kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘感性’


「『ち』は知の草書体になった理由に神髄がある」


   


     9月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

私は海外では必ず日本語のことばにこだわります。
特に、「ち」です。
血・地・稚・値・置・治・千・致・智・恥・・・・、
と限り無く、言葉=漢字とその意味の多用性に大きな意味があり、
「ち」は草書体での「知」に他なりません。
人体はとち・つち・まちにあり、血が知から智にまで至ります。
こころは、から=空であり、ところは=所であり、ちから=力。
なるほど、こころ+ち=心地を形成しています。
私が、3.11の復興計画=までいProjectも、
とち+つちに重きを成し、よって、まちの居心地をデザインです。
こころ+ちからも、結局は「空」の世界であり、
天地は乾坤を無し、
それに、人間は血から知への人生を持つのでしょう。
「空」と「知」こそ、力なのかも知れません。
その力の限りに智が宿るのかもしれません。
私は、かたち・きもち・いのちを、つちととちとまちに求めます。
かたちが創り上げるのはここちになることも純粋理解可能です。
私は「かたち」を生涯の目標にしてきました。
40余年やりつづけてきて、辿り付いたら、結局、心地・良さ。
心地良さをきもちに入れて、3度、いのちの端に佇みました。
そして、かたちを身体=血は、
いのちのきもちに「知」がありました。
「芸術の知性と科学の感性」ある人物を敬愛します。
それこそ、いのち・きもち・かたちからここちを教示するのです。
したがって、まち・とち・つちに人は帰るのでしょう。
だからこそ、失われた、痛みきったつちに新たな心地を設計です。
私の「ち」は、限り無く「智」を求める「知」だと思います。


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「ケトル・デザインへの好みの集中が不景気感になっている」


   


     9月 1st, 2013  Posted 12:00 AM

ダンスクは北欧モダンデザインの著名ブランドです。
私が30代でこの最先鋭モダンデザインをNewYorkで体験。
このデザインスタジオですべてのデザインプロセスを
デザイナーから説明を受け、しかもMoMA収蔵決定を実体験しました。
ダンスクというのは「デンマーク風」という意味ですが、
デンマークは日常がまさにモダンデザインという感覚の日常であり、
このケトルはデザイン時間が5年も発想から製造にかけ、
その理念で完成と同時に、MoMAから即永久収蔵(左)されました。
当時の私はまだMoMAには注目もされずにいましたから、
このプロセスに度肝を抜かれて、「デザイン美」を体感しました。
それは日本のデザイン事情を本当に悲しんだ瞬間でした。
彼はNew Yorkのダンスクショールームデザインも手掛けていて、
それも私のデザイン経験では、まともに「デザイン美」を知りました。
まるでその気配から包まれてきましたが、あれから30年間、
私の傍らにあるケトルを、日本では全く見かけません。
中央のケトル風など、私は欲しいとも思いません。
しかし現代日本の感性は全くセンス無き、
この中央のケトルに市場経済性が成立している有様です。
日本のデザイン、その特殊事情はもはやローカルなデザイン趣味。
おそらく、このセンスでは、現代MoMAのケトル(右)への
日本人の感性やセンスが景気に反映などは無いのです。
この感覚が「日本の景気」=不景気感や安物への嗜好性です。
景気感とセンスの大問題が、
正直、現代ファッションに反映しています。
日本の企業がグローバルを大賛同しているセンスはこの程度です。
だから、日本の企業が、
グローバルに本当に貧しい国になり果てているのです。
日本の経営者、そのファッションを見れば一目瞭然です。
おそらくあのダンスクは、中央の商品しか日本に売っていません。
私は、ファッションとデザインの関係を語る時に、
現在のダンスク商品と日本人の日常生活を比べれば、
どれほど、現代日本が「デザインの美」に無知になっているかを、
私は確認することができるのです。


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「マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン」


   


     8月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

自分のデザインは問題解決での最適解のはずですが、
現代の情報社会の中での自問自答をいつもしています。
・マスク=覆面だろうか、
・ペルソナ=個性表現だろか、
・マスカレード=仮面舞踏会だろうか、
このような問いかけをいつもしている自分がいます。
理由は、自分自身へ自分だけの「問い詰め」を試みたいからです。
私には、確実な自分のデザインに対する自負心と羞恥心も、
ほとんど混在したままにしておきたいと思ってきました。
確かに何かを隠そうとしている自分=マスクの時もあれば、
明らかに自分個性=パーソナリティを表現=ペルソナ時もあり、
まさにどこかでこの時代に、
「ごとくありたい」=仮面舞踏会に参加気分もあるわけです。
結局、真実にデザインを問題と対峙させたときには、
覆面の中に自分を追い込み、
個性を隠そうとする自分が明らかに、
宗教儀式じみた科学への感性と芸術への知性を確認していることも
絶対に私にはある、あるはず、と言い聞かせています。
そして、私自身を追い込んでいくのは「行学の士」になりたい、
それだけを目指して車倚子生活ゆえに地球は二度目の生命です。
絶対に負けられないこと、
それは欧米の先進国家以上に芸術の知性と科学の感性を
次世代のデザイナーに、私の体験の全てを残したいのです。
ともかく、「私はデザイナー」という軽薄さは全否定です。
デザインは崇高で有り知性と感性で「美」だけを信じてきました。
特に、最近はもう残された自分の時間を思うと、
絶対に許せない輩には、全身全霊で闘争をする覚悟です。
とりわけ、この「国難」を3.11に受けて以来、
前政権の知性も感性も皆無だった知能に呆れてきましたから、
絶対に逃走はしません。闘争あるのみです。
マスクを被り、ペルソナを秘め、そしてマスカレードでも、
私は嫌な奴には立ち向かいます。


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6月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 22nd, 2013  Posted 9:30 AM

6月22日 己未(赤口)

そして、今、
明確にわかったのは、
コンピューターを使った場合でも、
色を決定するにあたっては、
自分の感性・感覚でしか決められないということだ。

『デザインは言語道断』界面


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6月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 21st, 2013  Posted 9:30 AM

6月21日 戊午(大安)

そして、今、
明確にわかったのは、
コンピューターを使った場合でも、
色を決定するにあたっては、
自分の感性・感覚でしか決められないということだ。

『デザインは言語道断』界面


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6月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 20th, 2013  Posted 9:30 AM

6月20日 丁巳(仏滅)

そして、今、
明確にわかったのは、
コンピューターを使った場合でも、
色を決定するにあたっては、
自分の感性・感覚でしか決められないということだ。

『デザインは言語道断』界面


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6月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 11th, 2013  Posted 12:42 PM

6月11日 戊申(先勝)

「美しいデザインがデザインの本質である」
ということは白明のことだ。

『デザインの極道論』うつくしい


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6月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 10th, 2013  Posted 12:41 PM

6月10日 丁未(赤口)

「美しいデザインがデザインの本質である」
ということは白明のことだ。

『デザインの極道論』うつくしい


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「この画家をもっと知らせたい」


   


     6月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

多分、私はこのままだとこの画家のことを書いていくだろう。
ニコラ・ド・スタールの人物ゆえに、彼の作品のことです。
忘れたように引っ張り出しますが、
有名になる直前に自死を選んだ性格が見いだしたことです。
彼は何を、見たのでしょうか?
観てしまったのでしょうか?
このことに惹かれる生涯を選んだということかも知れません。
もちろん、私の「プラトンのオルゴール」作品の一つです。
ビートルズの曲は「JULIA」です。
5年ぶりに前回パリに行ったときも彼の作品集を探し求めました。
私は、画家という職能とその作品を、
なぜ、人間は知性と感性の最高感覚として、
知性が選ぶ才能として、絶対に受け止めない人物は貧しいのです。
しかし、最近では、
「デザイン」は、あたかも知性ある人間として、
安易にその指導者ぶりや商業を押し隠している人物を多数、
私は知り尽くしてきました。
アートではないけれど、これがデザインだという、
最も貧弱な知性ぶった人間を蔑んでいます。
高校時代だったら殴っていたでしょう。
それ以上の価値などはありませんから、
命を奪うことはありません。そんな価値も当然無いからです。
先般、現政権の「COOL JAPAN」が海外で受け止められている、
その商業主義の浅はかさを聞かされました。
デザインの職能団体が、
時代と共に衰退していく事を目の当たりにしました。
つまらないイベントに、日常から逃げ出している輩を見ました。
これが「人間界」だというなら、
生涯にその最も汚濁した部位を表現の一つにすること、
それは画家という職能の最大重要点だと断言しておきます。
なぜ、JULIAという音楽が彼の作品と同調するのでしょうか?
なぜ、彼の作品は、最期には色彩が無彩色=まるで墨絵、
白と黒の絵画世界観に達していくのでしょうか?
私は生涯、この気持ちを下敷きにして、
自分のデザインを、日常の汚濁には決して配置しないと思います。
彼の最期の作品(左)は私のPCの壁紙にしています。


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「3Dプリンターの素材と成型精度」


   


     4月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システム、私は17年携わってきて、
最初は紫外線レーザーが半導体レーザーに変わりました。
そして、エポキシ系樹脂も、
最初の湿度管理と装置からとても簡便になりました。
素材も、特に医療系は光造形データはシリコン系でも、
ほとんど内臓器官同様の柔らかさで「手術前シュミレーション」にまで、
使えるようになりました。
そして、今、阪大ではデザインのモックアップと
医療関連のスキャナデータを再現するのに使っています。
最大の問題は「造形サポート」設計がデメリットでした。
ところが、3Dプリンターでは、
2000分の1まで回路造形では可能になってきました。
しかし、私は「素材問題」はまだまだ開発が望まれると考えています。
チタンとカーボンもありますが、
カーボンは粉末ではなくて、やはりテキスタイルとしての繊維状成型です。
とりあえず、画像表現されている素材毎の成型は可能になっています。
しかし、私はこの素材提案には新たな感性が必要だと思っています。
何が3Dプリンターの素材かというと、
これまでの素材開発メーカーでは無理がありそうです。
現在私が必要と考えている素材は●●●です。
これは提案されてから具体的な応用範囲が限られていたから無理でした。
しかし、私には目論見があります。
なんとか、素材メーカーに具体物を持ち込んで説得しなければなりません。
画像は海外で試行された素材ですが、
これらの欠点はすべてがソリッド=塊です。
これは光造形がソリッドで考えられた頃と、
同次元の発想が残存しているからです。
3Dプリンターはサポートが無いだけに、
2Dへの吹きつけそのものを変換すべきだと考えています。
ただ、大きな問題は、これからの成形物は、
なんらかの清潔感や耐菌性や耐放射能までが考慮されるべきです。
まずは、「素材、その射出形状のデザイン」が基礎になるべきでしょう。


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