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Posts Tagged ‘科学性’


『コンセプトで「美」、その創出は不可能である』


   


     6月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンセプト」、この幻惑に閉じ込められて来た現代人の
発想・思考、そして論理構造を断罪しました。
一言で表せば、「コンセプト」そのものが曖昧で、
思考の源泉である知識・学識・常識の否定です。
そこで、「コンセプトの完全否定」から、
自分としては「ライン:line」発想・思想・論理を提案します。
理由は、とても明快です。
思想・良識・知恵は「真・善・美」に最終結論として到達するはずです。
したがって、少なからず、「真」である科学性・非科学性も、
「善」に関わる思想・理念も、概念では説明すら曖昧になります。
それが「美」ともなれば、
「コンセプト」には大抵大概にして「感性判断」を求められます。
ここに「コンセプト」では決して「美」には到達不可能であることを
まず「知る」ことが重要です。
それこそ、silienceで辿り着いた「知られざる知性・見識」であり、
「コンセプト」では決して
「美」を語り切ることが不可能だということです。
感性での「美」の判断はとても「コンセプト」論理では近接できません。
昨今はあたかも感性重視でのコンセプト発想が、
「美」をも絶対的に完遂するという思考が氾濫し始めています。
なぜ人は「美学」という学識で
連綿と美しさを追い求めてきたのでしょうか。
結論を言えば、
コンセプトで美は決して創り出すことは不可能だということです。
デザイン界もコンセプトと感性でこそ、デザインが形成されているという、
この幻想の中に封じられてきました。
それこそどれだけのデザイナー、芸術家、建築家などが、
コンセプトで語り切ろうとするこの曖昧さの中に
「美」をはめ込んできたのでしょう。
その実例が、機能的なデザインには美がある、という発想でした。
これは単なる曖昧で感性的なコンセプト論理でしかなかったのです。
あえて自分は「コンセプト」で語られてきた「美」の曖昧さを否定します。
この曖昧さを捨てるときに「ライン」発想・思考・論理に、
「美」が見えてくるはずです。

*『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』
*『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』
*『「真善美」をプラトンに教えられたから生きてきた』
*『たかがリモンコンではありえない』
*『若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認』


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『鉱物学と自然科学が選んできたコンシリエンス』


   


     6月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

「Scientist」という呼称を造ったWilliam Whewellについて知りたい、
このことを追いかけてきました。
ウィリアム・ヒューエルの専門はMineralogy=鉱物学でした。
当時の鉱物学は現代の鉱山学とは違っていました。
鉱物学は、現代では地球物理学に等しく、数学・物理学はもちろん、
哲学にまで及ぶ科学全般までの学問・学域だったようです。
したがって、Physician もCatastrophism、そしてConsilienceの造語にまで
見事に科学全般の統合性を訴求していたことは当然でした。
そして、本来は分科学であったことから、
科学は、その分化とともに専門性に深度を持つようになってしまいました。
彼の造語が今あらためて脚光をあびるようになったのは、
分科学ではなくて科学性の統合こそ、実は科学の本質であるとした
エドワード・オズボーンによるものでした。
彼の専門は自然学であり、
彼は社会自然学にコンシリエンスを採用しました。
社会自然学の統合性は保健学=Health Scienceで再度取り上げられ、
自分がデザインを加味したのも、デザイン科学としたときには、
科学の文科系と理科系、さらに学術性と芸術性の統合が必要ということを
デザインとして、その進化には最もふさわしいという発想からでした。
コンシリエンスデザインという統合性には、
 ● 規模的統合
 ● 機能的統合
 ● ネットワーク的統合
 ● 文化的統合
この四つの統合性からは、
いわゆる「コンセプト発想」は消滅していきます。
コンシリエンスデザインは確実にコンセプト発想では、
大きな間違いが含まれることを
これからは証左していくことになるでしょう。

*『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』
*『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』
*『これからのデザインを語るために=・・・signare・・・』
*『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』
*『『学際化』によって危機管理デザイン工学をめざす』


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『葉巻文化と筆記具文化の統合性は凄いのだ!』


   


     2月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

絶対禁煙を心がけてきた私でしたが、
喫煙風習と人類の文化性を否定することは出来ないものでした。
そこで、60歳を過ぎ、しかも心臓障害者でもあることからも、
全否定論者でしたが、ドクター、訪看ナースに止められてしかも
このコトを記すれば、ワイフは勿論、数名に叱られます。
けれども、文化の神髄に潜む私なりの美意識については、
なんとしても見識の深度を求めに求めました。
ところが、流石に風邪にやられて体調もおかしいともなれば、
反省の極みにまで引きずり込まれてしまっていました。
にもかかわらず、とうとう、「そうか、ここまでの展開が!」、
ということで、ヨーロッパから葉巻そのままのボールペンが来てました。
ベッドで寝込みながらも、このボールペンを使ってみたいまでに、
私は葉巻の書籍を徹底的に読みあさっていました。
コヒーバ銘柄を選んでボールペン化したセンスの深さには、
キューバ産独特の歴史性があり、隠れ知られた銘柄歴史こそ、
私は葉巻文化と筆記具文化とのことこそ「統合性」の証を認めます。
確かに、煙草文化は健康的な大問題での全否定は確実であり、
だから葉巻ならというのもすでに科学的には否定に向かっています。
そうした時代的科学性の否定をも包み込んでも、
私は、この筆記具の文化的な背景には美学性を認めざるをえません。
そうなれば、なおのことあらためて健康を求めざるをえないのです。
風邪をひいても38.5の高熱でも本は読めるのですと、かってはOKが、
今回はとても無理だと知らされました。
葉巻に関する本を読みあさり、それこそそこまで読まなくてもとかを
プロからまで言われて、しかも、筆記具発見をしていることでは
大いに呆れられる有様でしたが、私は大満足のなかで、
なんとしても元気にならなくてはいけないことを、
コイーバの葉巻伝統の文化ゆえに、この統合的な展開を
本当に「身をもって分かった」と言っていい経験のモノでした。
この筆記具の性能性は、
スタイラス重量感の最適性を完成させていることを知りました。

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『来年は干支は羊なり』


   


     12月 31st, 2014  Posted 12:00 AM

ここ数年、私は太陰暦そして陰陽五行説をかなり真剣に読んでいて、
たとえば腕時計もムーンファエイズに限るとかに決めてきました。
そして、まだまともな時計が生まれていないことも知りました。
五行説が西洋も東洋もそれぞれの組み合わせでコンセプトの
下敷きにすることができます。
正直、干支についても毎年、年明けのシンボル程度の認識ですが、
そろそろ、来年は未年とかといえば、12年後を考えてしまいます。
そして、日本人には干支への認識はすでに遺伝子記憶だと思います。
その大きな理由を私なりには三つほどあるのではと想像しています。
まず、干支の動物は日本人のマスコットシンボルです。
それこそ「ゆるキャラ」の発想には、
この命名者である人物の仏像好きが背景にあり、
干支以外のゆるキャラが人気を集めています。
そして、猫は干支に含まれていないだけに「キティちゃん」が
もはや世界的なキャラクターモデルになっています。
理由は簡単でしょう。干支には厳密な精神面的なシンボル信仰があり
この信仰から解放されているから、
現代的なシンボル解放が成功しているのでしょう。
それこそ、血液型や干支での性格分析は全く科学性がありません。
それは、占い的な荒唐無稽さがあたかも乗っかっているだけです。
だからといって、私は総否定することはまったくありません。
ともかく、来年は「ひつじ」をキャラクターにすることを
楽しみたいと思っています。
羊のディフォルメされた形態や漫画性、あるいは形態模写性や
スタッフとこのシンボルなら、
羊が一匹、羊が二匹・・・・Z・Z・Z・Zって、
キャラクター性のおとぎ話的な要素の表現に決めました。
私の性格には、とても似合わしくない年=未年がやってきます。


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『人類の進化=類人猿の時代があったという魔力性』


   


     11月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

科学的であることと文化的であること。
この融合性は、いや分離性、剥離しているかもしれない。
このところ私はConsilience Designを組み立てるべく、
学術的な統合性についてメモを取りながらその論理性を熟慮中です。
そして、猿がWalk manのTV-CFで話題でしたが、
今度はスマホを温泉で扱っている写真を見て、
ユーモラスであると同時にこれは進化だろうかと考えてしまいます。
つまり、「イオニアの魔力」から、日本人は全く免れていますが、
未だに、人間は猿からの進化ではないという宗教観に、
科学の実証的な解釈は否定されている科学性と文化性との乖離は
この二枚の写真、その解釈にまで至るであろうと私は考えます。
ウォークマンで音楽を聞き入るTV-CFの発想は素晴らしく、
あれから27年で、温泉で湯あそびしている猿が、もし、
スマホまでを理解しているとするなら、魔力は解かれたのでしょう。
科学の正確さは仮説があって経験としての実証性で確かめられます。
それは哲学の起源とされるタレスの「すべてが水」という言説から
認識論で鍛えられてきた科学の経験実証性に快感があると
書き残したアインシュタインから、まだ我々は離脱はしていません。
それだけに、科学の学術的言説の論理は、人文科学、すなわち文化で
ややもすれば否定されることは特に宗教性で確立していました。
私はデザインによる学際性、すなわち科学と文化を統合することに
最も意欲をもってきました。
この意欲とは、デザインだけが科学性と文化性の接着剤だからです。
コンシリエンスデザインを私は提案しています。
これまでデザインを理工学・医工学・文理学・政経学というのを
私はさらに統合化を計りたいと考えてきました。
それは「イオニアの魔力」への有効な手立てを考えることでした。
まさに、27年間で猿は音楽を聴くところからスマホ使用まで、
たとえ、話題づくりであったとしても、これは有効だと考えます。


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『流行の安易なデザインを全否定する正当なデザイン』


   


     2月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

私はもう一度書き残したい。
PCメガネと呼ばれる安易で科学性の無いメガネがヒットしました。
私は脳天から怒りがありました。
可視光線でのブルー系色がモニターから過剰に発光してるから、
このブルー系をカットするレンズのあるメガネが安価で登場。
案の上、これはホンの一時、流行現象になりました。
それこそ100円ショップにこのメガネが登場したのです。
このブルー系色カットレンズは、全く目の生理現象に無知でした。
PCモニター、TVモニターから発光される視覚生理で最も重要なこと
それは、「ドライアイ」=角膜が乾燥することこそ、
実は目の生理現象を正常さを狂わせるということです。
決して青色カットすれば、
モニターへの視覚生理を保護するわけではありません。
最重要なことは「ドライアイ」を防ぐことになります。
そこでメガネとモニター、両方のデザイン経験から、
私は、ドライアイ防止のために、液晶膜を10秒間に1or2回遮断、
この回路を込めた正当なドライアイ解決メガネを商品化しました。
この商品デザインは当初は、なかなか理解されませんでしたが、
結局、角膜の三つの油層・水層・ムチン層それぞれが、
ドライアイになることこそ、最悪の視覚細胞を痛めるわけです。
もし、端的に青色カットというのなら、
それは紫外線防止と同等のガラスレンズよりプラスチックでも、
十二分の可能になります。
このことをデザイナーは知っているでしょうか?
流行とまでなったPCメガネはかえって視覚に無理を与えています。
デザイン=問題解決の目標はドライアイ防止が正解だったのです。
メガネフレームデザインは視覚の問題解決であるべきです。

「本当のモノは信じられることにつながる」
「PCメガネはドライ・アイ対策でなければいけない」


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『「KK塾」大野ゆう子教授からスタートしました! 』


   


     10月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

デザインディレクターとして、これまでの経験と知識から、
私は私塾をスタートしました。私自身が主宰していきますが、
私とペアでの講師は最も選び抜いています。
現代最も「デザイン」が主導すべき中心テーマは四つです。
この塾そのもののデザインには目標と目的が時代を先導します。
そのキックオフには、医療看護学では「この人」を選びました。
やはり、想像以上の講演をしていただきました。
本当は上海での講演を延ばしていただいてもやってもらいました。
私がこの塾での中心である「危機管理デザイン工学」発想を、
真っ直ぐに受け止めていただいて、医療・看護・工学は、
科学性と倫理性への決断性をいっぱいいただきました。
聴講してもらったある人のノートには、そのメモには、
お母さんの手当からお医者さん、体位交換からロボティックス等。
私は先生と医療看護で拘ってきた「二人称の医療と看護」を、
改めてデザイン+看工融合での新しいアイディアが浮かびました。
大学病院での医療と看護の体制には、
どこかで身内意識=二人称=あなたへの依怙贔屓を避けます。
しかし、私と先生は、その二人称を最大に大事にしてこそ、
第三者、三人称の彼ら彼女らへの医療看護が可能ということを
言い続けてきました。
私はこの塾の今後に、PFI・AAC・DDSへの展開に進めます。
PFI?・AAC?・DDS?、これらは聴講する人にだけ伝えます。
理由は、先導する船頭さんはほんの僅かでいいからです。
KK塾の夢、理想、希望は大野先生とも仲間である生田先生です。
と思っていたら、TV「日本のミカタ」東大特集で、
まさに、生田研の活動が取材放映されていました。
生田幸士先生が大野先生の話を受け継いで語ったもらう予定です。


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「三つの革命を促してくれた『光造形』デザイン」


   


     5月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

私は大学人を選んでもう18年目になります。
なんとしても自力でやりたかった事が「光造形」でした。
それ以前に心臓発作で何度か倒れて、
結局、162日間入院して担当医への質問攻めをしました。
流石に担当医は、一般書から専門書を私に貸していただきました。
私は人体が中空な物の集合体だと思ったのです。
「光造形」は大学でそれなりの設備が無ければ不可能でした。
様々なトポロジーの代表形態を想像力で、
当時のEWSと3D-CADでは、とても困難でしたが、
とりわけ、私を惹き付けていたのは心臓でした。
それは私がやがては「心臓障害者認定」までなりましたが、
これは見事に空洞の中に中空なパイプがトポロジー空間でした。
私は、次の三つを次世代の革命と予想して、
講義や講演ではその具体例をグラフィカルに見せていました。
  ● 遺伝子革命・・・iPSが具体例
  ● 光重合革命・・・光造形から3Dプリンターへと進化
  ● 電磁波革命・・・エネルギー(水・食糧・電力)を意図
この三つの予測はほぼ的中していたと思います。
それでも、おそらくデザイナーとしての半分は、
この進化や連鎖を思考し、具体例を「見える形態=言語」へと、
私は様々な概念や理念で希求してきたと思います。
もっとも私はデザイナーですから、
その世間的な信頼性はいつでも、
「デザイナーは外観の造形専門家」とみられてきました。
しかし、美大時代から、
「デザインは造形という手法で問題解決を提示すること」でした。
したがって、
遺伝子革命や電磁波革命は、
私の科学性=知識性を高めてくれましたから、
直接的ではなくとも、
私の「造形手法での問題解釈」を支援してくれました。
そして、「光重合」では光造形システムから、
3Dプリンター、さらにはこれを取り巻く環境までを知りました。
しかも、この三つの革命は、やっと入り口にきたようです。
私が特に3Dプリンター素材に拘っているのは、
「中空」です。
そうした素材が、「危機解決」という、
人間として生存する日常での最適な応答・回答・解答こそ、
この国難・日本の産業に出来ないかとさえ思っています。


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「結果原因・原因結果からの予知と予測」


   


     4月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

地球環境が1000年に一度を引き込んでいるのでしょうか。
そのような時期に自分の生涯を重ねたくはありませんでした。
私の正直な感想です。
また、スマトラ周辺で大地震がありました。
ということは、3.11の再来が予知・予測されるのかもしれません。
地震は予測ではなく、あくまでも「予知」です。
少なからずこの言葉の意味、コンセプトを読み取ろうとすると、
「科学的」という印象からはずれてしまいます。
私は、地震の予測、あるいは予知、
これは三つの方向から考えられると思います。
それは、結果から原因を見いだす予測の方向と、
原因があるから結果が予知できるかもしれないということです。
大地震は、三つあるのではないかと考えます。
これこそデザイナーのDIVINATIONでしかありませんが・・・。
まず、地殻変動・プレートでのストレス現象です。
これは最も現代地震学の科学性があることになっています。
次が、人間の知恵となっている動物の様々な異変、
特に、魚や鯨の行動異変や大漁が起こるという自然現象もあります。
これは古からの言い伝えにもなっています。
最後が、地磁気力や成層圏での電磁波異変、
これもオーロラの発生緯度低下などの現象です。
私は、この三つがどのようになっているのかは報道でしか知り得ません。
となれば、
報道もこの三つの原因・結果と
結果・原因に敏感であってほしいと望みます。
特に、成層圏と電磁波の関係などは予知どころかまだ未知の領域です。
しかし、オーロラの異常発生が最も、
予知性より予測セグメントが高いと私は思っています。

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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・2」


   


     4月 1st, 2010  Posted 2:30 AM

「情報」への正直な態度
「情報」というのは、概念もしくは観念と聞かれたら、
正直、ほとんど回答は不可能だと私は思っています。
だから、私なりに回答しておきます。
ただし、これは応答でも解答でもありません。
回答だということを断っておきます。
抑圧と解放
私は、情報というのは「日常を構造化している抑圧要因」だと思います。
しかしもう一方では、
情報は「毎日の連続性を無意識化してくれる解放要素」という、
「抑圧性と開放性」の意識環境だと考えています。
「情報」ということが、私を取り囲んだのは、
ある「物質」の登場でした。
その「物質」=モノはコンピューター、
もっと厳密には、パソコンとケータイというモノだったのです。
したがって、「情報」が襲いかかってきたのは、
こうしたモノ=物質だったのです。
だから、このモノは、過去のモノも引き込みました。
過去のモノ、その集合体を「メディア」としました。
堂々巡り
そのメディア、新聞からTVとかInternetには、
「表現」された事項すべてが、
もう一度堂々巡りとなって「情報」と呼ばれました。
この堂々巡りは「連続性」によって、
私たちを錯乱させているのです。
この錯乱を、私は「抑圧性」と「開放性」の混乱だと思っています。
あらためて、「情報」を学や論の中に差し込めば、
「情報学」とか「情報論」とすれば、
いかにも、知的で高尚な印象になりました。
この印象が、科学性から芸術性までを封鎖しているのです。
封鎖されているから、「抑圧」があり、「解放」を期待するのです。
私は、「情報」が日常や意識へ与えてきた混乱・錯乱は、
生・情報・死
「生」の連続性を素直に正直に認めている態度だったのです。
ところが、「生」そのものが連続性であったとしても、
その「生」には、停止=「死」が突然襲いかかります。
人間を襲いかかる事項=「情報」と「死」は同等だったのかもしれません。
となれば、「死」を無意識化するために、
私は、「情報化」を、人間はいとも容易く受け入れてきたのです。
その理由は、闇雲に混乱・錯乱させられているからです。
本当は無・意識=情報だと考えることも可能だったのです。
無・意識は、空・意識に連続し、この連続が「生」であるなら、
「情報」は、私たちの日常、
すなわち環境として取り囲んでいるのです。
私たちは、「情報」で抑圧され、また解放もされるということです。


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