kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘自己啓発’


11月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 15th, 2020  Posted 12:00 AM

11月15日 仏滅(壬戌)

『教材としてのデザイン』

教材としてのデザインから、
産地が
自己啓発する力を育んでこそ、
伝統が息づいていく過程が
生まれるだろう。

artificial heart:川崎和男展


目次を見る

『鯖江市「高年大学の校章」は40年間続いている』


   


     11月 11th, 2019  Posted 12:00 AM

1988年(昭和63年)に開校した鯖江市「高年大学」の校章は、
私がデザインを引き受けました。
今年、開学40年を迎えた、社会人のマークです。
私の記憶では、当時「コシヒカリ」に重きを置いていると考えて
それをふまえてデザインしたと記憶していたのですが、
実際のデザイン意図は、鯖江市の花・ツツジでした。
ツツジのマークゆえに、デザイン意図は、
「総状花序の記号性を引用し、半円形の構成で
その重なった印象は人生経験のある
高年者の存在性を象徴するとともに、
生涯教育による限り自己啓発への意欲を垂直線で表現する。
そして、柔らかな楕円形態による造形は、
地域社会での高年者同士の親密感をイメージしている。」と
高年大学のしおり、本年度40周年記念号の歩み・文集にも
巻頭に、校章とともに掲載されています。
毎年、500名弱の高年者が様々な文化やら理工までのカリキュラム、
部活動に励まれています。授業料は年間3000円で、
60才以上から入学できます。
人生100年時代を生き抜く生涯学習の場です。
それこそ、私自身がその年代になっています。


目次を見る

「喧嘩とは、自分に売ることが基本だ」


   


     9月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

私は、「喧嘩師デザイナー」だと自称もしています。
だから、誰にでも喧嘩を売るということで怖がられています。
デザイナーは喧嘩師であれ」でもしっかりと記述していますが、
まずは、「自分に喧嘩を売る」ことを
根本的な原則にしなければなりません。
喧嘩を売る、とはチャラけた言い方だと「自己啓発」でしょう。
「自己啓発」類の本やその著者は、
私に言わせれば、高校時代に出会っていれば殴っていたでしょう。
この系譜で言うと、「仲良しクラブ的なこと」は大嫌いです。
表向きのチャラけた連中を見る度に、
現在は公的立場でもあるからもの凄く我慢します。
チャラけた発言などはひたすら無視することにしています。
「腹が立つ」とは、武士道における「腹こそ心の在処」だからです。
「切腹」とは「腹=心」の清廉潔白さを
最終の自死をもって証明する美学的精進だと考えます。
しかしこれこそ、
「自分に喧嘩を売っている」ことにもつながっていますが、
今では許されない行為ですが私は認めています。
「自己啓発」なんて言葉自体がだめです。
せめて、「自己鍛錬」・「自己精進」です。
鍛錬と精進は、
仏教的な精神的な自己犠牲を強いる、これこそ「勉強」です。
心臓発作を経験する40代半ばまで、
「睡眠時間4時間」を自分に強いてきました。
それはほとんどが、読書とスケッチでした。
「本を徹底的に読む」・「スケッチを毎日描く」・「文章を書く」、
これが、私の鍛錬と精進の核心です。
だから、毎日ここでのブログも精進の一つの形式にすぎません。
私の毎日の記録は、手帖・メモ帖・スケッチ帳が、
鍛錬と修練の「喧嘩ツール」になっています。
なぜ「帖」であり、「帳」なのかも、
勉強ゆえに区別されるべき詳細な日本の美学の証なのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「つつしみの育成は消極的な自己改革だと感じる」


   


     7月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

つつしむ直感
「感情」ではなくて「感性」の領域に、私は慈愛とつつしみを置いています。
これを精神論と捉えることは、「事の本質」を見誤ります。
まず、「感情」と「感性」の差異性は明確に、歴史的な論理検証をしてきました。
そして、「感性」の中で、
「直観」=「直感」を「つつしみ」にまで結びつけようということになります。
ただし、これは「直感」を、
デザインという職能で発揮できる資質は限定されていることは否めません。
自己判断、自己修練、自己啓発によって「つつしみ」ある能力と態度が求められます。
「つつしみ」は、「感性」、ある意味では「精神性の発露表現」です。
ところが、現代のわが国では、「つつしみ」は積極性を控え、謙譲的であって、
この感性を忘却、もしくは喪失していると言っても過言ではありません。
つつむ
「つつしみ」は「つつむ」ことにその由来があります。
包む限りは、より大きな空間=空なる世界観で、包含し、内包させる機能を示唆します。
これを「インクルーシブ」と言います。
ここから前述した「インクルーシブ・デザイン」に連続させることができます。
すなわち、私が決定的に表現する「つつしみの使い勝手」、
それは「つつしむという性能+効能=機能」だと考えるわけです。
これは精神性をも包み込む態度です。
この態度あるいは姿勢を、日本人デザイナーは取り戻すべきだというのが私の主張です。
乱暴な主張、そのスローガンが、
「コンセプト不要」=直感の強化で即表現というデザインプロセスの採用ということです。
私たち、日本人は、確かに工業時代でのデザインによる産業経済効果と効用によって、
わが国は豊かであり、自尊心を持っていました。
しかし、ポスト工業時代と情報化時代に入ってからも、
「手法論の大転換はできなかった」のです。
「不景気感」に覆い尽くされているわが国は、 不景気=depression=鬱病です。
精神的破壊を疾病的に抱いているなら、そこから再生還すべきでしょう。
「つつましく」あることは、鬱病的疾病に対しては、二つの効能があります。

■ 積極性より消極的心情・精神性の強化を意味しない。
弱さを否定せずに優しさを自己獲得する。

■ 自己主張をつつしむ=饒舌性を放棄することを容認。
「直感」は何人も否定しない効果と効用があることを共有。

正直、私自身の「つつましさ」は想像できかねることも自白しておかなければなりません。
それでも、「コンセプト」で語らずとも、
「直感」での造形・形態・価値づくりをする自信と自負心はあります。
この自信と自負心は、決して、私の精神性ではありません。
もし、精神性を背景にする方法は、唯一、「日常的連綿性」を果たしていくだけです。
そういう意味では、ここに、ブログをただ「想い」を記録していることは、
「直感で包まれている自分」を自分から離脱しながら見詰めることができるのです。
何事かに包まれている自分には、
つつまれていることの認識が「つつましさ」の芽吹きを感じることは間違いありません。


目次を見る