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Posts Tagged ‘価値感覚’


『資本主義からの逃走』
    「 富、あるいは高級感をという文脈の再考」


   


     9月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

富としての高級感
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、西太平洋・トロブリアンド島民、
彼らのことを紹介しました。
それは「労働」・「仕事」の成果、その評価のことでした。
彼らなりに、富の分配方法はあるでしょう。
しかし、私たちの産業経済でひたすら「豊かになること」は「富の分配」でした。
私たちはその「富の分配」結果を熟知してしまったと考えていいでしょう。
そして、もし、富ではなくて審美性や美学となると、
もうひとつ重大な価値感覚があります。
「高級感」ということです。
日本語は、この「高級感」は、言葉もこの一つに集約していますから、
「何が高級感?」ということでは、多様な定義が可能です。
しかし、たとえば英語なら、「高級感」は様々な語彙があって、
それぞれの語彙に、それぞれの感覚に制限や限度があると思うのです。 
とりあえず、五つ挙げておきます。
   ■ High class
   ■ Deluxe
   ■ Quality
   ■ Exclusive
   ■ Expensive
さて、この五つには確かに高級であり、贅沢であり、豊かさがあります。
私は、「富」という概念には少なからず、こうした価値感が宿っています。
それは「富」が集中蓄積されたところに「程度としての高級さ」があると言ってもいいでしょう。
私たちが日常生活の基盤としてきた資本主義、それによって構造化された階級、
あるいは格差には、程度たる「高級さ」があることは否めません。
高級感と審美性
したがって、私たちが今、真に再考を求められているのは、
「高級」を加飾している審美性は確実に、資本主義が育んできた局面性だと言っていいでしょう。
実例とするなら、
「ブランド価値としての高級感」;「高級ブランドの審美性」を議題にすることができます。
そうするとこの議論はやはり「富の再分配」が、
社会主義に対して資本主義が勝っていたということなのだろうかと私は考え込んでしまうのです。
考え込みつつ、「高級」なモノのデザインも随分としてきました。
それは単純には「高級」=「高額」だっただけかもしれませんが、
そのモノにもちろん審美性を意図してきました。
いわゆる「高級」なモノにも、私のひとつの嗜好性があることも認めておきます。
私なりの納得と矛盾、そして、それでも「高級な審美性」も確実にあるわけです。
「富」・「高級感」・「審美性」は、あらためて論考されるべき大きなテーマだと思っています。
私は、おそらくマエンゲ族やトロブリアンド島民の「耕作行き届いた畑」に、
審美性を確認できる感性があるのかどうかはまったく不明であることを告白しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・1」


   


     3月 31st, 2010  Posted 1:40 AM

「物質」・「情報」・「エネルギー」
いきなりの世界観を提言します。
それは「物質」・「情報」・「エネルギー」が世界構成因です。
この明快なアイテムは今世紀と共時する私の確信です。
ようやく、私がデザイン対象とするモノをすべて、
これらのアイテムに包含しながら、
再度、「物質とは何か」という問いかけの変更を重ねました。
それは「何が、物質か?」ということへ、
デザイン対象を入れ直すということでした。
「物質」というのは、私には自然物ではなく、
人工物=モノと必ずカタカナ表記する物の性質性の存在です。
性質=物性の質(たち)という言葉の定義仮説を用います。
この仮説は、物性・対・物理の差異性と同値性・同質性です。
つまり、差異性を仮説化し、
同値性、それは「質・たち=性質」の価値感と、
同質性という「性質の機能性」という性能性です。
上記は、同値性・対・同質性ですから、
論理的には、物性学と物理学でそれらの背景を与えられます。
もっと短絡的に言い切れば、性能という具体性を、
理学的な抽象性をモデル化するということになります。
モデル化するというのは、記号的な処理=数理学に配置する、
そんな作業になるでしょう。
何が物質か?
仮説化という冒頭にもどれば、
「何が物質=人工的なモノ」か?という仮説は、
人工物質=モノの性能価値が「物質」になるでしょう、
ということです。
極めて自分勝手で、読み手理解を無視していますが、
それは、私がデザイン対象とする人工物質=モノ、
すなわち、自分だけの定義にしているからです。
仮説の連続性
この仮説が、何を次に定義化していくかというのは、
「何が情報=コトとなり、コトの機能性」も、
デザイン対象にすることができるのだろうか。
「何がエネルギー=源となり、源の効能性」を
デザイン対象にすることができるのだろうか。
この二つのテーゼに、
物質=人工物質=モノからつないでいく連続性を考えるためです。
デザイナーとして、常にモノの形態=かたちを想像します。
想像の中で、モノの存在を「かたち」とするとき、
その「かたち」の「たち=質」に「かち=価値」を与えたいのです。
その連続性に、「情報」・「エネルギー」を対象化する
デザインには何が可能だろうか、という仮説化です。
この仮説化が、
イノベーションをデザインするという確信を持ちたいのです。


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『資本主義からの逃走』
 「Bit社会とBit時代の認識は貨幣感覚が変容」


   


     1月 28th, 2010  Posted 1:00 AM

BITS as Media
「貨幣」というのはメディアでした。
それもおそらく「価値」・「価値観」を万国共通にする
唯一のメディアだと考えることができます。
ただしそのメディアがさらに「メディアのメディア化」
というのが、貨幣がbit化していく20世紀末から、
現在に至っています。
しかし、
メディア社会でのbit感覚と
メディア時代でのbit感覚には、
多少あるいは膨大な差異性が生じています。
原始社会、原始時代に、
「トークン」という貨幣メディアがありました。
Token
すでにその「トークン」について詳細は、
学者だけの知識になっていると思います。
それこそ、マルクス以後、他の経済学者もそのことは、
誰も語ってきませんでした。
現代、唯一残っているのは、
New Yorkの地下鉄切符を購入する「トークン」です。
このトークンは明らかに、時代ではなくて、
社会には不可欠だったわけです。
ということに比して考えてみれば、
bit貨幣、たとえばsuica, etcなどは、
社会がメディアとしているものにすぎません。
おそらく、時代がメディアとしては研磨し、
ひょっとすれば消滅させるかもしれません。
したがって、bit貨幣あるいは貨幣bitなるメディア、
その行く末は社会性と時代性によって決定づけられる、
もうひとつの「価値感覚」だと思います。


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