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Posts Tagged ‘宗教的’


10月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 22nd, 2018  Posted 12:00 AM

10月22日 仏滅(丁亥)

一番大事なのは、
「プレゼンテーションツールに
とらわれるな!」
ということである。
ツールに振り回され、
そのツールに使われるような発表者に
なってはいけない。
だから
「ツールの使いこなしテクニック」
などを信用しない。
それはある意味では、
宗教的な方策だと思う。

『プレゼンテーションの極意』プレゼンテーションツールにとらわれるな


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09月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 22nd, 2018  Posted 12:00 AM

09月22日 友引(丁巳)

ツールに振り回され、
そのツールに使われるような
発表者になってはいけない。

だから、
「 ツールの使いこなしテクニック 」
などを信用しない。
それはある意味では、
宗教的な方策だと思う。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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09月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 21st, 2018  Posted 12:00 AM

09月21日 先勝(丙辰)

ツールに振り回され、
そのツールに使われるような
発表者になってはいけない。

だから、
「 ツールの使いこなしテクニック 」
などを信用しない。
それはある意味では、
宗教的な方策だと思う。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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02月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 11th, 2018  Posted 12:00 AM

02月11日 先勝(甲戌)

一番大事なのは、
「プレゼンテーションツールに
とらわれるな!」
ということである。
ツールに振り回され、
そのツールに使われるような発表者に
なってはいけない。
だから
「ツールの使いこなしテクニック」
などを信用しない。
それはある意味では、
宗教的な方策だと思う。

『プレゼンテーションの極意』プレゼンテーションツールにとらわれるな


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9月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 13th, 2012  Posted 10:00 AM

9月13日 先負(丁丑)

ツールに振り回され、
そのツールに使われるような
発表者になってはいけない。

だから、
「 ツールの使いこなしテクニック 」
などを信用しない。
それはある意味では、
宗教的な方策だと思う。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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「わが日常の仏様と幸と合掌と」


   


     1月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

3.11以後、私は未だに解放されていません。
それは28歳で車椅子生活になってから、
無論解放されてはいないことを強めました。
朝目覚めると
車椅子に乗らないといけないことにいつも本当に嫌になります。
ここで毎日ブログを書いているのはそんな自分への内省表現でしょう。
さらにこの10ヶ月懸命に企画書に取り組み、
私を私ならしめるためには祈りが必要でした。
それでもこの「きもち」を保持し続けることの永遠さを
断ち切りたいとさえ思ってきました。
交通被災後、リハビリも終わって、
父から知人の宗教家の勧めですごい観音像が送られてきました。
即刻、そんな観音像を生活の傍らに置く気にもならず
送り返してえらく父の激怒を買いました。
しかし、人間はいづれたどり着くのかもしれません。
私がAppleのコンサルに入ったときに、
徹底して「曼荼羅」を背景にすべきと思いついたのです。
それが私の仏像興味、仏像知識へのアプローチであり、
仏像の意味やその美術的・歴史的・思想的・宗教的な
様々、広範囲な思考回路が私に取り憑いたようです。
今、生活の傍らにこの三つの仏様がいます。
そして京都に行くと必ず見に行く所があります。
そこにある仏像彫刻を欲しいとさえ思ってしまっています。
ワイフに「あれ自宅にどうか・・・ナンテ・・・」。
老人性鬱病にほとんど囚われていても、
(あれが在れば解決・・・)とすら思ってしまう次第です。
このブログのためにはいつも大慌てでブツ撮りをすませます。
今回も、申し訳なくも大急ぎでカメラに収めました。
仏像写真といえば故・土門拳の写真を思い出します。
そして、彼は仏像を凝視し続けること大変な時間を要したということです。
彼の著作には、確かこのような記述があったと思います。
出典は不明でうる覚えなので正確さはありませんが、
「仏様は、すごい勢いで駆け出す形相がある、
だからその瞬間が来るまで待たなければならない」と。
私はとてもそのような形相に出会ったことがありませんが、
ひょっとすると、
重篤状態で幾ばくかの仏像と対面していたという実感覚があります。
そして、日本おける「オイコノミア」的王座とは、
仏様それぞれの場、まさに曼荼羅に配置された場こそ、仏の座であり、
その座をイメージで捕らえられるかどうかが
日常の平穏さと日常呪縛されている状況での迷いと決断のサイクルです。
それが両手を縛られた「幸」なる象形ゆえに、
あらためて合掌=祈りによって、まず両手から解放させられるのでしょう。

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