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Posts Tagged ‘痛み’


3月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 27th, 2021  Posted 12:00 AM

3月27日 仏滅(甲戌)

『誌論としてのデザイン』

この痛みに
麻薬売人となった
ジャーナリズムの責任は
大きい。

artificial heart:川崎和男展


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3月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 26th, 2021  Posted 12:00 AM

3月26日 先負(癸酉)

『誌論としてのデザイン』

情報化時代の核である
メディアが
純白な紙面であるというのは、
すでに
網膜剥離の痛みを
忘れた現代の
幻想にすぎないようだ。

artificial heart:川崎和男展


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「専守防衛が鉄則ゆえに護身効果大の手法あり」


   


     8月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

大学一年生の夏休みは、「運転免許」を獲得する季節です。
今では、自動車教習所は高度で高質な教育サービス業になっています。
しかし、40年ほど前は、全くサービス業という自覚も無く、
教官と称する人は柄が悪く品性無き集団でした。
もちろん、制服すら無くて車種もタクシーの払い下げが横行していました。
一部の教官は言葉づかいも荒く、怒鳴るような命令、
人格否定とも思える非難中傷が指導行為風でした。
ようやく路上教習ゆえ仮免にも関わらず、
「なんだ、その運転は、」
「頭の悪い大学に行ってるのか、」
「俺の採点だと不合格だ、」
ステテコに腹巻き、雪駄を履いて団扇パタパタ。
ダッシュボードに裸足で両足を乗せて、教習所車庫入れとなりました。
瞬間、スピードを上げて急ブレーキ!、
教官は、両足をダッシュボードに乗せたまま、
フロントガラスに頭をぶつけて思い切り前のめり、
「てめー、やりやがったなー、車を降りろ」
学生の胸元を締め上げてきました。
間髪を入れず、逆手で片腕関節を真下に下ろせば、地面に腹這い落下。
立ち上がると、五本の指先が目元をつゆ払いです。
涙を流して、身を寄せてくると柔らかな回し蹴りが首後を直撃。
教官は大声で仲間を呼ぶだけ。
教官仲間に羽交い締めのまま校長室に連行でした。
地方警察の警視クラスが天下り校長、
学生は警官の息子ゆえ身元はすぐわかり、その父に電話連絡。
決着は「即退学」決定でした。
(仮免なのに、免許取れない夏休みになってしまうとは)
残念感だけがいっぱい。
帰宅すると、その母は、
「良かった、良かった、
お父さんが警察退職までは
運転して欲しくなかったから、よくやったわね。」
父は夕食時に、
「何手で、攻撃はされなかったのか」ときかれました。
「五手で身を守れました。白蓮拳の型通りでした」
「そうか、じゃ、相手は怪我無しで痛みは明日はとれてるな」
「はい、多分」
結局、彼は「正拳士」まで少林寺拳法をマスターしました。
ところが、交通事故被災で車椅子。
にもかかわらず、少林寺拳法の月刊誌に登場掲載されました。
「専守防衛でも、防護技あれば、攻撃効果は絶対に相手を戦闘不能」。
わが国は専守防衛ですが、
護身技には相手を打倒では無く戦闘不可能化へという効果があるのです。


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5月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 15th, 2011  Posted 10:00 AM

5月15日 仏滅(庚午)

悲しみは、
人間の歴史が最も解決できないままに
抱き続けてきた奈辺の感情、
野生ともいえる心中の痛みなのだろう。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 14th, 2011  Posted 10:00 AM

5月14日 先負(己巳)

もし、
鬱積した悲しみが
やがてその痛みから解放されるとするなら、

それは、
どこかで解放される思い出として
哀惜となってくれるまでの
時間だけが必要なのかもしれない。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 13th, 2011  Posted 7:38 PM

5月13日 友引(戊辰)

哀しみは、
痛みよりは、哀惜といういとしさが宿っている。

だから、
痛みでいっぱいになっている悲しみとは
まったく異なっている。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 12th, 2011  Posted 11:50 PM

5月12日 丁卯(先勝)

悲しさと哀しさは、
その内実がまったく異なっている。

悲しさは、出口が見つからない
積もりつもった痛みである。

哀しみは、いっぱいに籠っている
哀れみである。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 3rd, 2011  Posted 11:48 PM

5月3日 仏滅(戊午)

悲しみとは、
解放されることのない痛みである。
心中にたまりきった思いが
出口を求めて押し出ようとしている。
それが涙になる。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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「資本主義からの逃走」
 「『痛み』・・・辛いことはこの世に戻るとき」
  


   


     3月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

人体・生体はポリ袋
ポリ袋に水が詰められています。
そのポリ袋など、針先で簡単に孔が開きます。
孔が開けば、水はそのポリ袋から漏れ出します。
人体というのは、70%が水です。
人体をポリ袋に喩えれば、まさにポリ袋など簡単に破れて、
水が漏れ出すように、命がなくなります。
生命というのはおそらくこのポリ袋の水が漏れ出してすぐに息絶えるという代物でしょう。
この世・あの世の狭間往来
私は3度、この世とあの世、その狭間の暗闇を往復したという個人的な現実、
他人からみれば幻想だと片付けられるでしょう。
3度の体験は、サイクルが決まっています。
まず、失神していますが、これは確実に幻想の中にいます。
動物らしき物がいたりしますが、
現実に引き戻されると、病院の天井や室内環境が見えます。
そしてまた多分失神しているのでしょうが、
闇の中に引き込まれると、遠くに光の神々しい輪が段々と近づいてきます。
そこで、気づくのです。
この道を戻ろうという意識になると、ドクターやナースが大声で呼びかけてくれます。
「眠っては駄目です」、とか・・・
「まだやり残していることあるでしょう」、・・・とか。
そしてとてもまた痛みも無くて心地よくて苦痛は快楽的な気分になります。
するとまた闇の中を・・・・・
これを何度か繰り返して、明らかに現実を体感すると、
まず、強烈な寒気で体が震え出し、次に吐き気、そしてまた高熱で失神です。
この繰り返しが、短くて1週間、長いと2週間です。
この世は辛いという現実
はっきりと言えることは、「この世」に戻るときの苦痛を超えた「辛さ」です。
つまり、「この世」に存在するためには「辛い」コトだらけです。
「あの世」へのプロセスは、光の輪に吸い込まれていく快楽が在るということは確かです。
「かけがえのない大切さ」=『痛み』
現実は辛いことがいっぱいだということを識れば、
『痛み』こそ、自分だけの辛さの確認=現実的な自分存在の確認だということです。
『痛み』を識る、自分の痛みも他人の痛みも「かけがえのない大切さ」、
これがアイデンティフィケーション、哲学者・中村雄二郎先生の定義は、
私自身の「生と死」への往来で納得していることです。


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1月9日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 9th, 2010  Posted 6:00 AM

1月9日 大安(己未)

瞳に針を突き通す。

想像しただけで、目の奥まで
衝撃的な痛みが走るような気がする。
春琴抄の話ではない。

民とは目に針を通された盲目の人である。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


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