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Posts Tagged ‘天皇制’


『春日大社で最も古い太刀が見つかったことは徴である』


   


     2月 13th, 2019  Posted 12:00 AM

春日大社で、特別展が開催され名刀が一堂に公開されています。
大社と言えば、大きな神社のことと言われます。
神社、神宮、大社、天満宮、八幡宮、稲荷と格式と違いがあります。
日本には、仏教と神道がありますが、私はこれらのモノとコトを、
単にいわゆる宗教と言い切ってません。
768年に建立された春日大社には、神道である、天皇制よりも
日本国家という国づくりの瞑想的な逸話があります。
春日大社の宝庫で昭和14年に発見された太刀が、およそ80年経って、
研磨され日本刀の原型が成立した平安時代末期、
国内最古級の日本刀だと昨年明らかになったのです。
「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれます。
太刀と刀剣では、身に付ける方法が変わります。
平安京の頃の太刀とは、刀としてもどこまで丈夫であったのだろうか。
刀剣といえば鎌倉時代よりも、
それこそ神具としての太刀があったということです。
日本人としての倫理性=武力具ではないことが、確かめられるのです。
春日大社のある奈良、大和国は
山城国、備前国とともに刀剣の産地でもありました。
神具である太刀には、神社の瑪瑙、鏡、そして刀があるのです。


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『資本主義からの逃走』
 「神の国・・・その冒涜・2」


   


     11月 18th, 2009  Posted 9:46 AM

美大時代、
私は日本美学に惹かれる訳が無いと思っていました。
これはすぐに消滅しました。
学園紛争は金沢美大にまで及んできました。
全共闘赤軍派などが知ったかぶりで叫んでいました。
私たちはファッションにこだわり、
立て看を片付けて、彼らと対立していました。
しかし、赤ヘルメットで、
ただデモしているだけのお粗末さがセンスの無さを証明。
馬鹿集団としか思えませんでした。
学生運動が歴史的に勝ったのはイタリアでたった1回。
この知識すら知らない連中たちでした。

私は団塊の世代です(嫌いな言葉ですが)。
同世代には「当時はね、左翼系で、よくデモってました」。
こんな教授達に出会います。
あれからあなたは何をめざして生きてきたのでしょうか、
私は質問したくなりますが見下すことに最近決めました。
大学教授なるみなし公職にあり、
青春の志を転向したあなたを、
決して認めることはないでしょう。
あなたは「神の国・日本」を冒涜して生きているのです。

「神=自然神の国」を冒涜したのは、左翼系インテリです。
こうした人間は、
日本が犯した大罪であった世界大戦を指摘します。
私は日本美学を岡倉天心と天皇制と武士道に求めました。

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そして、結論。
冒涜は、三つあったと判断します。
大東亜共栄圏構想には、
「東洋の理想」岡倉天心著の書き出し、
「Asia is One」=「東洋は一つである」が、
当時の軍部に引用されました。
岡倉天心の美学と愛国心を悪用したのです。
● あの戦争は「天皇制」が原因と、
戦後その理論を吹聴。
それらが進歩的文化人と言われた左翼系学者や作家です。彼らは「神の国」の冒涜者です。
●「東京裁判」での国際法の無視です。
具体的には、名古屋大空襲に立ち向かった、
一人の中将=武士道の抵抗と
その正当性を忘却させていること。
無論、東京裁判を今、再考し直してこそ、
あらためて憲法9条論議を乗り越えていくべきです。

これら三つの冒涜が、「愛国心」という言葉すら、
日本語の危険語としてきた戦後の教育だったのでしょう。
「神の国」の均衡心=バランスとハーモニーという
日本の美学を冒涜していることだと私は考えます。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・2」


   


     11月 16th, 2009  Posted 5:00 PM

日本には八百万の神=自然の草木から岩に至るまで、
すべてに神がいました。
仏教には、五大思想での木・火・土・金・水があります。
儒教は、
仁・義・礼・智・信という人間としての徳性が基本でした。
歴史的には、
日本では
仏教と儒教が一体化したり分離という理が学問であり、
それがさらに八百万の神=神道とも一体化しました。

日本の神を全否定したハビアンの主張は、簡潔です。
ハビアンが、キリスト教の優位性を主張したのは、
世界の「創造主」の有無であり、神道・仏教・儒教の
「無為自然」や「空」・「無」なる心情が
全ての人にとって確信性が明白では無い、と
いうことを論破したのです。

ところが、儒教精神や仏教さらには神道で、
「自然」、特に樹木・岩・石から物すべてに「神」を
「武士道」に「理」として朱子学などは、
江戸時代から精神性の学問とまで昇華されていきます。

私がこれまで蓄積してきた歴史観の一端しか、
ここでは述べませんが、私は思います。
「賢者は歴史に学び、勝者は歴史をつくる」というなら、
私は「賢者」でありたいと思っています。
あらためて語りつなぎます。

日本は「神の国」であるという政=まつりごとの
根本理念と精神支柱として人格性の基盤となり、
そこに「天皇制」という民族思想は統一されました。
小さな島国、資源も面積も無い日本にとって、
民族自身の保身に、愛国の思想、
その核心が「神の国」であったことが、
悲しくも逆作用をしました。

甚大な戦災と被爆に遭遇した哀しみすら
「神の国」ゆえということを否定した
左翼系思想がマルクス思想だったことが、
ハビアン的な反発だったとみなすことができます。

歴史的考察を短絡して語りきるなら、
「東京裁判」による、
日本評価と判決を私は許容はできません。
日本の資本主義が、
「神の国」を仕舞い込んでまで、
生きながらえてきた戦後を
そろそろ総括するべきでしょう。


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