kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘行為’


6月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 28th, 2011  Posted 10:00 AM

6月28日 先勝(甲寅)

ものづくりとは、
農作物、酪農品、
そして当然ながら工業製品まで、
人間がいわば人工的に産出する行為である。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「現代文房具はどうして面白いのか」


   


     6月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

文房具は、私はなぜか好きです。
おそらく嫌いな人はいないでしょう。
そして、文房具の種類は圧倒的に膨大。
これは文化と直結しているモノの大体系です。
「書く」という行為、
人間が表現をする「書く」という所作を取り囲んでいます。
基本は、「紙」と「鉛筆」、消しゴムであり、
やがて、紙周辺、鉛筆の進化、
書いても訂正するというためのモノに広がっています。
そして、さらに電子化と情報処理が加わって、
文房具のアイテムは格段に増殖している世界に私たちは居ます。
「鉛筆」というモノの発明が、
私たちが表現する世界をさらに拡大し、
表現された事を記録し、残していく所作の道具や器具も、
文房具になっていくわけです。
あらゆる鉛筆への興味は、
筆からペン、万年筆、さらには電子ペン、
それらが趣味収集の対象にしているの事が、
私の生涯をすべからく表していると言ってもいいわけです。
ちなみに、私はどんな服装の時でも、
「ペンの類」が無いと不安になります。
だから、ちょっとした外出でも、
それに見合ったペン=ボールペンなり万年筆を携帯します。
出張ともなれば、万年筆は使わずとも6本は選びます。
万年筆の新製品には心を奪われます。
そして実は、万年筆の軸がプラスチックの場合、
このレジンの流行がメガネフレームの流行と連動していることを
知っている人はいないのではないかと思っています。

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5月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 27th, 2011  Posted 10:32 AM

5月27日 仏滅(壬午)

デザインこそ、
時代を読み取り、次の時代を引き込んだり、
誘発する創造的な行為であると
確信している。

これを逆読みすれば、
「先手を討っていない」ような創造行為を
デザインと呼ぶわけにはいかない。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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7月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 1st, 2010  Posted 11:50 PM

7月1日 赤口(壬子)

「物」と対峙する概念が「文」である。

この相互関係は、
私がデザインについて語る際に
「かたち=物」と「ことば=文」を
相対化する行為と一致している。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
 「ケータイを焦点化するエスノメソドロジー」


   


     3月 16th, 2010  Posted 1:56 AM

Ethnomethodology
「エスノメソドロジー」という学域を知ってから、
すでにどのくらいでしょうか。
人間が無自覚でも、認知と行為の接点ということを、
ミクロな社会学という観点は、デザインサーヴェイでしょう。
私はそうした接点を「Point of Contact 」と呼びます。
しかも、認知と行為を「会話」という関係論で、
ということは、まさに、Point of Contact=ケータイです。
「会話」は確実に、
人間関係=社会学的な存在関係を決定しています。
そのツールであり、メディアでもあるケータイを定義可能です。
現代、「無くてはならないモノ」がケータイであり、
「無くても一向に構わないモノ」もケータイといわれています。
つまり、日常生活での、関心と無関心との両面性あるモノです。
しかし、すでに現代人にとって、ケータイの存在は、
明らかに、自分の人間関係はもちろんですが、
PC機能も統合化されて、
自分の能力の支援すら果たしてくれるモノとなってきました。

● 実在性
● 機能性
● 構造性
● 象徴性

これは、ケータイが日常生活に登場し「実在性」となり、
さらに「機能性」の拡大が始まりました。
今ではすっかり、認知と行為の「構造性」が、
Smart Phoneに進化していると考えることができます。
今では、「どこのケータイを使っているか」という、
その使用者の「象徴性」に至ろうとしているモノなのです。
作法性
それだけに、モノとしての形態から、
所有性と使用性への、認知と行為、すなわち「作法性」は、
現代の民俗的意味性、「エスノメソドロジー」という社会学、
その代表的な対象になってきています。
したがって、ケータイの形態という意味性は重大です。


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『資本主義からの逃走』
 「商品・売ることと、買うことについて」


   


     3月 7th, 2010  Posted 2:21 PM

売る

もう一度確認しておきましょう。
商人は、「売る」ということが商いの基盤だったのです。
そこで次のようなことも考えられます。
たとえば、「国を売る」=これを売国奴と言います。
これほど相手の人間性を罵る言葉はありません。
「友を売る」という言い方もあります。
これは友人を裏切るという意味合いです。
いづれにしても「売る」というイメージには、
悪い印象がつきまとうことになります。
西洋でも、「ユダヤの商法」と言われるように、
ユダヤ人が「商売」に長けていることから、
基本的には、
ユダヤ人に対しても、
「ユダヤの商法」にはどこか不信感がつきまとっていて、
「売る」という行為にはその侮蔑感が残っています。

買う

ところが反対に、「買う」という言葉には、
良いイメージがあります。
「あの人物を買う」とか、
「才能を買う」という具合に、
「買う」ということの正当性が強調されているのです。
あらためて、「売買」ということの関係性を歴史の系譜、
時代的に、社会的に、
見直しておく「売買」関係のヒントでしょう。
「売る商品」とか「売れる商品」という言い方があります。
これは「買う」対象、
すなわち「買う」価値というのが、
どれだけ「商品」に備わっているか、
ということになります。 
これは、「商品計画」につながっていきます。 

「製品」と「商品」

さて、こうして「商品」という言葉が、
古代中国・殷=商の時代から綿々と使われてきたこと、
その奥深さ知っておく必要があるのです。
そうすれば、「商品」や「商売」の根本を、
歴史から再認識できるはずだと私は思っています。
これで、「製品」と「商品」には、
大きな違い、差異性があることは、
十分に理解していただけたのではないでしょうか。
「製品デザイン」と「商品デザイン」の
隔たりを確認してください。


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