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Posts Tagged ‘デザイン’


『12月28日・2014年の忘年会』


   


     12月 29th, 2014  Posted 12:15 AM

毎年の忘年会は、大阪大学の石黒教授(アンドロイドロボット)と
東京大学の生田教授(マイクロロボット)でしたが、
今年は、私の従弟(宇宙開発・元JAXA役員現JAXA系企業社長)と
私の出版関係を昔の連載からこれからの出版や講演企画の中筋氏、
そして、
なかなか会えないけれど兵庫県立美術館の蓑館長も気楽に加わり開催。
全料理はワイフがデザートまですべてをこなしてくれました。
話題は、宇宙の話からロボットから建築、美術と放映できるほど多彩。
これほどのメンバーで話せば、政治も宇宙も経済もとほとんどの
話題に事欠かないほどでした。
明日は石黒教授のアンドロイドの特番が放送だとか、
蓑館長の対談本出版、そしてマイクロロボット展をやるなら、
電子顕微鏡が何台必要になるとか。
私と石黒教授は、どうしても危ないと思われる機器の開発。
来春から、私の講座に准教授クラスの人物が欲しいことなどを
東大・阪大に公募したいとかで、おそらく話はつきなくなります。
そういえば、お互いメールはしあっていてもなかなか会えないので、
来年こそはもっと会いたいし、それぞれの対談講演をとかを
中筋氏にイベント企画をお願いしました。
ワイフがどうしても聞きたいという宇宙の話は、従弟が、
これは確かで、それはほぼ物語と決着をつけてくれました。
3.11直後から、この復興計画でのデザインアイディアは必ず、
従弟(信頼安全性工学の第一人者)に聞くことができます。
そして、いつ聞いてもすごくて面白いのは、ハーバード大学での
蓑館長のPh.D.考査の美術史問題やそのインテリジェントな回答法。
来年はまずこのメンバーそれぞれの講演を私は開催するつもりです。
なぜなら、アート・宇宙・ロボット・デザインは
おそらくもう22世紀の話をしていくことになると思うからです。
その前に、東京オリンピックをなんとしても無事開催したいと
全員が思っていました。

左から
中筋氏
生田教授
川崎和男
石黒教授
川崎ひろこ
蓑豊氏・兵庫県立美術館館長
いとこ:長谷川秀夫氏


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12月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

12月22日 丁卯(大安)

工学も
その他の学術が語れない専門家は
すぐに「デザイン」を取り込む。
そして、
デザインへの安易さは。
専門が語れないだけに、
もっと悲惨なデザインのような、
「何とかデザイナー」を自称している。

川崎和男「強い人間弱い人間」


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『エトルリアという国家で生まれた言語=ラテン語』


   


     12月 3rd, 2014  Posted 1:30 AM

デザイナーという職能になって以来、
デザインという言葉に取り憑かれて生きてきた気がします。
designとはdesignareというラテン語が原語だということから、
その言葉をつくりだしたエトルリア人=エトルリアという都市国家と
その人たちの言葉であるラテン語がどれだけ美しい言葉だったかは、
オウィディウスの詩集には、その韻律が今なお残っています。
私たち日本人には、ラテン語という原語である言語は、
全く教育されていないことが残念至極だと私は思っています。
もし、私たちが英語学習の前に、ラテン語を少しでも学習すれば、
英語教育は大きく変わっていたと私は思ってしまいます。
最近は幼少期から英語というこの考え方に、
私は大きな疑問を持っています。
まず、エトルリアという都市国家の存在は、大学を最初に発想し、
ラテン語を紀元前8世紀〜1世紀には、この言語体系があったから、
やがて、欧州の様々な言語に流れていくことになるわけです。
なんといっても、designareは、do+sign=designになったことです。
do signとはそのまま「目印をつける」という言葉を生み出します。
それは見えて区別することですが、
思考そのものへの目印という意味は、思考決着にいたること、
それは分別をつけることであり、表面的にはどうしても装飾を
引き出すことが、戦後の日本には洋装・ファッションの用語意味が
強調されたがゆえに、装飾は意匠となり、やがては思考決着である
設計に至ってしまったのかもしれません。
したがって、21世紀に入ると、中国がデザインを設計から策略とした
このdesign訳語は日本のデザイン訳語を乗りこえてしまったことです。
比して、台湾が資源とした訳語も私は正解だったと思っています。
オウィディウスとゲーテとの友情関係などを
私はデザイナーになって、ラテン語を追いかけていくとき、
彼らの関係を知ってとても驚愕したものです。
それこそ知的なエトルリア人をもっと知りたいと思った動機でした。
designという言葉が、私をこの国家の知性まで引き込んだことは、
どれほど大きな幸運だったかと思っている次第です。


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12月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 2nd, 2014  Posted 12:20 AM

12月2日 丁未(友引)

アートだ、デザインだ、
メディアアートだ、
なんとかアートだ、

デザインだ、って騒がしい者、
彼らが主張する作品に
私は厳しい見方をしている。

そのほとんどを否定することができる。

川崎和男「喧嘩道」


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12月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 1st, 2014  Posted 12:00 AM

12月2日 丁未(友引)

アートだ、デザインだ、
メディアアートだ、
なんとかアートだ、

デザインだ、って騒がしい者、
彼らが主張する作品に
私は厳しい見方をしている。

そのほとんどを否定することができる。

川崎和男「喧嘩道」


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『ロボットに工学設計はあってもデザインされていない』


   


     11月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

ロボットと名辞されれば、それこそが未来的という風潮があります。
是非とも、ボードリアールの「物の体系」を読破していただきたい。
工学的な設計だけであって、デザイン、デザイン思考が皆無です。
つまり、ロボットには、1970年にはすでに「不気味の谷」という、
機械と人間の外観的な感情反応の仮説がありました。
こうした仮説を科学的ではないという批判者がいましたが、
私は明確なロボットの機械性と人間性の外観性からの印象を
指し示した代表的な論理として、この論説は正解だと思っています。
むしろ、1970年代の論理を、すでに21世紀の現代、
ロボット学者たちは、読み間違えている気がしてなりません。
デザイナーのロボット設計は大勘違いしていることが明らかです。
工学的な設計がロボットデザインだという勘違いを横行させた原因。
その結果が、オモチャ形態=玩具で済ませてしまったことや、
ロボット外観だけをトレースして、Padを持っているのでは、
ロボット定義そのものが未来性を持っていないことは明らかです。
ロボットそのモノが工学設計で不気味さを纏ってしまっているのです。
それならば、私は未だにロボットは玩具以上のモノではないとさえ、
強く認識していますから、玩具であるだけで充分です、
ヒューマノイドもメカノイドも、この融合点を見い出していません。
かってロボット学会でこの講演をして表彰されたこともあります。
私はこの「不気味の谷」の森政弘先生の講義も受けていますし、
周囲には敬愛する著名なロボット学者も居て直に話も聞いています。
それだけにいい加減なロボットデザインは激しく批判するつもりです。
不気味の谷を私はもう一つの読み方をしたいと考えています。
それは、機械への感受性を最高にしたときに、見事に、
工学設計でのロボットや、知性無きデザイナーのロボットには、
不気味どころか、非在すべきロボットの墓場、
その場所設定が出来るとさえ考えています。

『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
「Nomenclator・ロボット、GUIからAUIへの提示」


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11月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

11月21日 丙申(先勝)

見逃せない輩には
なんといっても、
喧嘩という高尚な仕掛けは無用である。

喧嘩するより、
その前に私は
次のような発言をすることにしている。

「高校時代だったら、絶対に殴っていた」と。

喧嘩とは、とても知的で高尚な行為である。

川崎和男「喧嘩道」


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11月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

11月20日 乙未(赤口)

デザインを職能にしようとして
デザインを学んでいるにもかかわらず、
その成果無き者は
将来性がもうわかってしまうほどに
私はデザイナー経験者である。

したがって、
もう「辞めるべきだ」という資質は見える。
だから、私は早めに伝えることにしている。

無論、この程度は喧嘩を売るべき相手ではないが、
そのフリをしている。

川崎和男「喧嘩道」


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11月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

11月17日 壬辰(先負)

喧嘩は戦争ではない。
喧嘩には武力が必要だ。
しかし、
戦争の武力=武器ではない。

喧嘩の武力とは、
策略、
デザインである。

川崎和男「喧嘩道」


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11月07日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

11月07日 壬午(大安)

私は40余年、
デザインとデコレーションの違いを
いつも語ってきたと思う。

最大の理由は、
「デザインは機能だよね」という、
この発言を苦々しく思ってきたことだ。

デザインは問題解決の、その実務であり、
性能
効能を語って、
それから
機能である。

「機能論」はギリシアの哲学論、
その時代から語られている。

最近は、簡単に機能と言ったら、
確実に、私の喧嘩相手である。

川崎和男「喧嘩道」


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