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Posts Tagged ‘アベノハルカス’


『大阪における緊急事態宣言とコロナウイルス原因』


   


     5月 25th, 2020  Posted 3:42 PM

ようやく「新型コロナウイルス」での緊急事態宣言が解除。
私はほとんど自宅にいますが、
時折、ワイフが食料を買い求めに出掛けます。
その時には、スーパーマーケットから
カメラ中継をしてくれて好きな物を選んだりしています。
そして、自宅から見える通天閣とアベノハルカス両方が点灯されました。
確かに大阪では、人混みがそれほどうるさくは無いようです。
そして、コロナウイルスについて段々と詳細が解ってきました。
肺炎よりも「血栓」であること、そして「D-ダイマーの機能」までが、
溶解されてきたようです。
私の専門が「血液」の基礎医学でしたから、
血液凝固の過程での「血栓」には、多少理解があります。
そして「D-ダイマーの機能」がくせ者です。
ともかく、症状である胸痛は、
「死」の瞬間まで「とても苦痛」だったろうと思います。


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『標高100メートル自宅からの2018年1月7日の遠景』


   


     1月 9th, 2018  Posted 12:00 AM

一昨日、七草粥の後にワイフから今年に入って一番遠景が見える、とのこと。
この自宅には2006年から入居。
入居すると、直ぐに金沢21世紀美術館にて、
私の個展、それも丁度デザイナー仕事30年の集大成で
「川崎和男展・いのち きもち かたち」を開催。
しかし、最終頃には「敗血症・多臓器不全」となりました。
それは重篤と言われ、私は3度目の死線にいました。
2018年1月7日の谷町から、アベノハルカスが遠景に見えています。
正直、大阪に来て住居がやっと見つかって入居すぐに重篤になったのです。
遠景に見えるアベノハルカスは、私があそこには近鉄デパートがあり、
浪人時代1年を暮らして居て、予備校時代に美術学校へと思いを変えました。
この写真からは、雲の様子がやや怪しげです。
この雲が一筋事に明確になれば、
私の予測では「地震雲」として予知が可能になります。
すでに南海トラフでの大地震と大津波予測がありますから、
ややこの雲状態ならば大丈夫かもしれないという予知です。
「人生69年目」ですが、生は死への過程であり、
それが南海トラフではないことと、
北朝鮮からの攻撃ではないこをを願います。


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『景観の遠景・近景というプロクセミクスデザイン論』


   


     6月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

車椅子の生活を余儀なくされて視覚は全く一定で視野が決定しています。
私は景観=光景・風景・情景のことを明確に伝えてきました。
そしてもっと重要なことは、その距離感の問題です。
具体的には、近景と遠景があります。
しかし「デザイン思考」程度で喧噪なプロのデザイナーやデザイン教育者、
彼らのように「コンシリエンスデザイン」を学ばない者には、
もはや未来のデザイン論や観と感を語ること、それは不可能です。
今夜見せるのは阪大附属病院のレストランから大阪市内の近景(左)と
遠景(右)にはアベノハルカスが見えます。
このレストランは大阪の有名ホテルチェーンですが、
私は常に注文料理がもう10年も変わっていませんからすぐに伝わります。
さてそこで重要な問題意識から問題認識の問題です。
それは「プロクセミクス」=距離感覚をまずデザイン界に投げかけてからも
全く意識いや認識されてきませんでした。
認識論では距離感の認識に対する知見性がデザイナー自身にあるかどうか、
これが大きな問題であり、それはデザイン思考では絶対に語れないのです。
改めて具体的にプロクセミクスを定義化すれば、
それは、親近感・親密感・親和感が、
モノとデザイン、だからこそ、
コトのデザインにもあるかどうかと言うことです。
その以前から景観としては、光景・風景・情景があります。
景観は景気に経済学的に連鎖していて、
原意としての、光景=自然の乾坤、光と闇、陰陽。
風景=日食・月食・彗星・雷鳴(暴風雨):自然と人間。
情景=人間と人間の人工物関係です。
こうしたコトを踏まえたモノとの関係。
この関係論としての距離感覚であるプロクセミクスはデザイン教育論は皆無。
これがデザイン界での大問題であり、
コンシリエンスデザインを私は打ち立てました。
いつも立ち寄る阪大病院のレストランからの近景はかつての世界万博跡地、
そして遠景には吹田から望める大阪市内が見えます。
この景観を覧る度に私は改めてプロクセミクス=Proxemicsを
これから強く主張していかなければなりません。

* 「スープの冷めない距離=身体空間は多次元性です」
* 「生老病死・身体空間性を見失うとき」
* 『新作007・ボンドカーでも確認できた曲線美』
* 「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


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『2015年が明けて自宅からあべのハルカスを臨む』


   


     1月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

自宅は大阪市谷町にあります。谷町だけれど海抜は高く28m程度。
したがって、32階トップに居るためにおおよそ120mから、
天王寺の通天閣からあべのハルカスを臨むことができます。
18歳の時は、天王寺で1年間浪人生活をしていましたから、
阿倍野には特別な思いがあり、毎日予備校に通いながらも、
近鉄デパートは予備校帰りの遊び場でした。
そこにあべのハルカスが建ちほこっています。
すでに大阪に住んで10年目になりますが行ったことがありません。
いつも、自宅から眺めているだけです。
32階ともなれば、相当に見晴らしがいいということになっていますが
私は、日本のいわゆる街の建築、そのいい加減な屋上づくり建設に
大がっかりしてしまいます。
私は、もし高層に住むとするならば、50階以上の高さが必要です。
でなければ、これから少なからず屋上の建築意匠は
徹底的に美しさが検討されるべきだと指摘しておきます。
さらに重大なのは消防自動車が消火につとめられる高さは11階まで、
だとするなら、その階以上の住人にとっての避難は、
停止したエレベーターは使えません。
私のマンション(日本ならではの呼称)にはヘリポートがありますが
使う事は不可能だと断言します。
理由はまず車イスの私はそのヘリポートには階段があり登れません。
また、この 10年、ヘリポートを利用した避難訓練、
それはヘリコプター訓練と住居者訓練が皆無だからです。
おそらく、日本の高層ビル屋上ヘリポートは使えないでしょう。
ならば米国流の50階からの避難用パラシュート製品開発が必要です。
今、危機解決学=コンシリエンスデザイン実務として、
高層ビル用のエレベーター=災害事に運用可能安全装置化と、
高層ビル避難用のパラシュート製品開発を急ぐべきだと提案します。


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