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Posts Tagged ‘資本主義からの逃走’


『資本主義からの逃走』
  「生産と消費、その資本主義の構造化の破壊」


   


     12月 18th, 2009  Posted 10:00 AM

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「生産」と「消費」の世界で、
大量生産と大衆消費の構造に私は生息していました。
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私はすでに資本主義に何の疑いもためらいも無く、
大企業で社会人デザイナーとなりました。
ただ、その企業が儲けるよりも、
自分の提案デザインが、
「商品化」されることに驚喜していました。
そんな私ですら、「生産」と「消費」の構造の中で、
「デザインは付加価値」ということに対して
やり切れない憤りがありました。
もっと賢明なデザイナーとしての発言力を持ちたい、
その想いをぶつけたのが、
構造主義、記号論、マルクスの形態価値論に出会います。
ミシェル・フーコーに出会います。
ジャン・ボードリヤール
の批判に、「かたち」で、
この思想と対決したい。
ソシュールモーリス・メルロー=ポンティデリダ、のとめどなく
深い思考の森の中に入っていきました。
この森の中でも、せっせと「モノのデザイン」は、
決して、「付加価値を生み出しているのでは無い」という
直感を信じていました。
おそらく、私にその啓示がめぐってきたのは、
「言葉と物」、「物の体系」をはじめとするどこかで、
マルクス臭のある論策でした。
結果、
結論は、「デザインは付加価値では無い」ということ。
「デザインは全体価値」、
だから、
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であったデザインをどう解放し、
その証拠立てをしていくことだったと思い返しています。
point of contactという「生産」と「消費」の結合点に、
デザインを配置し直そうとしましたが、
すでに、時代は、「生産」して「消費」することが、
どれほど、今度は私たち自身の「存続」、
地球環境の破壊が私たちを取り囲んでしまったわけです。
それでも
●「欲望」あるいは「フェティシズム」は、誘惑的です。
●「希望」あるいは「ダンディズム」は、魅力的です。
そうした私が障がい者になって、思い知らされたことは、
「喜怒哀楽」でした。
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には、「医学」と「デザイン」によって、
「生」と「死」を
根底から見つめ直すことでした。


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『資本主義からの逃走』
 *「歌を忘れたカナリヤだったのかもしれません」*


   


     12月 17th, 2009  Posted 10:00 AM

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デザイン界と建築界は、
歌を忘れたカナリヤだったと、つくづく思います。

● まず今年のデザイン界で、
「やられたなー!」と思う作品=製品は、
ほとんど、まったく見つけることができませんでした。
展覧会も、あいかわらずの「形式」で「ごっこ」です。

● 建築界は、世界コンペで勝つことができません。
コンペで勝てる建築家は限られてしまっています。

デザインは未だに「かたち造形」でしかありません。
「かっこいいかな的」なモノは「玩物志向」です。
だから、ケータイも、家電も、情報機器も、
アジアからはあまり警戒も、尊敬もされません。

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●「歌を忘れた」というのは、
「実装設計と素材設計」にデザイナーの主導力無しです。
実装もこだわりました、なんて言うのですが、
みすぼらしくてとても評価できません。

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建築は、コンペに勝てないから、
日本の建設業が関われない、ということになります。
設備設計も敗北し日本製品でその建築は装備できません。

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結局、「都市計画」が「環境デザイン」という
とても救いがたい名称に変更したことが大失敗なんです。
かくいう私は、といわれそうですが、
今年は間に合いませんでした。

来春・来夏・来秋に、「成果」=「歌」が唱えるでしょう。
実装設計・素材設計・都市設計に来年は、
日本だから、やっぱり「出来てしまう」ことを
証明しないと、この不況からは脱出できません。
精進と修練の成果をめざしましょう!


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『資本主義からの逃走』
  「資本論の、指摘不足と現代性との剥離」


   


     12月 4th, 2009  Posted 9:38 AM

「資本論」はとても魅力あふれる論理です。
その魅力はマルクスとエンゲルスの才能の成果だと思います。
しかし、私は、「資本論」では、
重大なキーワードでまったく皆無な言葉があることと、
この言葉への深い洞察があってほしかったと思います。

たとえば、「生産」という言葉は重大なキーワードです。
しかし、
「生産」と技術の関係では「設計」の論理が皆無であり、
「精神的生産」という重大な言葉に「安価」な生産、
その記述がありますが、思量不足を感じています。
それはなぜかということになります。
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最近、経済学者や経済評論家の方々は、
とりわけ、日本は「モノづくり」の国家論を喧伝します。
しかし彼らに、
「モノづくり」の根本や経験が欠落しているのですから、
それは「空論」になることは当然です。
私は、「資本論」の魅力を十分に感じるのは、
マルクス、エンゲルスが、結局指摘不足だったことです。
モノづくり=生産にとって、
現代性との剥離を見つけるたびに、
私のデザインを強化することができるのです。
なおかつ、
私のデザインが、必ず、「資本主義から逃走」可能、
そのことを強く認識しているのです。
明らかに、モノづくりには「安価」なモノは必要です。
この「安価」な生産性を「資本論」は、
指摘しているのですが洞察不足過ぎるのです。
その周辺論理への思考は、
「モノづくり」の無経験さが満ちあふれているだけに
私には魅力的なのです。


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『資本主義からの逃走』
  「デザインやアートに、民主主義は似合わないというトポロジー」


   


     11月 10th, 2009  Posted 10:09 AM

現実、デザイン、そしてアートが社会化される社会は、
民主主義が構築されている日常です。
しかし、デザイナーにしても、アーティストにしても、
その「個人性」には、主義としての民主性は皆無です。
民主主義的な決定はありえないと、私は思っています。
これは、民主主義と個人性の距離=近さへの思考です。
数理的には、「近さ」というトポロジー的観念と、
私は断言することができます。

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つまり、民主主義を位相空間的にとらえるという、
きわめて私流というか、私の特異性に起因しています。
私は、前述しました。
民主主義をずーっと疑ってきたことを告白しました。
「多数決」という基盤的な型論理でした。
民主主義には、もう一つの型論理があります。
「合意形成」です。
私はこの「合意形成」にも、自分は賛同できません。
それは、
デザインを「多数決」でとか、「合意形成」での、
決定論に持ち込むことなどは、不可能だからです。
むしろ、デザインもアートも、「独断的決定」です。
この「独断的決定」が、「民主主義」の日常との接点、
これがなぜ有効となっていくのかというのは、
「トポロジー」=位相空間的な思考解釈が必要です。
この意志決定論に異議申し立てをしたのが、
カタスロフィー理論であり、
「トポロジーを全否定」した人物の思考に遡及する、
ということになります。

民主主義が構築された社会の日常に、
独断的なデザイン・アートが、なぜ不可欠なのかを、
その理論を創出する時期が今世紀だとさえ思っています。


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