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Posts Tagged ‘コイン’


『デザイン=designareということばの源流のために』


   


     8月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

紀元前1世紀?、私にはそんな時代は本の中にしかありません。
弥生時代の頃と言われれば、縄文時代よりも稲作が始まったとか、
その時代の方が私には、モダンデザインの始まりを感じています。
しかし、これも私には本の中で辿るより手立てがありません。
その時代に、ラテン語が生まれ、それを成した人々は、
エトルリア人だと学術的には解釈されています。
しかし、私は、そのエトルリア人がどこからイタリアの
ラテニウム地方にやってきてそこでラテン語が生まれたのかです。
そのエトルリア人がでは、どこからやってきたのかも、
確かめなければ、その言語すら、生まれてきた背景が不明です。
学術的な歴史観では、アナトリア半島=現在のトルコであり、
その文化は最初に硬貨=コイン=エレクトロン貨を発明した人です。
私はそこで、あとは紀元前の時代にまで戻って、
想像力で、その人たちがなぜ、イタリアにやってきて、
ラテン語を創出したかを考えることになります。
実際は、現代の紛争もこの時代から綿々と民族対立になっています。
とりあえず、ラテン語は、現代にまで「始めに言葉ありき」を
私たちに与えた言葉だからこそ、ずーっと昔の昔にまで
自分の想像力と遺物と地図で、彼らが国家をつくって滅亡を
見届けなければなりません。
私にとって、ラテン語である「designare」をラテン語から
拾い出して、その言葉がde+siginからdo+siginになる過程、
designという言葉の源流を、Lydia=リディアという国家に求めます。
おそらく、私がデザインという言葉から、その本質に迫るためには、
リディアという国家からイタリアに住み着いて、
欧州の言語の基本、ラテン語であり、
その語彙のデザインというたった一つの源流=designareを
明白にしていくきわめて歴史観からの唯一の方法だと思うからです。


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「健康は失い薬づけだが幸運なり」


   


     1月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

28歳交通被災で車椅子生活。
交通被災時に心臓も直撃されたために心臓障害。
これが私の宿命でした。
絶望だけはせずに、自分を諦観の中で生きてきました。
ところが、幸運だったのは大学人になってさらに、
名古屋市立大、大阪大でもそろぞれの附属病院で、
詳細に体調管理されていることです。
入退院、手術は幾たびも、しかも敗血症まで、
こんな重篤も乗りこえることができました。
これは幸運なことだと思っています。
だから、「幸不幸」はコインの裏表みたいなものです。
「幸不幸」から幸運や幸福をつかみとらなければなりません。
毎月病院で診察を受けます。
これは体調が良いときです。
体調が悪いと診察にも行けないのです。
敗血症から生還してきたとき、
病院の待合室で大勢の患者さんを見ていてこう思いました。
「病苦で自死を選ぶ」というきもちがつくづくわかりました。
毎月毎月、死ぬまで病院通いなんていうのは耐えられないし、
常時食前食後就寝前に服用しなければならない薬を見ると、
きもちはすこぶる落ち込みます。
ICDを入れる前に比べると、格段に薬の種別も激減しましたが、
それでも常に万一を考えると、薬づけの生活です。
だからこそ、「薬」の形態や色彩のデザインが不可欠です。
そして薬の形式をもデザインで変えてしまうべきと考えています。
なんとしても「ドライパウダー化」して経肺吸引が目標です。
現在は、ワクチンをミスト吸引するシステム開発が進行しています。
機能食品という名の「健康維持のサプリメント」ブームです。
しかし、サプリメントととの最適性などは、
もっと確実にしていく必要があると考えています。
いづれ、私の常備薬がドライパウダーになってくれたらと思っています。
自分のための造形された、デザインされた薬が必要です。
デザイナーとして、
こんなことに気づかせてくれたのは「幸運」だったと思ってきました。

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「サービスの原意を求めて」


   


     1月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

紀元2世紀、パル・コクバの元で使われたというコイン。
私は年末から、「サービス」の原意を求めています。
理由は、サービスは資本主義社会にて「産業化」された言葉と商業です。
私がこの原意を求めるのは、三つの理由からです。

  • 資本主義象徴である「サービス産業」の今後
  • 資本主義がもたらした様々な害悪からの逸脱法
  • 「サービス」本来の社会的効果です。

この探求には「オイコノミア」という原始基督教義が重なります。
その中で、2世紀に、キリスト教からユダヤ教を分離した一人の救世主。
それが、パル・コクバであり、彼は救世主でした。
救世主であると同時に王様でもあったわけです。
そこから、王座に座るべき者の「権力」と「権威」が定義されます。
「オイコノミア」とは「エコノミー」と同義です。
そしてオイコノミアはすでに神学的対象になっていますが、
確実に、この教義あるいは論理に始めて
「サービス」という言葉が出てきます。
私は、この言葉を再検証から再定義が、
現代の資本主義の歪みを是正できるのかどうかがとても気がかりです。
それは、資本主義での産業には、「情報産業」と「サービス産業」があり、
当然、この「情報サービス」と「サービス情報」が
資本主義を再構成あるいは資本主義からの解放を発見したいのです。
この正月にぎりぎり
「オイコノミア」を読解してしまいたいと考えています。
これから、その検証結果をここでメモを報告していくつもりです。
なぜならこの国難の日本は
改めて資本主義社会から逸脱することが大事だと直感しています。


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『資本主義からの逃走』
  「貨幣価値の再確認は、ちょっとうれしい」


   


     12月 11th, 2009  Posted 10:00 AM

私は、28歳で車倚子。
入院中に、お札やコインのデザインが変わったのです。
だからまったくお札のデザインでの価値判断不能です。
それで、それから30代になってから500円硬貨を見て、
なんだかとてもうれしかったのです。
幸か不幸か、
私はまったくお金を持ち歩いたことがありません。
世間離れ甚だしいと思います。

ところが、
金銭感覚というより財務感覚では、
「企業や産地や行政」の収支決済と市場性について
デザイナーとしての予測値反応は鋭いと自負しています。
しかし、
私の日常の金銭感覚はまるで駄目だと自覚しています。

コインは、1949年モノ、
私の生年のコインが大好きなので時々持ち歩きます。
500円硬貨もなかなかいいです。
それはモノとして魅力的なだけなのです。
先日から、
私は「日常的なお金」を持ち歩けるようになりました。
それがたまらなくうれしくてうれしくてたまりません。
とても、資本主義から逃走なんてできない!と、
言われそうですが、まったく違うのです。
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edyカード付きのマイレージのクレジットカードです。
もう使うことのできないモノとしてのコインと、
プラスチック貨幣であり、
「サービス産業」メディアとしての価値貨幣カードです。
ここがポイントです。
「資本主義」に入り込んでしまっている産業、
すなわち「サービス産業」に立ち入ることです。
そこでの人間関係・業態関係・価値体系関係は、
社会と時代の関係が連鎖系であることを一変させます。
ここから、「逃走する逃げ道」への交換体系を、
デザイン」出来そうな気がしてなりません。
edy・マイレージ・クレジットカードも、
私にはうれしい日常的なモノですが、
そこからも、資本主義の消失、
その要因が変容どころか喪失していく予感がします。


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