kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘プログラム言語’


『1984年からMacintoshとの付き合いが私の重大経験』


   


     1月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活になってふるさと福井に帰ることになりました。
ふるさとには高校時代の友人達がすでにそれぞれ分野のリーダーでした。
中でも、親友・玉木(現福井キヤノン事務機会長)は、
すぐにデザイン活動で苦心している私を物心両面で支援してくれました。
彼の会社のショールームにMacintosh128kがありました。
私は「とても高額なおもちゃのコンピュータ」を借りました。
彼に、「このコンピュータがきっと世界を変える」と話しました。
彼は私の予言を素直に聞き入れてくれてセールス戦略にとりあげ、
Mac512kは自らが講習会を受け、16台即持ち帰ってきました。
私はApple?もLisaもじっくりと知り尽くそうとしていただけに、
Macintosh128kの商品発表は鮮烈でした。
その頃、VENUS-P(通信衛星)で米国のDIALOGにアクセスするという話が、
もっともらしく当時の雑誌紹介はすべてが嘘でした。
なぜなら、Mac512kとMacTerminal、電話カプラー300bpsで、
私はDIALOGに福井は40円/分、東京は80円/分、名古屋は60円/分でした。
このようなことを書き始めていたこともあって、その後からすっかり、
Macの世界に入っていきました。
1991年から2年半は、とうとう福井で7つのコードネームで新製品開発、
Apple社からは弁護士や開発チームがやってくるほどでした。
私はジョンスカーリーの直属のデザインコンサルタントを務めました。
クパチーノApple本社でのプレゼンテーションでは、
黄色人種としての立場までいっぱい体験しました。
日本・東京はバブル経済であり、私は「何かが変だ」と思っていました。
さらに大電産業グループが私にeX-DESIGN(株)を全面支援してくれました。
福井で車椅子の私に1億4000万円のEMSを与えたのは、
その頃の福井県青年会議所の主要メンバーや地元の金融機関でした。
MS-DOSはじめSmallTalk、いくつかのプログラム言語を独学しました。
心臓障害になり、デザインも諦めていた私は、
気づけば、名古屋市立大学に光造形システムとその環境が与えられました。
先般、日本のグラフィック界の二人の代表人物に、
ジョッブスが最後に置き土産にしたと思える書体の話もしたところです。
私の30代からこの35年をMac文明とMac文化があったことは確かです。


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「もう一つの言語を教えていた昔・ロゴレゴのこと」


   


     11月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

1987?1989年頃だったと思います。
その時は、東京から福井にもどり、
「街のデザイン屋さん=イーエクスデザイン」という
会社を起業していました。
そして、すでにMacintoshはスタッフ全員、
一人一台をデザインツールにしていました。
また、その頃は、
MSXというパソコンが子どもたちにも最適なツールになりかけていました。
今、私の作品集を図鑑、年鑑的な出版を準備しています。
そのために、過去の活動内容を調べていたら、
ポスターと写真が出てきました。
ロゴ言語というプログラム言語がありました。
もう過去形でいいでしょうが、
それなりにパソコンプログラムが視覚的にも理解しやすい言語でした。
「タートル」というオブジェクトに指令を出します。
たとえば、前に5歩、右に90度、前にまた5歩、また右に90度、
前に5歩、右に90度、前に5歩、右に90度、
そうすると、一辺5mの正方形をタートルが描くという言語系です。
F5・R90を4回という具合です。
このタートルをレゴブロックで車を造って、
そこに赤外線でプログラム言語を送信すれば、
自動車は、正方形の図形の上を走るというものです。
これは、MITのシーモア・パパート教授の提唱でした。
私は、小学生高学年に福井でこのワークショップをしていました。
パソコンはまず使わせないで、タートル(亀さん)役を一人決めます。
その子はロープを持って、みんなが声をかけます。
「前に五歩、右向け右90度、また・・・・」という具合です。
こうして体を使って、正方形や円や長方形などを教えると、
最終的には、
考える子は「ピタゴラスの定理」までを
ロゴ言語で書けるようになります。
そうして、今度は、レゴブロックで、動くモノを造って、
赤外線を改造したMSXから、そのレゴブロックに発射すれば、
それは描いた図形に動くという仕掛けです。
このポスターと当時、懸命に、
その企画書やレゴブロックや赤外線装置を作成していた私がいました。
私は、そうだ!言語系には、
そのモードもあったことを今ならどう教えるべきかと考えています。
身体化させる言語は、ロゴ言語が唯一なのかもしれません。
そのようなプログラム言語、
あるいは機械語を発明する世代が出てきてほしいものです。


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『資本主義からの逃走』
 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・01」


   


     1月 19th, 2010  Posted 9:00 AM

TOSBAC-5600
私が最初にコンピューターと出逢ったのは、
東芝に入社した1972年でした。
新人研修で、FORTRANCOBOLを知りました。
デザイナーゆえに、チューターはどちらにするか、
ということでしたが、二つともやらされました。
TOSBAC-5600でした。

大学時代にタイプライターをマスターしていたことが、
最も役に立ちました。
新人研修はグループ全員が旧帝大卒ばかりでした。
美大卒?、デザイナー?というやや蔑視的雰囲気から
「パンチカード」への入力がうまかったので、
TOSBAC-5600は、私の力量?を認めてくれた!
とさえ、思った出逢いでした。

しかしなんとも面倒で何の役に立つのかは不明でした。
やがて、Appleの存在を知りました。Apple?でした。
買える値段ではありませんでした。
ZX81
Sinclair(英)ZX81がやっと買えたので、
これでMS-DOSを独習しましたが、
本当はCP/Mが大好きになりました。
以後、様々なプログラム言語も独学でした。
気がつくと、
国内メーカーへのコンサルタントになりました。
コンピュータ開発でありデザインではありません。
VENUS-P(KDD)で、MARUNET(丸善)、
この通信系経由から
情報検索システムDAIALOG(ロッキード社)に
接続していたのです。
そして新聞記事を書くまでになってました。

Macintosh128KでSOURCEの会員になったのは、
私が日本人では4番目だったはずです。
SOURCEからCompuServe(現在のNifty-Serve)が、
最初の会員制ネットワーク回線だったことを知る人は、
どれだけ残っているでしょうか。
「北陸の福井に、デザイナーなのに変なヤツがいる」
ということでデザイナーなのにコンピューター雑誌に、
連載を持ち始めました。
これが私がbit社会へ入って行くいきさつの一部です。


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