7月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
7月 22nd, 2020 Posted 12:00 AM
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11月 16th, 2017 Posted 12:00 AM
11月16日 赤口(丁未)
川崎和男の発想表現手法
Tags: マトリックス, 仏教思想, 全世界, 土, 地, 川崎和男のデザイン金言, 思想, 木, 概念, 水, 火, 空, 金, 風
Posted in APHORISM, 川崎和男の発想表現手法
8月 16th, 2015 Posted 12:00 AM
私の企画戦略には必ず立ち戻る基本があります。
それはインド思想の木火土金水と仏教思想の風地火水空です。
この四句分別によって25 のマトリックスが生まれます。
それは25のコンセプトが生まれるということにつながります。
少なからずこれは世界観での25の問題点が整理されたコンセプトです。
しかし、これだけ全てを列挙すると、二つの疑問にぶつかります。
まず、デザインでそのようなことをやってもらいたいとは・・・
これで台無しにして仕事をどれだけ失ってきたでしょうか。
デザインでそこまで語ってほしくは無かった・・・
これで仕事をしたくない行政マン、役人(人に役立つ人)を知り、
彼らの生息生理をほとんど知ってしまいました。
このことで、若い頃はクライアントに喧嘩を売り喧嘩師になりました。
最近は利口になって、インド思想にも仏教思想にもある火と水を
主体的に語っていくことを中核にしています。
無論、両方の思想の核心にある火と水には同意性と差異性があります。
それを論理的に学び直したのはガストン・バシュラールでした。
バシュラールは、明確に水と火は対照的な著作を残しています。
そして彼の著作を度外視していたつまらない輩がいたこともあります。
私にとって、現実的には、水と火、それぞれがCGになる過程を
まさに米国で立ち会ってそのプログラミングを見ることができたこと。
これは生涯の思い出になっています。
しかも、このNatural Phenomenaというコードネームには、
明らかにバシュラールが基底で語られていたことです。
火も水も、デジタルとして燃えさかることと水滴や流れまでが、
制御と否制御が起こってしまうことでしたが、
結局、火は燃えさかっても熱くはなくて破壊することがありません。
水も自然と水滴から大洪水も決して起こらないことです。
これがデジタルの限界でありながらも、自然よりも勢いがあります。
私は、自宅にデジタルの全く無温度の火と水を配置します。
それこそ、自然と人工を対比させた日常を側に置いてみることで、
自然=アナログを絶対にデジタルで調和も制御も出来ないことを
言い聞かせる手法だと思っています。
Tags: CG, Natural Phenomena, アナログ, インド思想, ガストン・バシュラール, クライアント, コードネーム, コンセプト, つまらない輩, デザイン, プログラミング, マトリックス, 世界観, 両方, 中核, 主体的, 人工, 仏教思想, 仕事, 企画戦略, 側, 列挙, 利口, 勢い, 台無し, 同意性, 否制御, 問題点, 喧嘩, 喧嘩師, 四句分別, 基底, 基本, 大洪水, 学び直し, 対比, 対照的, 差異性, 度外視, 役人, 御, 必ず, 思い出, 思想, 手法, 整理, 日常, 明確, 最近, 木火土金水, 核心, 水, 水滴, 流れ, 火, 無温度, 無論, 燃えさかる, 現実的, 生息生理, 生涯, 疑問, 破壊, 立ち戻る, 米国, 結局, 絶対, 自宅, 若い頃, 著作, 行政マン, 言い聞かせる, 調和, 論理的, 過程, 配置, 限界, 風地火水空
Posted in ConsilienceDesign, 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務
11月 19th, 2012 Posted 12:00 AM
デジタル時代であるということを大前提にするべきです。
とすれば、
その具体的なPCやスマホが生活シーンに入ってきて、
日常生活には多大な影響や制御系を与えることは自明の論理です。
だからと言って、
洗濯機や冷蔵庫の使い勝手にスマホが摘要されることは愚の骨頂です。
それらを「商品」と読んでいる限り、
わが国の日の丸家電はもとより、ハイブリッドカーや電気自動車なども、
国際戦略的に産業の先進国家であり続けることはありえないというのが、
今、私の判断です。
すでに、商品は記号であり、記号ゆえに情報性を内在しているからこそ、
この情報社会において価値を持っているのです。
私自身は「価値の多様化が進展している」なんていう、
そんなマーケティング分析などには大きな疑念を抱いています。
ここに提示したマトリックスは、すでに以前も分析と提案をしています。
https://ouzak.co.jp/blog/?p=8605
既存価値と想定内のことはコードの体系にあります。
よって、商品?記号化するには、
この体系を組み合わせたり、
あたかも直感というコンセプトから造形言語によって「意図」を込めます。
しかし、
実際は、購買者・生活者・ユーザーは、モードとしての体験にこそ、
その価値観を求めているわけです。
よって、今更ながら、
製品企画や商品展開での経営仮説などほとんど無意味になっています。
かつて、プラズマTVを確信犯的に私は非難したことがあります。
その企業や量販店は私を訴えるという事件性に繋がりました。
結果どうだったでしょう。
そうした企業は赤字転落です。
今、私は日の丸家電も自動車も、
すべからくこれまでの産業構造を大革新すべきだと断言しておきます。
あえて、空欄のマトリックスを今夜は提示しました。
この空欄を埋められるデザイナーは限られています。
それは、企業経営者がもっとデザインの本質を
認知するだけの「経営美学」というセンスが必須だということです。
「記号の差異性しか価値を持たない」というのは、
ボードリヤールが30年前の言説であり、
「モードの体系」に流行性、あるいは価値観の変動、
それらを言い当てていたのはロラン・バルトでした。
特に、デザイナーはもう一度、
彼らの言説を根底から読解すべきだと提言しておきます。
Tags: PC, コンセプト, スマホ, デザイナー, デジタル時代, ハイブリッドカー, プラズマTV, マーケッティング, マトリックス, モード, モードの体系, ユーザー, ロラン・バルト, 企業, 企業経営者, 使い勝手, 価値観, 冷蔵庫, 商品, 商品づくり, 商品展開, 国際戦略, 情報社会, 意図, 愚の骨頂, 日の丸家電, 日常生活, 洗濯機, 生活シーン, 生活者, 直感, 経営仮説, 製品企画, 記号, 購買者, 逃走, 造形言語, 量販店, 電気自動車
Posted in 企望を「までい」具現へ, 祈望から企望へ
4月 3rd, 2009 Posted 12:00 AM
「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。
使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。
マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。
「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。
保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。
別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。
明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。
だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。
高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。
なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、
「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。
階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。
Tags: DESIGN, マトリックス, マルクス, 価値論, 経済学
Posted in 001「始まりはマルクスから」, 資本主義から逃走せよ!
3月 31st, 2009 Posted 10:00 AM
「四句分別」というMATRIXは、MANDALAとして、
一つの概念が単純に8つの概念で取り囲まれると私は考えるようにしています。
それは、概念を核心とする概念機能、
あるいは概念の機能性や概念感覚を把握し認識するための条件と考えているからです。
まさしく、曼荼羅に描かれた仏像の機能と言っては言い過ぎかもしれませんが、
人間の思考は「ことば」に、特に、その概念があらわす
夢・願望・期待・理想を表しているという仮説を私は持っています。
そして、これを、私は「ことばとかたちの相対性」と呼んでいる思考の構造化にほかなりません。
そこで、「使用」ということをMANDALA 図に載せて分類をします。
それは、どういう「使用」というのがあるのか、
ということをともかく配置してみるとその構造=関係が見えてくるのです。
「核概念」の上部には上位概念が左右に並びます。
そして中心と左右は同等の重力を下位概念に上下にわたって及ぼしているのです。
さらに、「核」・中心に対しての対立やあるいは対位性は、
中心感覚を平衡化するバランス感になっていくものだと考えています。
まずはじめに、「使用」を中心、「各概念」に配置します。
そうすると以下の図のような、「使用」の目標や目的、そして効果が視えてきます。
「使用」を取り囲んでいる8つの「ことば」に対する意味とその「感覚」は、
そのまま「使用観」という世界図象として、
私たちの感覚を世界観として成立させているのではないでしょうか。
たとえば、「使用」するというのは、
急用もしくは専用のために採用することから始まっているのだと考えてみることができます。
採用感は採用するための自分の世界観だと考えれば、
その「使用」の「価値感」=「価値観」ということで、
個人的な感覚、私だけの感覚であっても、それを一般化させることも可能になるわけです。
つまり、「使用価値」がどのように分解されて、
なおかつ統合と集約を、それぞれの概念価値として要素化、
あるいは要因化しているということになるわけです。
ただし、この曼荼羅図は、あくまでも二次元での仏像の配置です。
そのアナロジーとして、MANDALA図に「ことば」その「感覚」を配置してみました。
本来は、仏像界という宇宙観は多次元空間での存在にほかなりません。
それは、「ことば」もその発信性や意味論は
宇宙観にただよっている感覚にすぎないと考えることが出来ます。
平面界での配置であることも注意をはらっておきたいと付け加えておきます。
結局、世界観は私は3次元から多次元化していることをすでに知識として認識しているからです。
それは、「価値観」あるいは「価値感覚」は
多次元化された時空間に存在しているということになります。
問題は、この多次元的な「価値」、ここでの「使用観」は、多次元的に時代が変容させたからです。
すなわち「多様化」している「使用価値」へと拡大と収束が起こっているということです。
Tags: DESIGN, マトリックス, 価値論, 曼荼羅, 経済学
Posted in 001「始まりはマルクスから」, 資本主義から逃走せよ!
3月 27th, 2009 Posted 8:13 PM
「所有観」と「使用観」という二極分類を融解してみたいと思います。
「四句分別」のMATRIXに「使用」と「所有」の二極を配置してみましょう。
それは、「使用中心の所有意識」と「所有中心の使用意識」という領域が、
必ず、意識上に存在していることになるのです。
これが、東洋的というか、日本的な融合感覚ではないでしょうか。
この「分別」こそ、現世公案的な悟りへのアプローチとなっていたのです。
現在、この日本的感覚が押しつぶされてきたことを思い出す必要があると私は考えています。
乱暴な言い方をしておきます。
つまり、1970年代初めに、「脱・工業化社会」、「ポストモダン」、
そして「意識化社会」という予測論が出てきました。
これは、「情報化時代」、「情報社会」が到来することの確約された予測論だったのです。
しかし、その内実が構造化される外因は
すべからくオイルマネーによる金融支配構造に資本主義そのものが、
まだまだ進展していくという幻想、いや妄想が生まれてしまったのです。
具体的には、私はデザイナーとして二つの現実を見てきました。
石油文明をあくまでも維持しようという石油資本家たちの支配構造から脱出できませんでした。
これを裏打ちする事件も歴史的な事実となっていくのです。
この指摘はいづれ書き残すつもりでいます。
とりあえずまずは、「電気自動車の開発と実現」がずーっと拒絶する
大きな支配的な政治力が温存されていたということです。
そこにコンピューターやネットワークという技術革新=イノベーションが覆い被さってくるのです。
「イノベーション」は、オーストリア出身のJ.A.シュンペーターが、この言葉を提示しました。
さらには、「資本主義の崩壊」までの思想を登場しているのです。
このことについては、いづれ後述してまとめておく必要があるでしょう。
そして、これは、コンピューターテクノロジーあるいはインフォメーションテクノロジーによって、
そして資本主義が強化されたがゆえに、この妄想が正当化されたものと判断せざるをえません。
即、1973年にはオイルショックによって、この妄想が一時叩きのめされました。
けれども、この当時のコンピューターはまだまだマシンの段階でした。
ところが、コンピューターがパーソナル化する時代に入ります。1980年初頭です。
それこそ、資本が金融というシステムの中で、
ますます専門家だけが制御できるネットワークになっていくことにつながります。
と同時に、それは「グローバル化情報社会」として、
先進国家にのみ、その資本財の配分、つまり「富の分配」という構造社会になっていくわけです。
この「富の分配」には、
「所有観」と「使用観」が融解して二極性が崩壊していくと言ってもいいでしょう。
私は、これをMATRIXからMANDALAへと変容してきたのだと評価しています。
MANDALAとは、正式には「金剛界曼荼羅図象」です。
この図象に描かれた仏像図とそれぞれの仏像の意味性を私は詳細に語るべきだとさえ思っています。
ここではあくまでも「所有」と「使用」の二極を
多様的な意味を集約するためにMANDALAを応用します。
Tags: DESIGN, イノベーション, マトリックス, 曼荼羅, 経済学
Posted in 001「始まりはマルクスから」, 資本主義から逃走せよ!
3月 23rd, 2009 Posted 12:20 AM
マルクス理論の骨格である「価値論」は、
きわめて西欧的思考で固まっていると思います。
それは二元論での分割では、思考を閉じ込め、
その二元を二極化する正当性だけを信頼してしまいます。
私はこれこそ、思考・思想を信仰してしまう危険性があるのだと指摘しておきます。
私は、この論理構造は、東洋的、仏教、その禅宗的思考によって、
一端、溶解すべきだと提案しておきます。
私のふるさと福井には、永平寺があります。
この永平寺開祖・道元の思想には、二元論を融解する思考手法があるのです。
もっとも、道元自身は、自然体的な思考論であったのですが、
後世になって、「現世公案」という解釈論の手法となった「四句分別論」があります。
この論理によって、二元・二極、その分解と統合化は、溶解と融合を促すことができます。
「四句分別」ということを、
私は必ず、海外の大学で講義する時には、
「現世公案」という思考論を紹介をすることにしています。
なぜなら、デザイン発想でもこの思考方法は発想を促進するには、
とても優れて有効であるということだからです。
ところで「公案」というのは、禅宗用語です。
禅宗というのは、行学という思考を日常から
さらに展望を「生き方」の「悟り」としていく宗教です。
つまり、「ことばの意味」・「自然事象の徹底した理解」・「自然とことばの構造・関係」を
身体化する宗教哲学だと、私は了解しています。
では、簡単に「四句分別」というのは、2×2=MATRIXという図解で
視覚的な援用でより理解が容易くなるからです。
たとえるなら、西欧的なyesとnoの関係です。
日本人は、yesとnoを曖昧にする民族と非難されてきました。
私は、それが「日本的思考の根本的思考」だと再主張したいと考えてきました。
どんな人間のこのyesかnoかという価値判断を求められたなら、四つの評価感覚があるはずです。
■まったくyesである。
■まったくnoである。
■yesだが、noという思いも残っている。
■noだが、yesという思いも残っている。
これらを図解(2×2=MATRIX)してみると「一見して分かる(=分別することが)できるでしょう。
では、この「四句分別」によって、マルクスの「価値論」を公案してみたいと思います。
それは、マルクスを原点としながら、
この思想を現代の経済的な問題解決論としておくことではありません。
「資本論」は「宗教」と断言したからには、
あえて、日本の高密度な思考によって、再構築してみたいと考えるからです。
Tags: DESIGN, マトリックス, マルクス, 価値論, 経済学
Posted in 001「始まりはマルクスから」, 資本主義から逃走せよ!