7月 25th, 2015 Posted 12:00 AM
言い出してはいけないことがある、とよく言われます。
しかし、「デザインとは社会への態度である」と、
インプリンティングされて育った者であるかぎり、
それは職能倫理観として、
眺め直して見なければならないマークがあります。
これらは我が国の省庁関係やプロジェクトなどのマークです。
ところが現代の今生においては、批判、時として非難は
決してしてはならないという社会的な不文律性が出来ています。
「白紙にしたい」というのは、日本のトップの権力になっています。
それをいいことにして、批判はしてはならないのです。
私は警官の息子として育ったので、今でも警察のマークは、
菊の御紋章と同じように大好きなマークです。
ところが、安易に決められてしまっている省庁マークは、
三流デザインだらけだとさえ私は思っています。
国家レベルのマークづくりに関わった経験がありますが、
デザイン対価が用意されていたものは皆無でした。
その程度にデザインは軽視されてきました。
それこそ、「この御紋が目に入らぬか」という時代では、
デザイン(designare=do+sign=design)という効用がありました。
何かが変というよりは、
何かセンスの勘違いが蔓延する世間になっています。
以前、私は大企業にはC.I.のロゴタイプはあってもマークが無い、
それゆえに日本の企業はブランド形成が難しいと言ってきました。
いわゆる工業意匠権20年では、オリジナルは抹消されていくのです。
言い換えれば、たかがデザインのマークデザインの効用はその程度。
肝心なことは、デザイナーの倫理観に関わっていますが、
情報時代の性悪説がはびこれば、
私は三つの無視こそ善なる倫理観ゼロに社会はつつまれると考えます。
それは、上場企業ビジネスがさも性善説を騙り、
匿名での平然たる批判がいかにも表現の自由を守護し、
そして、
ジェネリックプロダクトで何が悪いと言い出すデザイナーが出現、
これには、天誅が許されるべきではないかとさえ私は思います。
「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」
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Posted in ConsilienceDesign, 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務
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12月 14th, 2010 Posted 12:00 AM
情報時代のプライバシー
英国で人権ということが生まれました。
そして人権は数世紀そして現代に連続。
しかも、今では人権と情報が連結しています。
特に、米国ではプライバシー=「right to be let alone」という考え方が、
情報に人権が包含されるようになりました。
「一人でいて、誰にも観察されない状況」というプライバシーは、
すっかり「人格性や個人存在」を情報化することが密接で社会権と同一的な関係になってきました。
しかし、情報化時代→情報時代での個人性=プライバシーは、
一方では、堅固に保護されるべきでありながら、
もう一方では、そのプライバシーそのものを商品化=情報化するという商業主義が
資本主義の重大な市場価値になっています。
商品価値となるプライバシー
特に、「顔が知られる」=タレントさんや俳優さんという職業においては、
プライバシーそのものを商品価値にすることが重大という局面を持っています。
デザイナーという職能にも、その一面は極端にあります。
私も「designed by Kazuo Kawasaki」という名前、(Kazuo Kawasaki®=商標権)で、
自分のデザイン、創作権を明示する場合の人権は、三つの側面を持っています。
一つは、「私という存在・デザイン能力の表現物であること」、
ゆえに「創作者としての責務」を表していること。
これは「表現の自由」に委ねながらもその自由性において、
専門職能家としての常識・倫理・美学を世の中に問いただすことになります。
それは、表現物への義務感を背負っていることの証左です。
プライバシー情報への誹謗中傷
ところが、一方ではその明示ゆえに、
嫌悪されたり、あるいは非難中傷をうけることも受け入れなければなりません。
その覚悟はあっても、誹謗中傷されることの理由が、嫉妬であったり、
言われ無き荒唐無稽さもしばしばあるわけです。
ところが、この批判にも「表現の自由」とかを持ち出されるとき、
この人格否定の情報を制御できる法的整備はまだまだ整え終わっていないという状況に直面します。
さらに、そうした言われ無き誹謗が風評である場合には、
プライバシー侵害を阻止する手立ては、現代、まったく不在と言っても過言ではありません。
となれば、「right to be let alone」というプライバシーなどは
本来ありえなかったという極論も実際は公知されていたのかもしれません。
人間社会観の未発達性を確認しておかなければなりません。
つまり、「情報と人権」の問題は、このこともアポリアだと私は思っています。
「人権」に対する「情報」の暴力性をみるわけです。
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Posted in 059「人権と情報」, 資本主義から逃走せよ!
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12月 13th, 2010 Posted 12:00 AM
アレオパジェシカ・表現の自由
「アレオパジェシカ」から見直します。
1644年に英国の詩人のパンフレットでした。
詩人・ミルトンのこの指摘は現代にまで
「人権」を語る重大な発言として世界基準で支えてきました。
それはある種当時の権力=検閲への怒りそのまま「表現の自由」を激しく求めたことでした。
「表現の自由」というのは、まさしく「人権」の具現です。
しかし時に、私はなんでもかんでも、特に偏重したマスコミがこの「権利」を振りかざされると、
何ともイヤな気分におそわれます。
何かというと「表現の自由」となるわけですが、
私は、この「表現の自由」には表現する側に尽くすべき義務があると思います。
それは、人間の営為である「表現する」という権利は自然権ですが、
その自由さは当然として社会的な倫理観に照合された美学性が必要だと思っています。
アレオパゴス・倫理観
ミルトンは、ピューリタン革命時に絶対王政によって検閲されることへの怒りを、
古代アテナイに存在していた裁判所・アレオパゴスから名辞されていると言われています。
つまり、この裁判所での決定事項には、
当然のこととして人間としての倫理観が徹底されていました。
それだけに「表現」は人間の自由権利だから、
すべてが許されているという、特に、マスコミの偏重思想団体や、
宗教法人として納税もしないようなところからの表現発言には異を唱えたいと考えます。
ミルトンに限らず、ロック、ボルテール、さらにはガリレオまで、
学問的な真理を守ろうとしたことも「表現の自由」につながっています。
キリスト教・反ベクトル
私は、この背景にはキリスト教の根底にある懸念、
すなわち相反する矛盾が見え隠れしていると思えてなりません。
「自由」には「拘束(検閲)」という反ベクトルが働きます。
「平等」には「差別」という反ベクトル、
「愛」には「暴力」が反ベクトルです。
したがって、私も「表現者=デザイナー」ですから、
「デザイン表現は自由」であるべきという基本権は十二分に理解できますが、表現者であるまえに、社会的な存在者としての社会的な義務を十二分に果たしているかが問われるべきでしょう。
「表現」に明らかな拘束性、差別性、そして暴力性が感じ取れることは、
「表現の自由」の大勘違いだと指摘しておきます。
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12月 12th, 2010 Posted 12:00 AM
二つの自由
人は自由であるかどうか自問します。
自分自身誰でも自分の自由さに敏感です。
人間の自由さは、次の二つが「人権」の根幹です。
● 身体的自由さ(生体の機能性)
● 精神的自由さ(表現の拘束性)
さて私は、車椅子生活を余儀なくされています。
よって、まず、身体的に不自由です。
この不自由さには耐え難きことであり、それを宿命と考えることで自分を納得させたり、
あるいはあきらめていることが多くあります。
よって、身障者の社会権としての人権は政治的な配慮によってのみ担保されているのです。
しかし、私などは正直、身障者であることを武器にすることもできます。
あるいは、人間は「差別性」を社会に仕組むことで、身分や財力や地位、
そして能力で平等性を離脱させることをほとんど謀議としていることは明白です。
このことを事例とすれば、如何に世間・世情は、「不自由」であること、
「生きている」ということは、「不自由さ」に充ち満ちているということを
認識する必要があると私は主張しておきます。
したがって、幸福・幸運という漢字「幸」という文字形象には、
人間が両手を縛られている「不自由さ」を表示しているのです。
人間は生まれながらにして「不自由」な存在だということになっています。
表現の自由・アレオパジティカ
したがって、身体的な自由さも精神的な自由さも、
その象徴、その具体性に「表現の自由」を取り決めてきました。
「アレオパジティカ」から、
この「表現の自由」が政治とどのように対決してきたかということを
思い起こさなければならないのです。
私は身障者ですが、「アレオパジティカ」ということから語れることが武器だと自負できます。
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Posted in 059「人権と情報」, 資本主義から逃走せよ!
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