、父が素早く私を助けてくれました。
「ジャバ、ゴゴ、ジャバ、ゴゴ・・・」と言っていたのは、
今でも大洪水を見るとそのことは明確な記憶になっています。
しかし、機動隊道場には多分一週間ほど居たのでしょうが、
とても毎日が楽しかったことです。が、帰宅するとDDTが蒔かれ、
その強烈な臭いと白い粉の中に自宅があったことです。
TVで、大水に浸かった店舗、山崩れ、濁流に呑み込まれる車と
この大雨の悲惨さは自然に対してどれほど人間の無力さを知ります。
あの3.11を体験し、竜巻やこの大豪雨という自然の暴力性に対して、
私は「最悪の状態」を危機と呼んでいます。
危機とは、危険な事態を機会=チャンスとして、生き残るだけ、
これが「最悪の状態」=危機から解放される唯一の手法だと思います。
今、この危機解決に向けての新素材開発にもう少しのところです。
「泥水」は人間の存続性を決定的にする、自然の怖さそのものです。
したがって、なんとしても、この泥水を食い止める現実手段が、
私の危機解決の新素材開発につながっています。
そして、このデザインタイトルを「コンシリエンスデザイン」と、
議論を重ねて企画してきました。
自然の暴力性は泥水による激流が最も象徴的ゆえに、
「最悪の状態」からの解放は決して自然との調和ではありません。

『忘れた頃にを想定内に!』


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『「企画書」づくりが私の休暇の積み重ね』


   


     8月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

「企画書」はデザイナーになってどれほど書いたでしょうか。
バブルの時には、一枚書いてとても高額だったことは今では夢です。
ただし、「企画」と「計画」の違いはほとんど一般化していません。
特に、政府も行政、企業にいたっては無能の有様です。
それは「企画」にしろ「計画」にしろ、いづれも戦略用語ですから、
「戦略」=企画、「戦術」=計画であることも知識です。
企画とは、領土拡大において、どこまで領土を支配する予定書、
計画とは、元来は経画=領土線を縦に引くことです。
したがって、企画とは戦略同様に目標と目的が示されますが、
計画とは、その目標と目的を具体的に空間設定、時間設定を
人間が行うべき行動指針が示されなければなりません。
まずもって、政策策定書・政府内閣から行政の「企画・計画」書で、
私に提示されると、ついつい次の質問をしてしまいます。
これは企画ですか?計画ですか?
目標しか書いていないのですが、目的は何ですか?
企画なのに、どうして具体的な方針が書かれているのですか?
計画というのに、どうして目的だけで行動工程が無いのですか?
となれば、とても嫌な存在になるのでしょう。
こうした批判のためにどれほど仕事を失ってきたことでしょうか。
今や、このようなことはどうでもいいのです。
私は真っ正直に、地道に、目標と目的を見極めた企画を提示し、
その遂行のための行動・実務方針と時間管理の計画を差し出します。
万が一、この企画・計画が実現できない場合は、
この実現を成すべきリーダーが無能である証になるはずです。
なぜなら、時代は「情報時代」であり、「見える化」が当然です。
したがって、私はデザイナーとして、書けるだけ書き残し、
後世にその判断と評価を残すことが可能になっています。
私は、デザインという「絵に描いた餅」作業こそ、
「絵に描かれた餅」だからこそ「食べられる時代」になりました。
だから、「企画書」?を書き残します。

「企画は必ず具現化すること」


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8月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

8月18日 辛酉(大安)

統合することは
いとも簡単なことである。

この指止まれ、
この一声で、
まとめ上げることが可能だ。

しかし、
統合化するとなると、
それは途端に困難になる。
この認識力ある者にのみ
与えられた力量である。

「川崎和男 強い人弱い人」


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8月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

8月17日 庚申(仏滅)

融合とは
とても便利な言葉である。
融合した学際性は
その免責性すら
割り出すことが不可能である。

「川崎和男 強い人弱い人」


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『終戦では無い、敗戦記念日であった』


   


     8月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

昨日は69年目の敗戦記念日でした。終戦と言ってはならないのです。
私は父が7年半も戦争に騎兵隊として従事しました。
日華事変で招集されそのまま太平洋戦争に巻き込まれました。
戦争時代の話は全く私に語ろうとはしませんでしたが、
高校時代にはかなり食い下がって聞いたことがあります。
大学人になったとき、父からは、南京大虐殺などは無かったことと
「明号作戦」でインドシナ解放・アジア解放に加わっていたこと。
この話だけは伝えろと言われて育っています。
今、日本は「集団的自衛権」での賛否が国を二分していますが、
日本が決定していることは「平和」の本質を熟知していると信じます。
ゆえに、私はこの日を敗戦記念日にすべきだと考えています。
かつて、日本のデザイン界でふざけた連中の会議で、
「こんなやり方では靖国に眠る人々に顔向けができないだろう」と、
これは業を煮やして怒ったことがあります。
その夜に、同時に出席してきた恩師から、
「川崎、あの発言をするからお前は怖がられる」と言われました。
が、現状は顔向け出来ない輩が主導するから、悲惨なことは確かです。
私がこの「右傾」と呼ばれるのは、米国で1990年代に仕事をして、
「イエロー・モンキー」扱いの悔しさがあるからです。
恩讐を乗り越えることなど無理ですし、まして、中国の一党独裁、
拉致問題は許しがたいことは、私の政治思想の根幹です。
左傾化している日本人は、この国に住むべきではありません。
中韓系の論客で反日を声高に語りながら日本帰化パスポート所持は
絶対に認めてはならないはずです。
この甘さがあるからこそ私は右傾という左傾の偏重さを討つのです。
私の父は、70でリタイア後は、従軍事のことを靖国神社にむけて
彼なりの整理と決着をつけていました。
私は「明号作戦」があったからこそ、今日のアジアには、
独立国家が残っていることを明白にすべきだと私もまとめています。

「終戦間際の消された歴史・亜細亜の中の日本」
「神の国は、アジアを開放したということ。」
「敗戦で学びながらも、またそうなるのだろうか。」


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『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』


   


     8月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

Consilienceという言葉をある教授から与えられて以来、
ほとんど取り憑かれています。
科学と文化、学術と芸術、この「融合」を根本で熟考しています。
私にはまず、疑いがあります。
とりわけ、学際化とは専門領域を融合化するとか言われると、
融合って?となってしまいます。
正直、自分がつかみとって、認識している自覚が無ければ疑います。
それこそ、専門家と公認されていればいるほどそう思います。
かって、日本のトップクラスの研究所での限定された発表会で、
「こいつの発表が全く分からない」と確定したことがあります。
ところが、時代は彼を寵児にしてもてはやしましたが、
その知識の浅薄さは今もそれだけの人間になっているようです。
時代とか、その社会感覚、流行には嘘くささが極めて多いはずゆえ、
それを内村鑑三のある書籍には、その証が書かれています。
また、この基本書に液晶グラスが自分のデザインながら、
これぞ本当に重要なモノです。
100円ショップにまであるようなPCメガネでは何も解決しません。
重要なコトは、青色カットなど意味無く本当は「ドライアイ対策」。
パソコン画面に向かっている特にコンタクトをしていたなら、
ドライアイが目の病気を誘発することは間違いありません。
このデザインには、造形で、技術と医学を融解させ合わせています。
少なからず、二つの専門分野を対象デザインに向けて、
融解することになります。その融解させる工程での合体化です。
言葉の構造上では、必ず、融解+合体=融合は成立するでしょう。
しかし、融合させた結果が化学反応すれば、
融解させて合体化には、元の要素・要因は消滅することもあります。
したがって、融合とは必ずしも、二つの要素が残るわけではなく、
化学反応としての融合があることも認識条件だと考えています。

『PCメガネはドライ・アイ対策でなければいけない』


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