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Posts Tagged ‘イメージ’


10月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 1st, 2011  Posted 10:04 PM

10月1日 先勝(己丑)

通常なら、
デザイナーというのは、
イマジネーションを
何とか沸き立たせて、考え抜いて、
その結果一枚の紙に
そのイメージをスケッチで
描き出すものだと思われている。

もちろん、その手法もある。
しかし、私は、この方法では、
プロとはいえないと思っている。

『デザインという先手』志


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9月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 21st, 2011  Posted 10:00 AM

9月21日 先勝(己卯)

イメージを蓄積してから
スケッチを描き出すことは
発想の手法ではない。

私の場合は、
イメージを考えてから
スケッチを描くのではなくて、
スケッチを描くことから発想が始まる。

『デザインという先手』志


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「資本主義からの逃走」
   「企業C.I.ロゴタイプは、まさしくシンボル」


   


     2月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

象徴としての企業ロゴタイプ
企業ロゴタイプは企業C.I.のシンボルです。
40年間の私の経験値で、
企業ロゴタイプのデザインは、まさしく象徴です。
企業を象徴しているというのは、
イメージから成長度、利益度、組織力程度までを表現しているということです
最近は、感心するようなロゴデザインだったのに、企業都合で突然変更された時には、
その企業の発展事情、その危険度を直感することがあります。
まずい変更デザインは必ず企業危機に陥ります。
まったくデザインとして完成度の無いロゴタイプになると、必ずその企業は没落していくものです。
企業理念の継承と革新=ロゴタイプデザイン
企業成長には、30年説、100年説があります。
日本には実際、300年以上の企業体が605社(帝国データバンク2010)もあります。
そのほとんどが「オーナー企業=同族経営」です。同族経営は理念を失ったときに崩壊します。
だから、連綿とした企業理念があり、その伝統継承と、常に創造的、革新的な経営が必要です。
そうした企業理念の共通事項には、
すべからく、「企業の社会貢献優先・社会への利益還元主義」が貫かれた企業は永続性があります。
無論、企業シンボルのマークやロゴタイプ・商標は変わっていません。
ロゴタイプの視覚的ルール
80年代にはC.I.ブームがありました。まるで、広告手法や宣伝方式でしかありませんでした。
当時、ふるさと福井でフリーだった私には、デザイン依頼や相談が持ち込まれました。
私が最も心がけたのは、「新規デザインをするか、しないか」を決めることでした。
創立時のマークやロゴを、イメージを変えずに視覚修正したものが多くあります。
新規デザインをする場合、特に欧文ロゴタイプについては、
徹底的に伝統的なレタリングルール・法則にこだわりました。
最近は、レタリングルールを「創作」という言い訳にしてしまって、
まったくルールや法則性が狂ったデザイン氾濫があります。
そうして、そのようなロゴタイプ・シンボルに変更した企業は、
必ず企業存続・企業存在が無くなっていくものです。
ある意味では、「姓名判断」的な「ロゴタイプ判断」が可能ではないかとすら思うことがあります。
企業C.I.のロゴタイプやマークは、企業の象徴性=シンボルが明示されているものです。


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11月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 13th, 2010  Posted 11:01 AM

11月13日 大安(丁卯)

イメージは、言語世界の中で
モルフェーとなっていくものである。
言語世界を超越する修証として、
道元の言語道断という公案こそ、
ことばとかたちの中で
人間が生きる手だてだと
私は自分に言い聞かせてきた。

『デザインは言語道断』あとがき


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6月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 2nd, 2010  Posted 1:35 PM

6月2日 大安(癸未)

デザイナーが収集すべき最も重要なものは
「イメージ」である。

これをどのように
保存し、蓄積し、整理をしておくかが、
デザイナーの能力を決定する。

『デザイナーは喧嘩師であれ』収集数奇


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5月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 20th, 2010  Posted 9:04 PM

5月20日 仏滅(庚午)

「モノが投影された図像が透視図である。」

ということは、
何が投影されたのか、別の言い方をするなら、
積極的には何をイメージとして
投影するかということが問題になる。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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4月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 28th, 2010  Posted 1:40 AM

4月27日 仏滅(丁未)

ビジュアル性における
「量感」が、
その人のイメージを
とにかく決定してしまう。

『デザインは言語道断』量感


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『資本主義からの逃走』
「*ファッション、モード、そしてデザインの使命*」


   


     4月 16th, 2010  Posted 12:28 AM

MODE
ファッションは単なる「外見」ではありません。
それは言うまでもないことだったと思います。
けれども、
「外観」までを包括している現代思想表現だと言っておきたいのです。
そうして、外観からの内実性を「モード」としたのは、
ロラン・バルトの「体系化」論でした。
私はこれをファッションとモードの「イオン化傾向」的思考、
そう考えてきました。
流行
したがって、この「イオン化傾向」の急変さや突然さが「流行」であり、
流行のレトリックにモードを構造化できるとも読んできたのです。
具体的には、流行による「外見」から、「外観」を認識します。
さらに「外観」からその内実に迫れば、
ファッション的なモノの本質に近づくことができるかもしれません。
これがデザインとファッション、デザインとモードを、
ひょっとすれば接合や融合や、あるいは合体させてくれるかも知れません。
そんな思考方法が必ずあると考えてきました。
なぜなら、デザインで流行を拒絶させたい、
そんな意志が生まれることもあるからです。
つまり、流行であるから、
そんなに驚喜していることは狂喜に近いという
冷静さが知性だとさえ思うのです。
また真逆に、流行を常に追い求めないと、
いわば大衆的な欲望の本質が読み取れない。
こんなことも容認しておかなければなりません。
しかし、いづれの判断もロラン・バルト的には
「モードの体系」に組み込まれているのです。
結局、それは人間の価値感の変動、
それは「景気」と同次元なことが多いと考えられるからです。
これは明らかにモードであり、
社会の変動をコードとしてテキスト化することへの抵抗を、
人間は「自由意志」として持っているということです。
CODE
「景気」予測は決して「コードの体系」、
たとえば、経済学、あるいはそれこそ「資本論」など、
そうしたところに記述されたことから感じとることはできないのです。
理由は簡単です。「快楽性」が皆無だからです。
しかし、ファッション、モード、ひょっとしてデザインには、
「快楽性」・「快適性」は必ず潜んでいます。
デザインは、決して「コード」を創出する営為ではありませんでした。
しかし、デザイン対象を拡大するとすれば、
「コード」≒制度設計は確実に存在します。
ファッションとして言い直せば、
モードとしてのカジュアル性に対して、
コードとしてのフォーマル性があるということです。
したがって、デザインの本質は、
この均衡状態を見いだすことだとさえ私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションは、”外観”だが、”外見”という軽さ*」


   


     4月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

外観と外見
DesignとFashionがなぜ、一直線なのでしょうか。
これはなんとなくわかる気がするのです。
それはズバリ、「外観」=見栄えということが、
たとえば、服装のセンスだとか、そこから始まって、
遂には、企業のイメージ、というのも「外観」だと思うからです。
「外観」という言葉に詰め込まれている、本当は充実した中身ではなく、
「外観」だから外側だけという印象があります。
言葉を比べてみるとわかりやすいかも知れません。
「外見」と「外観」です。
時に、次のような言い方があります。
「人を外見で判断してはいけない」というような言い方です。
この忠告があるということは、
人間は「外見」で判断していることが極めて多いということです。
しかし、「外観」というのは、建築ではこの言葉はよく使われます。
「建築外観」、つまり、建設されて出来上がった形を言います。
この場合は決して、「建築外見」とは言いません。
外側を「見る」というのは視覚的に限られますが、
外側を「観る」というのは、
外側からの視覚的な印象をさらに深く洞察するのでしょう。
もし、建築家の方に、
「作品の外見が・・・」とか言うのは失礼でしょう。
というわけで、実は、
ファションは「外見」ということに近い気がします。
デザイナーになって以来、
今でも「デザインって、外見づくりでしょ」ということは
よく耳にします。
だから「外見づくりが、人工心臓?、原子力?、なぜ?」
「メガネ?、それはよくわかる」という体験をしてきました。
ファッションは「外見」に拘ってきたことかもしれません。
しかし、「ボロは着てても心は錦!」というフレーズがあるくらいです。
ファッションの意味性
ファッション」の意味と意義は、
資本主義と民主主義で大きく変わっていったのです。
「ファッション都市」という地方活性化などは、
現代性や共時性を地方に呼び込むことで、
経済と文化を実りあるもの、
「外見」というようなイメージから「外観」というイメージに
大きく変革する政策だったのです。
無論、この政策の成功例はありませんでした。
それは、ファッション=「外観」ならば「内観」は?
「何が内観となって」、
それはファッションの反事象なのだろうか、
この問いかけが皆無だったからです。
結局、「外見」と「外観」を区別し分別する知性対象に、
ファッションはなりえなかったのです。
ファッションが「外観という内実性」を指示した言葉がありました。
MODE
それは、「モード」だったのです。
ファッションとモードには、
いわば「イオン化傾向」のようなものを、
突き詰めて現代を観る思想が登場してくるというわけです。


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3月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 18th, 2010  Posted 11:50 PM

3月18日 仏滅(丁卯)

製図の技は、
三次元の立体イメージを
ハードラインで正確に二次元に
表現することである。

そして、その製図を読み取った結果を、
モノとして現前化=プレゼンスする。

「イメージ=バーチャルな世界と
プレゼンスリアリティをつなぐ」
メディアが図面にほかならない。

『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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