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Posts Tagged ‘マニフェスト’


『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


   


     10月 24th, 2015  Posted 12:00 AM

デザインというより、デザイナーの考え方、手法が
ようやく注目をあびましたが、それはいくつかの
デザイナー実績での誤解が他の学術芸術分野で拡大したようです。
たとえば、言葉では、コンセプト、マニフェストや
アイデンティティなどは定義や使い方間違いを発見しています。
現在、デザイナーの発想や成果への方法論での間違いは、
デザイン思考とインクルーシブデザインだと私は判断しています。
先般、ある大学が医学と工学、つまり医工連携に
デザインを加えるためにはデザイン思考の導入を重ねていました。
これは国家プロジェクトゆえに、
来月、その特別講演で私は是正と実務例を紹介します。
今夜はあらためて、インクルーシブデザインについては、
ニーズとシーズ、
あるいは文理融合やユニバーサルデザインが米国で提唱されたままに、
これもデザイン思考として取り入れていることへ、
論理的な正解を記述しておきたいと考えます。
インクルーシブデザインは、
インクルーシブとエクスクルーシブを
厳密に語彙論として再整理しておきたいと思います。
インクルーシブデザインとは、人称のデザインであり、
これは米国よりも英国でのデザイン思考がまともだと判断しますが、
私は、一人称のデザインでなければニーズの本質は不明だと考えます。
一人称、つまり、「私のニーズ=必要性は何か」がテーマであり、
この一人称=私の必要性を二人称=あなた:家族や兄弟や配偶者、友人、
あなたが必要かどうかを確認しない限り、ニーズになりません。
それどころか、
私=一人称とあなた=二人称の決定的な必要性が確認できなければ、
三人称である彼・彼女、彼ら・彼女らの必要性=ニーズと
その必要性を追求するシーズはありえないということです。
つまりインクルーシブとは一人称と二人称という範囲の指定であり、
エクスクルーシブは三人称であるという認識が必須だということです。
ところが、インクルーシブデザインで、
健常者に障害者や妊婦や幼児や老年者をデザイン対象とする
米国的な定義は大間違いだと指摘しておきます。
この思考方法では、必ず、デザインは機能的な活動、
形態は機能に従うという時代遅れな発想がとりついていくのです。
私は、このことも「KK塾」でオープンにしていく所存です。

* Website-HP


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「喧嘩道には制度的なサンクションが作動する」


   


     9月 24th, 2013  Posted 12:33 AM

私は自称も「喧嘩師」となっています。
だから、すこぶる怖がられます。
結果、初めて出会うと「全然怖く無かったです」とか言われます。
喧嘩道は室町時代の武士道制度に当時規範が伝統的になりました。
喧嘩師には、現代流行で風潮の「倍返し」は全くありません。
刀を使わない喧嘩=口喧嘩=ディベート最良のサンクションです。
サンクションでマニフェストを論述したこともあります。
サンクションとは、制度的な賞罰を社会が自然決定する常識です。
常識に血は流れるはずもなく、賞罰・罪罰・顕彰での実力決定。
このところ、Nゲージにやたらに心惹かれて和やかな気分の私に、
盗作盗用でサンクションを資本主義的財力で制御する、
まるで仲良しクラブなら大丈夫の流行イベント、
その統括周囲の知性無き虚偽の実像を知りました。
負のサンクション裁量をすることにしました。
軍事拡大に蒸気機関車をナチス政権は「速度向上」をめざし、
一方では、赤十字が負傷者医療看護に蒸気機関車を創りました。
負のサンクションと正のサンクション。
私の趣味は、喧嘩道を明らかに支えているようです。
なぜなら、武士に刀はシンボルでしかなく、
それは正と負の決定をあくまでも厳正中立にも瞬間的な、
正と負のサンクションを明盛に決定づけることです。
私はこれを厳格な明解なる名辞的な大決定だと思っています。
せめて盗んではならない、盗んだもので過飾してはなりません。
しかし、風潮は、見て見ぬふりを温存し、
虚飾の中で自分を誤魔化す、そんな輩に厳格な少なからず、
「美」は創れるはずは無いのです。
美無くして、真も善も成し遂げることはできないでしょう。
M.ウェーバーで強化された資本主義偽善を容認だとするなら、
私は、この中核人物に「負のサンクション」を与えます。


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「デザインはその発祥から政治的な政策思想だった」


   


     8月 1st, 2013  Posted 12:00 AM

デザインの歴史を語るときには二つの説があります。
人間・ホモサピエンスは、
モノづくりにデザインを考え実行が設計だったという説。
もう一つは、ロシア・アヴァンギャルド時代に、
革命という政治活動を支援する芸術手法がデザインという説です。
私は、デザイン史には、必ず後者を選びます。
デザインという職能は、当初から革命という政治手続きを支援、
まさに、国を変革する策略であったということです。
だから元来は、革命的な政治思想を具体化する手法だと考えます。
ロシア・アヴァンギャルドは、結局、ソ連が崩壊したように、
革命を政治的に成功するともに、いわゆるデザイナーたちは、
虐殺もしくは自死したとして抹消されていったのです。
その代表人物に、私は、V.マヤコフスキーをあげます。
彼の思想が見事に政治思想に転化されてしまった系譜を再考。
彼は、自死とも拷問死ともいわれ不明ですが、
「われわれに新しい形態を!・・・号泣が聞こえてくる」、
このことばを常にいだいて世の中、企業、政治を見てきました。
したがって、ロシア・アヴァンギャルドでは、
建築・舞台芸術・日常用品・ファッションはすでに完成でした。
この成功されていた手法が応用美術からバウハウスなどに
面々と連鎖していきました。
よって、この連綿たる美的な思想から逸脱している模倣や、
すでに存在していたモノのモノマネには常に非難・批判しました。
結果、私自身のデザインは、彼らの理想主義=問題解決、
そして、理想を呼び込む未来志向こそ「デザインの本質」が結論。
ソ連の崩壊は、見事に彼らの思惑通りで有り、共産主義の全否定。
私は、たとえば「グランドデザイン」や、
さらに、理想体制趣旨を「マニフェスト」はデザイン用語です。
現在、わが国は、あるいはわが国だからこそ、
この「国難」には二つの人類の理想テーマが問題です。
地球環境=自然と人類は決して調和などできないから・・・
原発事故=人類が存続する水・食糧・電力はどうあるべきか・・・
だからこそ、「デザイン」をようやく国策の実務にするべきです。
私の最期のデザイン活動には、国策への「デザイン導入」、
これが私の「行学」としての役割だと考えています。


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「デザインの本質を政府に、そしてデザインを国会に」


   


     6月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

今回どういうことか二日連続して、
衆議院議員・稲田朋美大臣(ふるさと福井選出)と、
参議院議員・藤巻幸夫氏(みんなの党選出)に会いました。
稲田大臣は、私の眼鏡フレーム(MP-704)をしてくれていました。
藤巻代議士も私の眼鏡フレームを数本選んで持っています。
眼鏡フレームをデザインしていて嬉しいことは、
フレームデザインは、その人のアイコン性を決定することです。
稲田朋美代議士は、まさに「クール・ジャパン」のトップであり、
藤巻議員も、国会で「デザイン」を真正面から語っています。
私は、昨年は、前政権の防災大臣にプレゼンもしました。
それ以来、この「国難」への想いは、
まず国民として、大学人として、さらにデザイナーとしての、
職能的な役割を最も保持し、そのデザイン計画を具現化すること。
これがひょっとすれば、私最期の日本人ならではの役目です。
だから、定年退官はしましたが、阪大の自分の研究室では、
「新たな国家ミッション」のプロジェクトリーダーでいます。
これまで、政治家の人たちも「グランドデザイン」とか、
「マニフェスト」という、本来はデザイン用語を使用しています。
それだけに、プロデザイナーとしてこうした言葉の本質的、
基本的な意味と意義と手法を知らせたいと思ってきました。
今回、二人の国会議員の方、一方は与党で一方は野党です。
だからこそ、デザインは「超党派」でまず理解認識を熱望です。
「3.11」という現実を、まさか自分の生涯で体験したわけです。
あの日以来、私は、さらに真剣な自分の残照を考えてきました。
それこそ、「デザインが難問解決の制度設計の感覚的認識」を
決定的にあたえるからこそ、「政治にデザイン」なのです。
日本だからこそのモノづくり、
国難だからこその危機管理、
すでに老年世代だからこその役割、
そんなことを、「実現できる国会政治にデザイン」を!、と、
私は心から熱望しています。
さらに幸いなことは、私には安全工学の第一人者がいとこです。
彼に会って、宇宙開発技術ゆえの安全工学技術を聞けます。
これだけ私の環境があるなら、「実行と実現」あるのみです。


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「民主党政権はやっぱり、そして当然ながら断罪された」


   


     12月 17th, 2012  Posted 12:44 AM

「政権交代」が大衆主義であると確信していた私は、
前回、
民主党政権になることに多少は期待しようかと思っていましたが、
鳩山、菅首相となったとき、
日本は駄目になると愕然としたものです。
そこに、3.11という大震災とさらに原発事故によって、
決定的なリーダーを失いました。
それでも、私は、中川防災大臣に復興計画を1時間半プレゼンしました。
私の提案など、「たかがデザイナー・・・」という、
やや僻みかもしれませんが、そんな気配を実感しました。
叶うことなら、
この政権では
敗戦後の大国難は絶対に乗り越えることはできないと判断しました。
そして、
「近いうちに・・・」というリーダーに断罪をと願うばかりでした。
選挙運動を観察し、政権放送を聞き、
TV-CFの民主党はデザイン戦略皆無、
政党党首の選挙運動ドキュメントからも、
自民党圧勝を強く感じました。
大阪の一市民としては、
橋本市長率いる維新の強さは決定的だろうと推測しました。
私は、前回の大衆主義への大反省が国民にあったと思います。
民主党がどれほどマニフェストを裏切ったことだろうか、
「仕分け」には「仕訳」もあるという論理も知らず、
No.1を否定し、3年もかけてきたプロジェクトへの素人判断、
復興計画は滅茶苦茶となり、
大学の予算執行もまだ行えない政権、
国民は断罪しました。
ただし、原発問題、領土問題、拉致問題などは全政党が曖昧です。
今、選挙速報を見ながら、
もちろん、所属政党にこだわらず、
この人は議員でいてほしい人物や友人の当落を見ています。
政治に関わる人たちには、すべからく、
日本への理想は同等だろうと思います。
彼らの生涯において、このような判断が下されていく現実、
民主主義の手法として、人類の知恵は「選挙」に集約されていますが、
果たして、この手法が正しいのかどうかは、
まだまだ、政治哲学や法哲学の進歩を期待しなければならないでしょう。
民主党が、再び、今回断罪された経験が、
政党存在を革新し進化させるものにしていただきたいと願います。
そして、自民党の圧勝だから、
自民党の専制的な暴走の無いことを厳しく見守っていきたいと考えます。


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「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」


   


     7月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

永世中立国家を維持しているスイスは私には謎国家です。
永世中立によって「平和」のために、
全国民皆兵制、全ての住宅にシェルター設置は義務です。
スイスの防災マニュアルを読みました。
文字だけではなくグラフィックデザインとして、
本当に素晴らしく美しい本になっています。
まず、祖国ということ、
国の自由・国民の自由を定義しています。
これこそ「愛国」の基本でしょう。
あらゆる災害・戦時体制・原爆から死刑にまで、
国民がどう平和で安全に、
「いざ」という場合がとても懇切丁寧に、
おしゃれなイラストとともに編集されています。
国家転覆への情報対処・情報戦を
国民の認識方法まで述べられています。
「平和憲法」の文言にだけ頼っているわが国との違いを
あらためて、見直す必要があると思いました。
これは、憲法の具体的な行動規範です。
国民が平和で安全を確保する基準とは、憲法で制定していますが、
その具体的行動を「日常生活」でどう認識し、
しかも国民皆兵制ゆえに、成人は女性も武器訓練があります。
特に、私は、国家転覆の情報コントロールと死刑の記述は、
これなら国民全員が納得できると思いました。
スイスには死刑はありませんが、
国家維持を破壊する者や国家転覆者には、
絶対死刑というのは、説得制があります。
日本は、天災が一段と厳しい環境下にあります。
政党の嘘だらけの「マニフェスト」など不要です。
だれでもが分かりやすい、憲法を読むのではなくて、
具体的に、自分・家族・コミュニティ、そして国家が、
平和と安全を維持していく具体的な行動規範こそ、
安心国家の安泰性を確約するものと考えます。


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「伝統とは『裏切る』ことへのアプローチ」


   


     2月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

「私たちは美しい切れ味を鍛えています」。

越前打刃物、その産地に掲げたマニフェストです。
余談ながら、マニフェスト=宣言として、
私はデザイン導入テーマを宣言として使っていました。
そして伝統=Tradはラテン語原意そのままに、
伝統工芸技術への裏切り方をシンボル製品開発に
プロセス調査を重ねることにしました。
鉛筆が削れる、そのためにはナイフを鉛筆削り専用を開発しました。
小学校1年生から中学校1年を対象に、ペーパーモデルで検討し、
小学校4年から5年生で手の大きさが急激に成長することと、
小学校2年生になると「器用に美しく削る」ことを発見しました。
その削り角度(写真上の緑線)
そして火づくり鍛造する三層鋼を
特別に素材メーカーで生産してもらいました。
ステンレスに鋼材をサンドイッチしてもらった三層鋼です。
私自身が左利き(左右両利き)ですから、
左右どちら利きでも使いこなすこと。
本革のケースと研ぎ石も付属させた商品にしましたが、
一番の問題は、この刃物(3,000円)も30,000円の包丁も
ほとんど人件費は同等だったことです。
それでも、「シンボル商品」として商品化しました。
そして、プラスチック柄にするまでには10年かかりました。
産地体制でプラスチックハンドルの生産が不可能だったからです。
今もその体制づくりは出来ていません。
最終的な研磨を産地で製品化して商品にしています。
現在ではプラスチックゆえ「プラ・スコラ」という商品名にしています。
私は、もう一度産地体制での生産設計をやり直して、
本来のオール金属+本革シース+研石の「SCHOLA」(学校を意味)を
復元商品化したいと思っています。
そのためには、伝統技をもう一度「裏切って」、
新たな製造工程のデザインが必要だと思っています。


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「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。

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『資本主義からの逃走』
    「共同幻想=グランドデザインは統合された妄想」


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
  「コスメティックデザインという付加価値」


   


     2月 19th, 2010  Posted 1:00 AM

Cosmetic Design
資本論的にいえば、「商品」の価値、
それも「付加価値」は、商品選別での欲望対象です。
したがって、デザイン=コスメティックとしての理解は、
資本家・企業家には好都合でした。
私は、美大の産業美術学科の工業デザイン専攻卒です。
しかし、大学時代に、デザインはコスメティックではない
ということを徹底的にたたきこまれました。
「付加価値論」の見直しも体に染みこんでいます。
ところが、インハウスデザイナーになると、
「意匠」=形態のお化粧程度にどれほど反抗しなければ
ならなかったことでしょうか。
それこそ、グッドデザイン審査委員長になっても、
デザイン系のキャリアが「付加価値」と言えば、
必ず、喧嘩を売ってました。
かなり正確な論理は、「嫌がられる存在」に、
今なお、なっています。
おかげで、「御用学者」ではありません。
御用学者を演じている教授も知っていますが。
全体価値
デザインは「全体価値」であり、
「価値」創出者の代表であるとさえ思っています。
金融資本・対・デザインの構図を明らかにするべきです。
むしろ、その使い分けは、中国や韓国は見事です。
「コスメティック価値」と「デザイン価値」の構図、
あるいは構造=関係性こそ、
今、デザイン先進国である日本が提示すべきと思います。
中国が、デザインを「設計」から「策略」や「資源」と、
書き直したのは、先んじられています。
たとえば、政治家もグランドデザインとマニフェストに
用語として多用しているのも、「付加価値論」ではなく、
明らかに「全体価値」です。
「全体価値」という茫漠さがマイナスだとも思っています。
さらに、「何?価値」=デザインなのか、ということの
決定打が不可欠です。
価値
「価値」=望ましさ+好ましさ、と考えれば、
「望ましさ」を希求し判断するのは、理性的評価です。
「好ましさ」を訴求し評価を求めるのは、感性判断です。
デザイン設計・策略・資源での「価値」設計は、
すでに、デザインの本質意味を、
わが国も再確認すべきだと考えます。
デザインが、産業の一手段ではありません。


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