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2月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 24th, 2021  Posted 12:00 AM

2月24日 先勝(癸卯)

『基層としてのデザイン』

ところが、
後天的に、
人間は想像力を摩耗し、
本来なら体験で
識別できることすら
喪失する
悲しい動物になりがちである。

artificial heart:川崎和男展


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「モノの美しさにあるバランス性が決定要因」


   


     10月 19th, 2017  Posted 12:00 AM

デザインという言葉は至極一般化しました。
デザイナーにとっては嬉しいことですが、大誤解に包まれていると思います。
デザイン賞は、モノのデザインとコトのデザインがあり、これは当然です。
しかし、日本には大物主の神子と事代主の神子とがあり、
すでにモノの美しさがコトを決定しているという伝統性があるにも関わらず、
コトのデザイン優先主義が、センスの大破壊になっているようです。
そんなことを思っていたらしばらく会っていなかった人O氏が逝かれました。
この思い出は私には大きな人生観になっています。
おそらく金沢美大出身ならば、
私たちが鍛えられたレタリング=フリーハンド・デザインストロークでは、
キャスロンとボドニー(右はヘルベチカ)を徹底的に鍛えられました。
その最大が私にはこのアルファベット「X」のサンセリフ体とセリフ体です。
実際はこのクロスする部分には視覚補正がとても厳しい評価が入ります。
それはこのクロス部分が単純なクロスどころか、
ヘアーライン補正とまで言われている繊細詳細なバランス感覚が
何度も何度も求められて身体化するまで鍛えられます。
そのおかげで、後天的な造形におけるバランス感覚が要請されるのです。
最も、自分はデザインの教育者になって、
バランス感覚はすでに先天的なことと思っています。
理由は、造形されたいわゆる造形言語となっている形が意味されている、
その内容にはバランス性は先天的であり、
それが実際にはスケッチや造形訓練で身についていくものと思っています。
身についていくコトではないのです。
それを明確に知りたいのであれば、事代主の神子との存在意義を知れば、
私は全体に理解出来ると思っています。
こうした観点から、昨今のデザイン賞判断では、
審査委員にバランス感覚が全く無い人が増えていると言っておきます。
とりわけ、バランス感覚・センス、そしてモノの美しさは、
偏差値では決定することは絶対に不可能だと思っています。
「たかだかデザインが」、とかを何度言われて来たでしょうか?
それでも私には絶対的な先天性が後天的に、
たとえば、この「X」の訓練があったということです。
コトのデザインは、モノのデザインの美しさが決定しています。

* 「ヘルベチカは文字の結論になっている」
* 「ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある」
* 『象形の姿形に潜む意味の吟味』
* 「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」
* 『工業デザイン教育での「手」のトレーニング』


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『神話性ナラシオンで富獄が語る空間・形態』


   


     10月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

富嶽三十六景の中の代表的な浮世絵=風景画、作者は葛飾北斎です。
富士山にまつわる物語、
あるいは神話ともいえるナラシオンは識るべきでしょう。
私にとっては日本を代表する山は白山です。
だから富士山より白山なのですが、こんな話を聞いて愕然としました。
富士山と白山が喧嘩をしたのです。
だから、富獄=富士山・不死山が似合っています。
ともかく、どちらの山が高いかということで、
竹で雨樋を作って、水を流したら富士山から白山に流れたのです。
子ども心に富士山が嫌いになりました。
そして左は黄金比では必ず実証される構図です。
つまり、空間論の下敷きになる美しさがあるのです。
そして右はexponential curveそのままの形態論になっています。
まだ日本に透視図が浮世絵の構図ではないのに、
なぜ、北斎は知り尽くしていたのだろう天才であったという実証構図です。
そして、ほとんど日本人には識られていない、アルゴナウタイなのです。
アルゴナウタイというギリシア神話叙事詩でのメディアと同様の神話が、
この富獄の神話=かぐや姫・竹取物語と同じなことを、
私はメディア論:かぐや姫とメディーサ同一で追い求めたことがあります。
これは語り切れないほどのアルゴナウタイと富獄神話が同一であるから、
exponential curve=eXの解釈ができるとさえ思っています。
つまり、黄金比・exponentという構図は空間論と形態論で、
美しさを生み出しているのですが、
私の判断では、歌川広重の広重ブルーは北斎を超えていると思っています。
浮世絵にまつわるナラシオンは、広重も北斎も美しさの基本にあるのです。
結局、美学では語り切れない物語性が北斎にも広重にも見事なわけです。
したがって、デザインでの美しさには
明確な背景としてのナラシオンは必要条件なのです。
もっと断言すれば、ブランド価値や商品デザインでの美しさには
絶対的に神話的にもなりうるナラシオンが必須だということです。
デザイナーにとっての悟識=カント的にはその素養は浮世絵からも
後天的に確実に学べるということです。

* 『広報誌がまだジャーナリズムである』
* 『「形態学序説」からのデザイン原論思考が必要』
* 「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」
* 『吟遊詩人の的確な叙事詩はロックにまで至った』
* 『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


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『浮世絵を日常化すれば北斎知識から解放できる』


   


     10月 13th, 2017  Posted 12:30 PM

美しさを識ることと知ることには違いがあります。
知ることは先天性によってある種の宿命性があります。
後天的には識ることですから、これは認識という知識より認識です。
カントがこれを明解にしていますから運命化が可能です。。
パウル・クレーは知見であり先天的な見識がはたらいていると思っています。
手短で日本の浮世絵の理解度は、先天的には困難かもしれませんが、
浮世絵といえば、葛飾北斎がいの一番に語られます。
私はいわゆる見識があって認識にまで持ち込めるには、
和服が適切かもと先般から考えてきました。
それは東海道五十三次での物語性は歌川広重の方が明解です。
これは私が丁度30歳の時に、絵羽として歌川広重を選びました。
理由は思い出してみると、三つありました。
まず、歌川広重の版画は越前の国からの和紙であること、
絵羽としては多くが北斎を選ぶという大衆的な思い込みでは、
自分の個性が表示できないと思ったことでした。
さらに、この東海道五十三次には東海度膝栗毛での野次喜多道中との
ナラシオン性が入っていたことでした。
無論、葛飾北斎のなぜ彼は識っていたのかという黄金比・黄金律が
見事なことは知っていましたからこそ
和服と自分の関係を見直していたことです。
今では和服には茶道や華道のごとく、着づらい道理がかなりあります。
したがって、誰もが洋服の着やすさをルール化して、
着物の普及を目指していますが、私はこのブームは容認できません。
理由は、着やすさなどは伝統的に保守するには単純だと思うのです。
大学時代にはあえてネクタイをして大学に行き、
教授に怒鳴られたこともしばしばでしたが、
ネクタイは日本人が大学生でも遅いのです。
最近は市立学校のユニフォームでネクタイを見かけますが、
学校でしっかりと教えていないようです。
私が和服と書は絶対に小学時代にマスターすべきというのは、
この知識・見識・認識をモノ=和服・書という決して「道」とはしないこと。
これはカントの悟識に連鎖しているのです。
浮世絵のナラシオンは知ることから識ることまでの悟性を鍛えるでしょう。

* 『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
* 「加飾すること=ファッションスタイルは最初提示の効能」
* 『手稿は宝物である』
* 『「黄金比の計算機」アプリのグレードアップの意義』
* 「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


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『デザインでデザイナーが美しさをどう創るか』


   


     10月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

デザイナーにとって、私は最も難しい質問は「美しい」ってどういうこと?
この質問に一言で、体系的に、経験的に、学術的になど、
応答・回答・解答出来るかは本当に難しいと思います。
そして「美しさ」は美学という学術的な領域がその答を出しています。
それは音楽と美術が中核だったことは間違いありません。
私自身、「美しいってどういうこと?」という質問は、
福井伝統工芸産地、越前和紙に創ったオータキペーパーランドからでした。
思わず身構えましたしどう答えるべきか随分と逡巡した思い出があります。
私はまず、先天的に答えることができますが、
これをあたかも美学的に体系までは困難です。
そして後天的には、知識と経験で知見化することが可能です。
まず、美しいというのは景観での気分や気持ちよさでの一言です。
本当に気持ちいいほど空が青いとか、
夕焼けが綺麗という単純な景色感覚への評価です。
空・海・山の景観や景色が挙げられます。
これが先天的での景観評価が素直さでの感覚=センスだと思っています。
かって名古屋大学での講義で、自分が美しいものを上げてレポートを、
こんなカリキュラムを数年やったことがあります。
工学部相手でした。そうしたらなんと三分の一の学生が数学の美しさを
徹底的に分解してきたレポートには感動しました。
私はデザイナーとして、体系的には、二つあります。
その一つはパウル・クレーの「造形思考」でした。
もう一つはカントの代表作である「純粋理性批判」での
真善美と感性・悟性・理性での美の解釈です。
東芝時代はモーツアルトのピアノ協奏曲のスコアとその旋律再生音。
このマッチング性に美しさがありました。
登山懸命だった大学時代は山岳と空・夜空が私の美しさの根源でした。
今は自宅から望める夕方の夕闇の変化を眺めて、
自分デザインの美しさを綺麗さからも求め直します。
美術的や音楽的を離れた時には、デザインでの美しさは、
今ではかなりの制約が乗りかかってきています。
たとえば、PL法違反などは、現代的には当然であり、
重量なども、万一、落ちてきたら危険は美しさを語る以前の問題です。
デザインでの美しさは追い求める義務がデザイナーには不可分です。

* 『家具デザインの「家具」定義を変えるべきだ』
* 「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
* 「若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認」
* 『ポケットブックになる「造形思考」が出版』
* 『月明かりの前の沈まない大阪、それは日本』


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10月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 10th, 2017  Posted 12:00 AM

10月10日 仏滅(庚午)

美しさを知る
それは先天的に
あるいは
後天的にという
この二つがある。

川崎和男の発想表現手法


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07月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

07月12日 大安(庚子)

先天的には
3D認識=フォトメモリアル、
この能力があるのは
決まっているが、
後天的にはデッサンしか無い。

川崎和男の発想表現手法


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07月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

07月11日 仏滅(己亥)

想像力には
平面認識力と立体認識力、
これらの先天的、
そして後天的な
訓練が必要だと考える。

川崎和男の発想表現手法


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02月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 27th, 2017  Posted 12:20 AM

02月27日 先負(乙酉)

想像力は能力である。
能力ゆえに、
先天的と後天的があるはずだ。
しかし、
後天的というのは、
私はあり得ないと思う。

川崎和男の発想表現手法


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02月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 17th, 2017  Posted 12:00 AM

02月17日 先負(乙亥)

「感覚」と「感性」には
文字通りの差異があります。
「感性」とは先天的に
感覚判断をしますが、
その「感覚」は、
後天的にも身体化できるのです。

川崎和男の発想表現手法


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