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Posts Tagged ‘再定義’


3月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 7th, 2021  Posted 12:00 AM

3月7日 赤口(甲寅)

『黙示としてのデザイン』

すなわち、
言語機能の再定義を
包含させる人間の能力、
言い替えるなら、
知性の進化を
歴史的に見つめ直すことと
未来に向って知性を
育成させる手法の開発、
そうした意欲を
喚起させることである。

artificial heart:川崎和男展


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08月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 27th, 2017  Posted 12:00 AM

08月27日 赤口(丙戌)

機能とデザインを結びつけた 
その見識あるいは 
もはや常識 
それを壊すこと。
それが機能主義を再定義する。

川崎和男の発想表現手法


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『医工連携を看医工学ベクトルとしてさらに強化』


   


     12月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

「KK塾」で、私はコンシリエンスデザインを冒頭に紹介しています。
今回は、医工連携+デザインで看医工学がコンシリエンスデザインと
極めて密接な関係があることを語りました。
まず、ベクトルとして医学と工学を再定義しても「デザイン思考」では、
語り切ることが不可能なことを伝えました。
その最大の理由は、デザイナー的な思考方法での欠落部が多いことです。
しかも「デザイン思考」は米国からのコピーで、ブーム化しただけです。
医学と工学に、看護学と保健学が加わってこそ、
医工連携では、とても現実的な形態設計もさらに制度設計も困難です。
それこそ、コンシリエンスデザインであり、
これがデザイン思考というブームでは不完全なことをまずは二次元、
二次元ベクトルでの要素を増やすことの提唱をしました。
医学と看護学は安心を与え
医学と工学で対症治療になること、
それも対症療法という曖昧さを排除しました。
さらに、保健学が工学に与えることが安全になり、
看護学と保健学が予防になることをベクトル的に示すことで
看医工学こそ、
医工連携+デザインの真のベクトル的な論理としました。
今回の「KK塾」での私のコンシリエンスデザインこそ、
デザイン思考をブームから解放して、
これが日本からの発信になるという提言にしました。
実は問題は、この2次元上でのベクトル展開だけでは
とても語り切れるものではないことを
次回の「KK塾」につなげることをつたえました。
これは、滋賀医科大+国家プロジェクトEDGEでの基調講演を
さらに深めたものになったものと思います。
私は、2次元上での思考展開では、
いつまでもニュートン的なベクトル展開の限界があると思ってきました。
これこそこれからの実務デザインで、
その革新性につながっていくと考えています。
これはコンシリエンスデザインが
次世紀デザインの基本理念になるでしょう。
今回の「KK塾」の提唱性であり、それは前回、テクノロジストであり、
阪大招聘教授とした濱口氏への講演からのヒントへの回答でした。
しかも、
今回、東大大学院で世界最小のマイクロナノロボット開発者、
生田幸士教授に、
「ブーム」となった時点で、その思考、その行動、
その実績は終わっていると断言してもらいました。
私は、ニュートン的ベクトルでの領域学、その実力を
量子力学、すなわち3次元的アナロジー化していくことを次回示します。


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「若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認」


   


     3月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

ルーブル美術館は年間来場者数400万人と言われています。
比して、21世紀現代金沢美術館は
日本では最高200万人近くの来場者数です。
美術館としての社会的存在性を
金沢という街と相補的な関係性を保持しています。
母校の卒業制作展とともに、
「若手芸術家の発掘」企画展においても私はまた学ぶことができました。
日本生まれの英国人アーティスト
ピーター・マクドナルド「訪問者」の企画展で、
私は欲しくてたまらない彼の作品(↓)を見つけました。
彼の自由な平面構成絵画に表現された彼の「感性」です。
あらためて私は「範・感性」と言っておきます。
デザインにおいても「感性」表現、
「感性工学」が基本的学識になって久しいのですが、
私なりには一家言を持ってきました。
その一つは、デザイン教育者として、
徹底的に「感性」を哲学的知識として講義し、
デザイナーとして、自分の「感性」と対峙してきました。
特に、私の「感性」は、まず音響があり視覚的刺激があり、
生きがいの感受性の確認でした。
理性・悟性・感性を歴史的定本から学ぶとするなら、
ギリシア時代、感性を低次な認識知としていたことは、
カントの理論的集約によって理性以上に重要な大きな世界観になりました。
さらにそれはニーチェから構造主義やポストモダンまでが
その再定義や認識性を与えてくれました。
私にとって、
「感性工学」という範疇に自分のデザインは配置していません。
むしろ、直観と感性をDIVINATIONとして
デザイン対象に込めてきたと想っています。
そして、彼の作品を日常生活に置いてみたいと思うほど、
彼の感性から「範・感性」を感じ取ることができました。
少なからず、現在進行中のデザインプロジェクトには、
絶対に取り入れたと考えています。

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「サービスの原意を求めて」


   


     1月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

紀元2世紀、パル・コクバの元で使われたというコイン。
私は年末から、「サービス」の原意を求めています。
理由は、サービスは資本主義社会にて「産業化」された言葉と商業です。
私がこの原意を求めるのは、三つの理由からです。

  • 資本主義象徴である「サービス産業」の今後
  • 資本主義がもたらした様々な害悪からの逸脱法
  • 「サービス」本来の社会的効果です。

この探求には「オイコノミア」という原始基督教義が重なります。
その中で、2世紀に、キリスト教からユダヤ教を分離した一人の救世主。
それが、パル・コクバであり、彼は救世主でした。
救世主であると同時に王様でもあったわけです。
そこから、王座に座るべき者の「権力」と「権威」が定義されます。
「オイコノミア」とは「エコノミー」と同義です。
そしてオイコノミアはすでに神学的対象になっていますが、
確実に、この教義あるいは論理に始めて
「サービス」という言葉が出てきます。
私は、この言葉を再検証から再定義が、
現代の資本主義の歪みを是正できるのかどうかがとても気がかりです。
それは、資本主義での産業には、「情報産業」と「サービス産業」があり、
当然、この「情報サービス」と「サービス情報」が
資本主義を再構成あるいは資本主義からの解放を発見したいのです。
この正月にぎりぎり
「オイコノミア」を読解してしまいたいと考えています。
これから、その検証結果をここでメモを報告していくつもりです。
なぜならこの国難の日本は
改めて資本主義社会から逸脱することが大事だと直感しています。


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『資本主義からの逃走』
    「情報空間の再定義と新定義をはじめたい」


   


     10月 18th, 2010  Posted 12:54 AM

情報化革命・情報革命
20世紀は、大変な時代だったと思います。
二度の世界大戦後は、大きな反省もしましたが、
今度は資本主義と社会主義の対決、冷戦が世界を覆いました。
ようやく、この冷戦も終わったかと思ったら、民族闘争、宗教対決が始まりました。
この背景に加えて、環境破壊が進行し、地球上の人類その存続すら危ぶんでいます。
そのようなことをひきずりながら経済体制での大きな転換が起こっています。
私たちは、20世紀直前に、大きな技術革命に巻き込まれました。
コンピューター・パソコン・ネットワーク・インターネット・ユビキタスなど、
冠詞化されたり、述語化される革命に直面している日常空間の中に生きています。
私たち日本では、それを「情報化革命・情報革命」と認識してきました。
情報空間という呼称
私は、こうした革命の環境を「情報空間」と呼んでいます。
それは、「何が情報で、情報が何で、そうして日常性に大きく関わってくる情報環境の空間」、
そんな意味を私は含ませたいと考えるからです。
「情報空間」とひとまず呼称すれば、
現実の日常性から、将来への理想的な夢や希望の空間を創り出せるかもと自分に期待するのです。
「情報空間」は、自分に限らずもちろん、人間、人類、世界を包含する空間になると考えます。
そこで、あらためて「情報空間」を詳細に分別したり、熟考していくことで、
この空間での情報をもう一度検分することがデザイナーの職能義務だとさえ思います。
再定義と新定義への衝動
つまり、「情報空間」そのものを進歩させ、この空間と人間・自然・人工物、
さらには、過去=歴史から、未来づくりの基本を見つけ出したいと願うからです。
たとえば、敗戦後、日本の情報空間がどのように形成され、
現実、どんな問題を抱え込んでいるのかも再確認しなければならないという衝動があります。
この衝動は、日増しに拡大しています。
だから、なんとか、「情報空間」の再定義を試みて、さらに新定義を見つけ出すことが、
問題解決かもしれないというイメージが衝動とも同居しているからです。


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『資本主義からの逃走』
「情報がプライバシーの決定因子になってきた文脈」


   


     5月 28th, 2010  Posted 2:44 AM

Privacy
プライバシーとは、私事、個人唯一性の確認だと考えます。
そして、この言葉ほど意味が拡大というよりも膨張してきた言葉はないかもしれません。
最も原初的な意味は、単純明快でした。
「他人から観察されない私事、私的性の唯一さ、その確認」。
ところが、20世紀後半からは、
意味が拡張というよりは膨らんできます。
「私的であること」が、他人から何ら操作されない権利性に関わってくるのです。
それは秘密とは私事的なことだという定義まで生まれてきた文脈です。

観察されないこと
他人から観察されない状況とは、私的性の確実な確認を、
無比に他人からの観察・干渉・操作から保護されていることになっているということです。
私的である私事には「権利」が保全されているべきだという、
「自由性」が社会的制度からも犯されないことにまで拡大と膨張をしてきたのです。
さらに、その自由性に、「情報」という観念と概念が含蓄されてきます。
「情報」が私事や私的であるということの法的ルールが、
あくまでも「自由であるべき」という基盤上にしか存在しない。
絶対に社会管理されてはならないということにまでなっていきます。
プライバシーが、私事であって、私事からの情報発信性と情報受信性に、
「自由権利」が当然でなければならないということです。
つまり、「情報」を「発信」する自由には、全く義務からの解放が容認されてくるのです。
この開放性は、三つ掲げておくことができます。

■ どのような義務も無く、権利を保全することこそ、
 「自由」を再定義しているという認識の共有化です。

■ この共有化には、「個人性」それぞれの私事が
 秘密化されることも容認していることです。

■ 「自由」は権利であって、
 どのような義務にも拘束されていない、
 義務性には立ち入らないということになります。

以上からは、
「自由」・「権利と義務」・「情報」の組み合わせを私事上に成立させようとするとき、
いわゆる「プライバシーの侵害と保護」の対立性が起こるということは想像できました。
これは私事や個人情報、個人にのみ従属と備蓄されているコトがあるのです。
個人が発信した情報には、
その個人のみが操作し判断できる権利を互いに認め合うことでしか社会は成立しない、
そんな結論を鵜呑みしているのかもしれません。
これは個人的な世界観や個人的な思想を、
お互いに「敬意と敬愛」しかありえないということになります。
したがって、秘密・隠匿・隠避する権利をも容認することが、
「民主的」だという共有感覚です。
私はこれには正直、懐疑的だと告白しておきます。
この「私事権利」に「義務設定」を解放、
あるいは皆無化させることで、
公的と私的との距離感覚、その麻痺が始まっていることは否めません。
結局、情報の発信性と受信性にプライバシーの意味が決定づけられていることは、
再確認と再容認、そして再共有の因子がある、
この想像力は保守しておかなければならないでしょう。


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12月2日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 2nd, 2009  Posted 11:00 AM

12月2日 先勝(辛巳)

情報の場は、情場ではなく、
「劇場」ということばなのかもしれない。
新たな「劇場」という再定義が
必要だと感じている。

『プラトンのオルゴール』
街角のエコロジー


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