kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘光陰’


『光陰へはただ祈るだけだと思い想っています』


   


     5月 27th, 2017  Posted 12:00 AM

「光陰矢のごとし」というレトリックがあります。
かつては時間の過ぎ去る早さだと思っていましたが、
60代になると知人・友人、その周囲の人が、
突然、逝ってしまう事が増えました。
その度に「会えなくなる」という無念さで胸がつまります。
「長友啓典」氏といえば、デザイン界、
それもイラストレータの大御所です。
いつかは逢えるはず、と思っていました。
インテリアデザイナーの森田恭通氏の紹介で彼の主宰する雑誌で対談し、
その後の食事でもう親友のごとく大仲良しになり、
次回会えることを心待ちにしていました。
ところが突然逝ってしまいました。
今年は、後輩、インテリアデザイナーの大御所、
デザイン界で最も大事な社長、仲間の母上は高齢でしたが、
彼にとっては母ですからその空しさを語りあい、
さらにはエッ!、教え子のこれからの娘さんの事故死と、
人生という光陰の瞬間性を思い知らされています。
あるクレジット会社の広報誌に、
作家である伊集院静氏のエッセイには、
彼の挿絵:イラストレーション最後の作品、
そして伊集院氏の彼への思い、
その文章には、もう本当に、逝ってしまった人たちへの想い、
それを引き出されて泣きました。
逝ってしまった人への思いは心の中にしまい込んでいただけでした。
「もう、逢えない」という悲しさと哀しさで、
まさに光陰、陽明と陰影が、襲いかかってくるのです。
長友氏とは、たった一回しか逢っていないのですが、
FBメールでは心割ってやりとりができました。
いわゆる「あの世」への思いと想いは祈ることだけです。
でも、自分の人生に光陰を与えてくれた人へ、、
あらためて私は祈るだけです。

* 「光陰の下で佇む姿勢」
* 『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』
* 『インテリアデザインからの拡大・森田恭通のパリ個展』
* 「人は『闇』に生きていく」
* 『羊と鋼が調律の要だった、それを実証した友人』


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12月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

12月19日 甲子(先勝)

人は光陰のごとき日々にある。
それだからこそ、
私は「矢のごとき」にならずいたい
それは職能での
懸命さと賢明さだと思っている。

川崎和男「強い人間弱い人間」


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「光陰の下で佇む姿勢」


   


     7月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本は哀しみの中。
この国難の中で、
哀しみは次々と巡っています。
3.11、あの日のことを
私たちは決して忘れることはないでしょう。
しかも、台風も巨大であり、
自然の猛威に私たちは晒されています。
だからこそ、もう一度佇んで観なければいけないのでしょう。
「考」という文字が教えてくれています。
この漢字の源は「老」です。
老人=白髪で腰が曲がった形象を示しています。
そして、この老人が杖をついて佇んでいる形象が「考」になります。
つまり、考えるというのは、
老人のごとく、経験から知恵を紡ぎ出す行為ということになります。
私は、「考える」ときには、まず経験がベースになり、
それを補完するように人間や歴史が思考してきたこと、
それが経験から「学」なり「論」なり、となっていることが基盤です。
「佇む」こと、その心の中には哀しみがいっぱいあり、
哀しみがあればあるほど見過ごしてしまうことがかえって増えます。
これは私の実体験です。
見過ごしたことは膨大です。
したがって、最も重大なことは佇んでいる姿勢が問題です。
自然の猛威は光景=光と影、まさに光陰を投げかけています。
この光陰は猛スピードであって、立っているどころか、
佇んでいる姿勢を保つことさえ出来がたいと思います。
哀しみが怒りとなれば、佇む余裕どころか攻撃姿勢となり、
喜びと楽しみは、佇むことを一時忘れてしまうものです。
私は、たとえば本当に今の時代、
光陰のごとき事象すべてを見渡して佇む必要性を感じます。
あらためて、このまま情報化の進展が「クラウドだけ」に、
エネルギーのあり方が「脱原発だけ」に、
もっと国際的な関係論が「民主主義だけ」に、
自然と技術が「調和だけ」に、などなどに想いを巡らして
「佇む」姿勢保持で光陰を受け止められるのかということでしょう。
私に突き刺さってくる「光陰の矢」はまだまだ多いようです。

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