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Posts Tagged ‘経営仮説’


『経営仮説と収益構造にはジェネリック薬品』


   


     7月 13th, 2018  Posted 12:00 AM

入院してそのまま「骨折」をした私でした。
この「骨折」は明らかに病院のスタッフの無知によるものでした。
そうして、この事故はどうやっても訴訟は出来ないものらしいのです。
今の病院では「医師が院長」という悪しきルールによっている訳でした。
この病院は真に理事長は、売れていると思っているデザイナーに全てを任せ、
スタッフの誰に聞いても、使われている洋服は全員「嫌」と言っています。
が、面白いのは「絶対に私からとは言わないで」と念も押されました。
こういう病院が、デザイナーも入っているからということでOKとは、
絶対に同じデザイナー界ゆえに言い置きます。
おそらく、こういうのがビジネスモデルだとしたらということです。
なるほどデザイナーが入ればそれなりにはできるでしょうが、
私は入院した日に「骨折」し、そのために入院期間が長くなりました。
そして、今の病院ではジェネリック薬品が使われているのです。
「循環器系」は米国ではかなり高額になっています。
ジェネリック薬品は確かに良いのですが、
米国では「循環器系」は辞めているのです。
私はこの病院で薬剤師に、これは確かですか?とも聞けず、
ゆえに退院してから、阪大病院ではジェネリック薬品は、
外してもらいました。
ジェネリック薬品は確かに安いのですが、
それこそ「経営仮説」「収益構造」は病院=患者側では無く、
ジェネリック薬品を使用することは、患者の要求は見事切られていました。
おそらく、この病院ではジェネリックは「収益構造」であり、
なおかつ「経営仮説」では当たりまえなのでしょう。
まず、転院した一日目に「骨折」をし、
しかも、私の希望など無視されたジェネリック薬品を使わされていました。
まさしく米国では「循環器系」事態が
値上がりしている構造も無知だったと今では思っています。
なぜなら、デザイナー・建築家が
「経営仮説」と「収益構造」に巻き込まれていました。
私は海外でも入院しているので、
日本のことをしかっりと報告していくつもりです。


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「商品づくりからの逃走になっている・気づくべきだ」


   


     11月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

デジタル時代であるということを大前提にするべきです。
とすれば、
その具体的なPCやスマホが生活シーンに入ってきて、
日常生活には多大な影響や制御系を与えることは自明の論理です。
だからと言って、
洗濯機や冷蔵庫の使い勝手にスマホが摘要されることは愚の骨頂です。
それらを「商品」と読んでいる限り、
わが国の日の丸家電はもとより、ハイブリッドカーや電気自動車なども、
国際戦略的に産業の先進国家であり続けることはありえないというのが、
今、私の判断です。
すでに、商品は記号であり、記号ゆえに情報性を内在しているからこそ、
この情報社会において価値を持っているのです。
私自身は「価値の多様化が進展している」なんていう、
そんなマーケティング分析などには大きな疑念を抱いています。
ここに提示したマトリックスは、すでに以前も分析と提案をしています。
https://ouzak.co.jp/blog/?p=8605
既存価値と想定内のことはコードの体系にあります。
よって、商品?記号化するには、
この体系を組み合わせたり、
あたかも直感というコンセプトから造形言語によって「意図」を込めます。
しかし、
実際は、購買者・生活者・ユーザーは、モードとしての体験にこそ、
その価値観を求めているわけです。
よって、今更ながら、
製品企画や商品展開での経営仮説などほとんど無意味になっています。
かつて、プラズマTVを確信犯的に私は非難したことがあります。
その企業や量販店は私を訴えるという事件性に繋がりました。
結果どうだったでしょう。
そうした企業は赤字転落です。
今、私は日の丸家電も自動車も、
すべからくこれまでの産業構造を大革新すべきだと断言しておきます。
あえて、空欄のマトリックスを今夜は提示しました。
この空欄を埋められるデザイナーは限られています。
それは、企業経営者がもっとデザインの本質を
認知するだけの「経営美学」というセンスが必須だということです。
「記号の差異性しか価値を持たない」というのは、
ボードリヤールが30年前の言説であり、
「モードの体系」に流行性、あるいは価値観の変動、
それらを言い当てていたのはロラン・バルトでした。
特に、デザイナーはもう一度、
彼らの言説を根底から読解すべきだと提言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
   「相対化をささえる『かたち』と『ことば』」


   


     11月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

ようなかたち
私はデザイナーです。
デザインが表現するのは「かたち」です。
デザインは「かたち」に収束・集約します。
しかし、「かたち」というカタチは存在しません。
したがって、モデルとして、「これはこのカタチ」になりますとか、
あるいは「これはこのようなカタチ」になります、と言います。
すべからく、カタチを「ことば」で表現しています。
「このカタチ」と「このようなカタチ」ということには差違性があります。
特に、「このような」ということには印象を喩えるわけです。
印象あるいはイメージを何かに喩えることになります。
コンセプト=ことばの相対性
そこで私は、単純に「モデル」=模型=「かたち」と呼び、
その「かたち」への思慮・思量を「ことば」で表現し、
かつ一言で言い切るとき、それを「コンセプト」と呼ぶことにしています。
つまり、「コンセプト」という「ことば」には、
「かたち」の印象を何事か、のようなと喩えていることになります。
この喩えを集約させる手法は、「ことば」の使い方です。
しかも、この喩え方は現代の教育の中では度外視されていることが問題です。
にもかかわらず、私たちは「かたち」と「ことば」に寄りかかっています。
この寄りかかり方というのは相対的な印象に他なりません。
デザインを介入
いわゆるビジネスモデルは相対的な経営仮説と収益構造によって、
その商品の「かたち」とその説明の「ことば」で成立しています。
私はこのビジネスモデルに欠落している美学性と倫理性を、
さらに、コンセプト=「ことば」を付加することでその印象の強化を求めています。
したがって、私が主張するデザインをビジネスモデルに介入させていくことは、
さらに複雑化させていく印象を与えているものと推測します。
しかし、ビジネスデザインモデルが最も明確にさせることは、
モデル=「かたち」とコンセプト=「ことば」の相対的で「のような」イメージを与えることです。
これまでのビジネスモデルよりも簡潔にする手法にデザインの有効性を訴求すると思っています。


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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルをデザインモデルにするために」


   


     11月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

創る・探る=モデル
モデルには二つあります。
「創るモデル」と「探るモデル」です。
デザイン手法は、創って探る、探って創るために、
その両方を往復思量する模型・モックアップモデルで検討をします。
そして、そのモデルで確認するのは、
 ● 性能が果たせるだろうか、
 ● 効能の効き目はあるだろうか、
 ● この二つがあるから機能が生まれているだろうか、
ともかく、この三つが確約されるかどうかを検証するわけです。
性能・効能・機能の「美しさ」
最終的には、性能・効能・機能が「美しさ」でまとめられて、
その綺麗事が日常生活の暮らしで、現実的な問題解決をしているかどうかです。
それはまさに健康的な社会づくりに向かっているかという綺麗事です。
私はそれが最も重要だと思っています。
さて、ビジネスモデルは経営仮説と収益構造ですから、
効能があるかどうか、効能があるという仮説です。
そして性能として数値的な確実さが回収できる経営の確約がビジネスモデルです。
したがって、そのモデルが「美しい」とか
「社会的に義であり善である」ということは、経営手法からははずされています。
ビジネスモデルに経営哲学は無い
ビジネスモデルの経営哲学に欠落しているのは、
美しさ=美学と正しさ=倫理性だったと思います。
もし、経営哲学があったなら、納税すら無視するということはありえないのです。
しかし、現代の景気=不況を言い訳にして、
「納税義務放棄」する企業論理は犯罪ですらあるわけです。
もし、納税できない、収益構造でのprofitは自分たち企業内で独占して、
企業が社会的に存在していくための義務放棄はあってはならないのです。
不況ゆえに企業倒産するというのは、経営哲学の根本を見直すべきでしょう。
ビジネスデザインモデルの綺麗事
経営仮説と収益構造は、
本来は「美・義・善」ある存在性のある企業かどうかが基盤であったのです。
ビジネスモデルにデザインという視座と、
デザインの視界にそのモデルがあるかどうかが現代、試されているのです。
当然、ビジネスモデルで産出と算出される「商品」には、
「美しさ」と「正しさ」を、私は綺麗事として求めています。
そんな綺麗事を企業家に主張していきます。
そんな単純明快なことすら理解も行動もできない企業家に、
デザインは理解不能だということをいやというほど体験してきました。


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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルの再検証にデザインを」


   


     11月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

経営仮説+収益構造
「ビジネスモデル」、簡潔には二つの要素です。
ビジネスモデル=経営仮説+収益構造。
そして、「モデル」という言葉があるのならば、
一般的なモデルの意味には、「創るモデル」と「探るモデル」があるということです。
「創るモデル」というのは、造形的「模型」や美術表現の「対象」になります。
「探るモデル」というのは、科学的な「対象」や仮説性を含んだ理論ということです。
デザインでのモデルは「モックアップモデル」という「模型」です。
したがって、モデルに対するビジネス対象は経営仮説=収益の可能性+経済的効果となる、
投資効果の模型を、次のように考えることだと述べました。
モデルの分類

   ■ 単純化モデル=対象が複雑なときに、単純化を探ること
   ■ 構成化モデル=成り立ちや構造を想像力を駆使すること
   ■ 近似化モデル=単純化してその構成が対象との近似性の有無
   ■ 同型化モデル=物理的・数学的あるいは文学的な同等性の有無
   ■ 相似化モデル=一目で分かりやすいように巨大化or縮小化

以上が、モデル=対象を把握する手かがりとしての論理化や視覚化ということになります。
そうして、あくまでもビジネス=経営という立場で、
投資する対象に対する収益可能性の仮説化という論理と具体性がビジネスモデルという呼称です。
「倫理性」・「美学性」
ところが、この呼称ゆえに派生してくる問題がいとも簡単に忘れられる傾向があります。
特にビジネスという要因性・変動性では起こりがちであるということです。
とりわけ、ビジネスは景気循環によって、大きな変位や変動があります。
この変動性ゆえに、好景気や不景気・不況は、収益仮説などを一辺に破壊することがあります。
この破壊を遮断できる人間性、人為的な正義は「倫理性」と「美学性」です。
デザインにとって不可欠なことは「倫理性」+「美学性」だと私は考えてきました。
倫理性+美学性=美・義・善の社会的な価値、つまり「恩恵」あるいは「利得」=benefitです。
ビジネスデザインモデル
デザインが究極目指しているのは、「美しい」という綺麗事であり、
ウソ・ホントや損・得や好き・嫌いではありません。社会的な善悪判断の価値観です。
それを社会的な「効能」、すなわち恩恵=benefitに他なりません。
したがって、私はデザイナーが関与することで、
ビジネスモデルをビジネスデザインモデルにしていく必然性を主張しています。
「美しい」というだけの価値は、profitもbenefitも超越しているものと確信しています。
この確信やデザインへの信頼が、
「何がモデル=模型であり、対象なのか」をあらためて再検証する動機になるものと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「Business Design Modelは製品化と商品化の分担事業」


   


     4月 7th, 2010  Posted 12:01 AM


殷・紀元前17世紀頃・と呼ばれた王朝の国名です。
紀元前11世紀に周王朝によって滅ぼされたといわれています。
この国の人を「商人」と呼び、
彼らが取り引きした品物を「商品」と言ったことから、
「商売」=経営となりました。
私はBusiness Modelの破綻に対して、Designにより、
美学性+倫理性=知財権を「経営仮説」=「商売仮説」とし、
二つの企業体によって、そのコラボレーションを
Business Design Modelとしました。

この図式はそのまま、現状の日本の将来に対しての経営システムです。
日本は知財権=知的頭脳集約産業としての貿易立国をめざします。
そして、この知財権には美学性+倫理性というデザインの本質を配置。
この頭脳集約での「モノづくり」は「製品化」をねらいます。
当然、「製品化」での経営仮説は収益構造を持っています。
そして、この「製品化」を「商品化」にしていくことで、
二つの経済サイクルの二重構造性を派生させていくわけです。
経営仮説は、「製品」と「商品」、それぞれが収益構造から、
その製品・商品を存在させるための社会還元化が生まれます。
この社会還元化は、二つの企業体あるいは組織体の「存在理由」を明確化、
この存在理由=アイデンティティは、
必ずしも、今流行の「ブランディングマーケット論」ではありません。
私の意図は、二つの経営仮説によっての二重のサイクル性、
すなわち、「循環論」がイノベーションであるということです。
「景気」はこのサイクル性を常に活性化できるかどうかということです。
製品化・商品化
すなわち、「製品化」と「商品化」ともに、
イノベーション=循環論が構造化されることが、
利益獲得と社会還元を、
二重サイクル化する時代になっているのが現代だということです。

あらためて、「製品」と「商品」の分担と協同が、
これからの国際的な循環論=イノベーション国際化をうながすことです。
よって、一企業体だけの独占的な利益獲得、
あるいは、国際的な企業存在性のための社会還元こそ、
国際還元として、国際間の格差性を補完することになると考えます。
「デザインが世界を革新する」という私の提言は、
このBusiness Design Modelの実践、具現化にほかなりません。


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『資本主義からの逃走』
「Business Modelの義は善であり、美に包まれている」


   


     4月 6th, 2010  Posted 12:01 AM


「義務」あってこそ、人は「権利」があります。
「権利」が前面となっているのは現代日本の病です。
「義とは宜しきなり」(礼記)という原意性がありますが、
羊を犠牲として神の供え物とし、
その祭壇を善としていたという文脈に「美」がありました。
つまり、美は義と善を包み込んでいる言葉です。
さて、私は、Business Model が破綻しているのは、
社会還元という義務放棄が起こってしまっていることだと思っています。
収益構造の中での利益獲得は、
すべからく「独占」する権利を前面としている、
その結果がBusiness Model を破綻している最大の理由です。

義務なくして、
経営仮説と収益構造による企業の「社会的な存在」権利は失うのです。
そこで、私は下記のように、「経営仮説」に知財権を配置し、
その知財権は最も権利主張が弱いと言われがちな意匠権、
その意匠権こそ「美学性+倫理性」=美(義+善)なのです。
意匠権=美学性+倫理性
そして、これまでは「経営仮説」が「収益構造」という図式を
次のように変換するべきだと考えてきました。
それは知財権に意匠権=美学性+倫理性を「経営仮説」とするなら、
その背景としての基盤上には、「収益構造」を仮説化します。
その上に、はじめて「経営仮説」を載せる戦略です。
しかも、これまでは「経営仮説」に知財権の有無によって、
知財権は収益構造に直結していることが慣習であったと思います。
そして、利益獲得のサイクルを二重化できないか、と考えました。
それは、純利益のサイクルと経常利益のサイクルです。
それぞれのサイクル性が、収益構造を取り囲むことで、
企業体の体力と体質をガードできないだろうかということです。
このサイクルは、必ず義務である美学=美と倫理=善を駆動させます。
それは、明らかに、Business Modelではなくて、
designの理想主義を持ち込みます。
Designには、その本質において必ず「美学性+倫理性」は、
全体価値として付与されます。


おそらくこれまでの「経営仮説」において、
Designの価値感は、付加価値となってきたことは否めません。
よって、この経営仮説よりも、
収益価値の付加価値にDesignが置かれていたことが予想されます。
次段階においては、次の二つを論理図式化していくことで、
Business ModelをDesignで強化する手法が見えてくると考えています。


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『資本主義からの逃走』
「Business Modelの経営仮説と収益構造の破綻」


   


     4月 5th, 2010  Posted 12:01 AM


企業は、「企」という漢字が表現している意味があります。
「企」は、つま先を立て佇んでいるということです。
これは、遠方=将来に向かっている意味があります。

経営仮説・収益構造
その目標と目的には、「経営仮説」という、
商売による「儲ける」という「経営仮説」があります。
その経営仮説は、「収益構造」を意図しています。
収益構造は、まず商売によって利益を獲得します。
その利益だけではなくて、
企業は社会に存在している意味として、
利益を還元していく義務があってこそ、
利益獲得の権利があるわけです。
ところが、「収益構造」は、
その企業が経営仮説は独自の発想や表現を流通させる、
という独自性をもっていますから、
利益獲得を独占することの権利だけ、
その主張企業が派生しているわけです。
特に、不況となれば、健全な経営は歪んできます。
健全な経営というのは、
まず、「企業の存在」=社会的な役割の認識が基軸です。
その基軸には、「義務」としての社会還元があります。
当然の税金、さらには奉仕的な社会文化を
形成していく支援、そうした事業があります。
スポーツや芸術、さらには社会保障から教育支援を、
経営仮説による収益構造の利益配分が「義務」なのです。

Business Modelの破綻
現代、これだけの不況感・デフレスパイラルの中では、
経営仮説を独占しているのだから、
当然ながら、利益獲得は、企業が独占し、
社会還元・文化の形成支援は不可能、
すなわち、権利だけを主張し存在義務の放棄が拡大しています。
結局、この義務をつくして権利である利益獲得では、
企業の経営仮説でなければならない社会文化の形成が不可能となり、
経営仮説そのものが破綻していくことになります。
私は、明らかに「経営仮説」+「収益構造」=義務+権利
このBusiness Modelの破綻が、
相当に蔓延していると指摘せざるをえません。


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『資本主義からの逃走』
  「製品と商品には大きな差異があります、要注意!」


   


     3月 3rd, 2010  Posted 1:37 AM

製品と商品
私は「新製品発表」をしました。
「商品ではない」とか、「値段」を聞かれます。
違うのです。この問いかけを洗い出すこと、
これが私の目標でした。
それから「商品」というモノづくり目的に入ります。
どこの企業でも、そしてマスコミも「製品」と「商品」は
同義語で使われています。
これが実は「企業」の活動=収益目標と企業存在の目的、
いづれも読み違い・勘違いが横行しているのです。
私は常に新たなクライアントに入っていくとき、
「御社の製品はどれですか?」と尋ねます。
そうして、
「それは商品ではないですか」ということで、
混乱を与えてしまうことばかりです。
したがって、学生への講義では、
この「製品」と「商品」の言葉の背景、歴史を教えます。
いづれこのことについては詳細な書籍を出版します。
私の「Business Design Model」では、
「製品」と「商品」を明確に区別しています。
なぜなら、インハウスデザイナーは、
「商品デザイン」をさせられています。
だから、「商品が売れたかどうかで、デザイン評価」、
そのまま、デザイナー力量が問われるのです。
まず「製品企画・製品計画」から「商品企画・商品計画」、
この「四句分別」が企業内で出来上がっていないのです。

「商品」は殷の時代まで「商」という国に原点があります。
制作・製作・製造・生産
「製品」は「制作・製作・製造・生産」であって、
まだ「商品」の手前のモノです。
私が今懸命に訴求しているのは、
収益構造=経営仮説=ビジネスからの社会化=利益還元、
つまり仮説モデルの革新です。
あらためて、考え調査してほしいのは、
「製品開発」と「商品開発」は何が異なっているのか?
「製品収益」と「商品収益」との経営仮説とは何か?
この二つをまず、「企業」の目的と目標、
実は、「目標」と「目的」も異なっています。
この論理を確実にしての「経営仮説」に、
デザインを導入する重要性と大事さを再確認してください。


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