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Posts Tagged ‘「資本主義からの逃走」’


『資本主義からの逃走』
 「資本主義という経済・済民という民主主義」


   


     10月 11th, 2009  Posted 5:00 AM

「資本論」との距離感をより明確にしていくには、
「経世済民」という
四字熟語にその理念は
詰め込まれているのではないでしょうか。

「経済」という語は、
中国東晋(w)の書「抱朴子・外篇」葛洪(w)から
発せられた言葉だと言われています。

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「経世済民」=世を治め民を助ける、
という意味から考えれば、
「経済」は略語です。
略語では、意味そのものを部分解釈に
押し詰められて、拡大解釈を意図したものになりがちです。
だから、
要は、価値の貨幣的、労働的、階級的なシステム化に、
切り詰めた意味の短縮化は、意味の解説が誤解されるはずです。
それこそ「資本主義という直・経済システム」の領域限界語と
なってしまうことは仕方ありませんでした。
この領域での意味づけだけでは「済民」を決定づけられません。
そこで思考と手法・理念と手続きに
「民主主義」は理に重なったのでしょう。
「抱朴子」と前述した三つのヒントから、
私は、さらに、自分が読みあさってきた書物から、
「私という日本人としての原点」はどこか、
それを問い直し、原点回帰が期待できると考えてきました。


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『資本主義からの逃走』
 「日本人としての距離感・三つのヒントから」


   


     10月 10th, 2009  Posted 8:00 AM

「資本主義」は、経済体制システムとして、
その背景には「民主主義」が基盤であったことは
ほぼ全面的に認めることができます。
しかし、私はずーっと疑問を持ち続けてきました。
ところが、「民主主義」を超えるほど
有効な社会集団が穏健な日常生活をその体制に委ねる手法は
ありえなかったと言っていいでしょう。
常にみんなが言います。
「それは民主主義として・・・」
「民主主義的には・・・認めがたい」
という共同謀議的な結論です。
私は、共同謀議の決め言葉でしかない、と叫びたい
そんな思いにかられてきたと思っています。
ただし、「民主主義」を完全否定することも、
代替理念、確信、思想というものも
私には創出する技量・才能があると断言することはできません。
それでも、何か違和感をはき出せないのです。
おそらく、
それは、日本人としての
なんらかの原点が見つけ出せないからでしょう。
想像はできます。
私なりの憧憬的な言葉と自分なりの解釈です。
美・品格・倫理・義理・慈愛・慈悲・無・空・間など、
日本人としての感性と感情ではないかとイメージしています。
三つのヒントをあげておきます。

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世阿弥による「風姿花伝」
橋本左内の「啓発録」
そして、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」です。
この三つと「民衆主義」
さらに、「資本論」とのそれぞれの距離感です。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義で武装された企業内での民主主義の非在性」


   


     10月 9th, 2009  Posted 8:57 AM

マルクスの「資本主義」に対する指摘は、
必ずしも
社会主義・共産主義を絶賛したものではありません。
あらためて、
彼がエンゲルスに向けて作成したと言われている
「数学ノート=数学に関する遺稿集」は、
どこまで役だっていたのだろうかと、私は思います。
むしろ、社会主義・共産主義を煽動した指導者たち、
彼らのの個人性に「権力性」という欲望が
極めて吝嗇であったことに驚かざるを得ません。

そして、半世紀で見事に
権力者たらんとした彼らの欲望を露呈した結果が、
ソ連の崩壊であり、
ベルリンの壁の破壊を招いたというわけです。

だからと言って、
「資本主義」が社会主義・共産主義に
あたかも優っていたという勘違いを
今なおひきずっていることも大きな誤りであり、
不当な「資本主義の評価」だと私は考えています。
それは、本来「資本主義」で
武装した企業という集団には、
独裁制が平然と活性化してこそ、
企業の発展性がありました。
そして、その企業の基軸に「民主主義」は
まったく非在なことが多く見聞できます。


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『資本主義からの逃走』
 「マルクスによって護られた資本主義だった!」


   


     10月 8th, 2009  Posted 9:35 AM

「資本論」は、明らかに欲望の構図が二重性、
あるいは複層性をしていたことを明白にしています。
その欲望の構図を
マルクスは当初に指摘してしまったのです。

ある見方をすれば、
「資本主義」にとって、
マルクスの存在はとても幸運だったと思います。
なぜなら、
マルクスの「資本論」は、
「資本主義の欠落点や社会構造にとっての不都合性」を
明確にしていたわけです。
そこで、
「資本主義を強化」していくには、
マルクスの指摘はテキストであり、
マニュアルになったのです。
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如何に、
「資本主義」の進展や進歩を図っていくためには、
防衛を謀るべき事項を
マルクスの「資本論」に教示されたということです。
彼は「資本論」を
エンゲルスとともに体系化していくために、
エンゲルスに「数学ノート」を書き残しました。
それが、このブログの最初に紹介した「数学に関する遺稿集」
1949年に日本で紹介されたものです。
このノートの冒頭は、
「導関数」についてから始まります。
マルクスは、この導関数的考察を、
資本主義・対・共産主義、または、
資本主義・系・共産主義として、
比較検討することを自ら、
均衡性=バランス的批判をしなかったために、
「資本主義」を分解し非難しながら、
かえって、
「資本主義の防衛策略」を与えてしまっているのです。


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『資本主義からの逃走』
 「吝かさと悔いを時代主義に問う」


   


     10月 7th, 2009  Posted 9:00 AM

民主主義の「吝かさ」(やぶさかさ)とは、
正と善への態度です。
資本主義への「悔い」とは、
欲と損得の葛藤です。
それが、人間の人生の
「生老病死」と「喜怒哀楽」を制御してきたのでしょう。
果たして、
人は、輪廻転生していくのかということは、
私には不可思議不可解です。
ただし、
主義主張が時代を支配していることに覆われるなら、
私は、「生と正、欲と吝、老と善、そして、病と運」は
その支配している何らかの超・意志があることは信じます。

これは、「ことば」=ディスクールと
「まざざし」=アイポイントによって、
個々人の認識が、時代主義と対峙しているものと考えます。
「資本主義」にまとわりついていた欲望の構図
それを、ひょっとすれば、
「民主主義」は、「歴史を終わらせていた」
という言説はやはり大きな誤りでしょう。
ならば、
新たなイデオロギー、
この言説すら変容させる創造がデザインです。
それがデザインに求められていると判断しています。


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『資本主義からの逃走』
 「吉凶吝悔を記憶から・・・」


   


     10月 6th, 2009  Posted 9:29 AM

「吝」と「悔」という古代中国の要素概念=易経がありました。
この概念は、半分のみ、わが国では利用されてきました。
「吉凶吝悔」という四句が分断されて、
日常化してしまったのです。

いわゆる使い慣れてきた「占い」です。
「大吉・中吉・小吉とか大凶・中凶・小凶」です。
つまり乾坤陰陽に「吝」と「悔」があります。

私は、資本主義と民主主義をこの乾坤陰陽、
この易経的な東洋思想で見つめ直す必要を
今、もっとも感じています。
民主主義の「吝かさ」(やぶさかさ)と
資本主義への「悔い」(くい)を
再検討するのが日本の役割だと考えるからです。


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『資本主義からの逃走』
 「対暴力へは守主攻従の理論と実践=デザイン」


   


     10月 5th, 2009  Posted 12:06 PM

私は、民主主義への疑いも、
資本主義への不信も、明確に抱いています。

しかし、
一般的な「資本主義の暴力性」
という断言には賛同はできません。

それは、「暴力」と対決したことない人の言説だと考えます。
最近は、資本主義への批判として、
この発言があまりにも多いと直感するからです。
暴力という力には、慈悲慈愛が不二であり、
行学一如のデザインしか
ありえないことを私は主張しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「修の行学から、イデオロギーデザインへ」


   


     10月 4th, 2009  Posted 11:29 AM

 ● 私は、民主主義の欺瞞性は、
  「多数決」にもっと疑いを持っています。

 ● 私は、資本主義の正当性は、
  「差別化」経済論理に不信を持ってきました。

 たとえば、
資本主義での社会福祉行政などは
絶対に不可能であったのです。
競争原理では福祉は慈善事業でのみ可能です。
それは、A.スミス「見えざる手」に従えば、
資本主義を推し進めるほど、
「最大多数の最大幸福」とベンサムに言わせましたが、
これは嘘です。
「最小公倍数的」な少数派は、「自助独立」だけが、
資本主義社会で生き延びることが可能です。

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M.ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も
キリスト教条の強行を穏やかにさとされたものでした。
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日本の慈愛も慈悲もなかったのです。
それを私たち、日本人はなぜ信用してしまったのでしょうか。

「戦後民主主義」に、
私は本当になじめなったかとことを告白しておきます。
私は歴史となっている「東京裁判」を
あらためて、見直すべきだと考えています。

「明号作戦」(wikipeadia)が、
どれほど東アジアを開放したかを私はここで書き残します。
それが、「修・行学としてのデザイン」です。
私が日本人デザイナーとしての、基礎的なイデオロギーなのです。


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『資本主義からの逃走』
 「修への行学から、守・破・離への勇気」


   


     10月 3rd, 2009  Posted 2:10 PM

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「守・破・離」は、
「風姿花伝」・花伝書は世阿弥が書き残した奥義書です。
伝統から革新、
そして創造への日本の極意だと思っています。
私は、「修・破・離」という
自分なりの解釈と行動を目指してきました。

その根底には、
少なからず敗戦によって与えられた民主主義、
私は、これまで怒りにも似た疑惑を閉ざさるを得なかったのです。
その哀しみへ、常に洞察を繰り返してきました。
しかも、
その上に、あたかも資本主義がその欺瞞さを隠して、
「正当」ぶっていることを、
いづれ、
私は「破・離」するまで、
私の行学への修練と精進を蓄積してきたことはかなり自負できます。

もう、民主主義を破壊し、
資本主義から離脱する日本へと転換する勇気の時がきました。
マルクスに染まった輩に拷問を与え、
政教を重ね隠した輩に死の宣告をしたいのです。
それが、自虐史観者への挽歌になるでしょう。
「お国のため」と、
あまりにも無垢純粋に、
命を捧げた人々へのレクイエムとしてのデザインを始めます。


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『資本主義からの逃走』
 「決意は、伝統回帰と脱回帰の『失』均衡」


   


     10月 2nd, 2009  Posted 9:41 PM


風神雷神図 (俵屋宗達)

「失」のごときを与えた戦勝者たちへ、
反撃を開始すべきでしょう。
私は、「自虐史観」は廃棄すべきだと思います。
第2章憲法9条からでは無くて、
第3章すべてからをまず論議する
というインテリジェンスを育成すべきでしょう。
日本の美学としての
「失」は「無」へ回帰し、
脱回帰は、「脱構築」以上の思考理念が
すでに醸成されていたということです。
 
 ●不自由であることに
  日本は美学を配置するたおやかさを
  伝統意識にしています。
 ●人は平等でなどありえないわけです。
 ●人は差別に無頓着です。
 ●わが国には、愛よりも慈愛があります。
 ●慈愛と慈悲が
  思いやりのバランスを創ります。
 ●わが国の暴力性は、
  完全に封鎖されてきました。
  それが、「武士道」だったのです。

だから、もう、
「破・民主主義」と「離・資本主義」を
私たちは創出する時期に
佇んでいると考えましょう。

風神雷神図 (尾形光琳)


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