kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘無神論’


『もはや宗教を文化とみる世界の歴史観を遡及』


   


     12月 13th, 2017  Posted 12:20 AM

「宗教は文化では無い」という見解が必要になってきています。
宗教は「人間が生きてその系譜に感謝を捧げること」が基本であったはず。
ハダム・シャリーム:神殿の丘、そこに分断されている「壁」には、
ユダヤ・イスラム・カソリックという三つの宗教は、
聖地の主権、礼拝権はすべてこれら宗教の利害や経済関係となり、
宗教対立は民族対立を生んでいます。
宗教は宗教哲学として、私には仏教が日本人として生活にありました。
そして、米国で私自身が仕事をするとなったときには、
原始キリスト教・旧約・新約から、カソリックとプロテスタントを学習。
いわゆるキリスト教と仏教とは比較検討の知識化、
そこから改めて新興宗教もみてきました。
そして、ユダヤ教、イスラム教にいわば宗教哲学でなければ、
私には生活との一体感は全く不明でした。
正直、イスラム圏は分かりません。
イスラム教での教義からのテロにはいわば、
危機管理=リスクデザインとしても日本では不可能が結論です。
おそらく、私の予想では、欧州もイスラム教に支配されるでしょう。
だから、G7、G8にしてもこれらはキリスト教支配下であり、
日本の仏教思想のまともな宗教論理は外れています。
聖地を分断する「壁」はセーフティ・ウォールと呼ぶことすら、
私は宗教の大きな問題が世界観の文化では無いと思っています。
キリスト教の分断は英語が分断されて、イスラム教内での分断は、
より大きな力になって欧州はやがてこの宗教に支配されるかも知れません。
それこそ、歴史は戦争の系譜でしかなく、その裏側には宗教、
特にキリスト教が根付いていたことは否めません。
そのキリスト教の歴史も簡潔にまとめてしまえば、
差別と信仰感を支配してきた系譜になるだけです。
よって、宗教での倫理性などは無神論とせざるをえなかった哲学が存在。
結局は、「生きる」ことと「死んで逝くこと」を宗教支配での差別闘争、
これをもっても宗教は文化とは言えないと判断すべきでしょう。
今、世界は宗教分離は信仰差別が闘争となってしまったと言えるでしょう。
私は改めて仏教も根柢で見直して、民族思想の文化=美と義と善を、
デザイン思想に取り込み直すべきと考えています。
宗教の「壁」はデザインにとってもアポリアだと考えざるをえません。

* 『2017アライアンスフォーラムに今年も出席』
* 「Made in Japanの復権は、売国奴たちの追放である」
* 『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』
* 『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』
* 「これが最悪か!・・・宗教戦争、語るべきか」


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3月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

3月7日 辛巳(仏滅)

現代人の知性は
明確な定義を明らかにしている。
それはニーチェの無神論などが誘因?
かもしれません。

「宗教」がすでに知性からは
離脱すべき学術です。
宗教哲学、
あるいは
哲学としての宗教が歴然としてきました。

宗教はすでに洗脳術でしかありません。

川崎和男「喧嘩道」


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11月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

11月19日 甲午(大安)

私は、私なりに宗教は、
学問、あるいは哲学の対象でしかなかった。
理由は明快である。

多くの哲学者は、
宗教への全幅的な信頼を元にしたか、
あるいは無神論を確信したか、
そのいづれかである。

私は、宗教はひとつの熟考対象であって、
決してそれが信頼にも確信にも至らないと
考えている。

元来、思想や熟考は哲学であり、
それは宗教とは隔絶されていることが科学だと
思っている。

川崎和男「強い人間 弱い人間」


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『ロボット学者第一人者・森政弘先生の講義 その2』


   


     7月 27th, 2014  Posted 12:17 AM

森先生自作の講義演出用の回路模型は二つあり、
その一つは、シャープペンシルの芯に電流が流れて煌めきました。
聴衆からは会場が光輝きを見て、全ての人たちは感動しました。
とても繊細なワーキングモデルだけに、
先生が怪我をされないようにとみんなが思っていた雰囲気でした。
そして、私にとっても強烈な「臨済録」の一節が提示されました。
・・・仏に逢えば仏を殺し
・・・父母に逢えば父母を殺し
・・・祖師に逢えば祖師を殺し
この講義で私はこれまでの大疑問が理会に達するのでは・・・
そのシャープペンシルの芯が光輝くのを見て、
先生に質問をしました。
その芯が燃えて光輝く一瞬が「生きていることですか?」と。
先生は、そのシャープペンシルが燃え尽きて、芯がより細くなり、
そして折れる実物を私に見せていただき、
「違うよ、光輝いて燃え尽いているここも人生なんだよ」。
私は、3度も冥府への道に行ったことを話しました。
最初は、交通被災で、もし放置しておいても体力があれば、
手術をということで、真っ暗闇の道に佇んだことがあります。
2度目は、草月会館で講演をして会場が真っ暗になり、
講演終了ですぐに羽田から小松空港、そしてそのまま入院、
やはり冥府らしき真っ暗闇にいました。
3度目は、「重篤ゆえ」という敗血症・多臓器不全死直前でした。
祖父が私の作品集を持って、「もう来てもいいだろう」、
「まだですよ」と母の声を聞いて現世に戻る苦しみを受けました。
だから、無神論を最近は確信していたのですが、
もし、仏に逢えば仏を殺し・・とは妄想と対峙することでした。
そんな話を先生に質問に交えて先生の講義を聴きました。
二元性一原論が語られて、先生は言われました。
「最近のモノは全く壊れないモノばかりになり、
壊れるモノを技術者はつくってならない風潮です。
モノは頑丈で壊れないから、今度は、
人間が壊れる存在になってしまいましたね」。
この講義の核心が今も鋭く私に突き刺さったままです。


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