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「言語系は、聞くことと見ること・その相対論」


   


     11月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

新たなモノづくりとは、
「ことば」と「かたち」の相対論上にあると思っています。
したがって、私が現在、
日本の「モノづくり」は、商品産業経済論から開放されるべきと
主張する図式を掲げておきます。
「ことば」は、
「聞く」こと=音声で概念と意味性を了解することが出来ます。
また、一方では、
「かたち」は、
「見る」こと=形象で概念と意味性を認知することが出来ます。
無論、「ことば」を読み、「かたち」を読むというのは、
「読む」という認識への深度を深めていく理解性です。
だから、ことばもかたちも「読める」能力は、
人間としての理解力の程度を決定していることだと考えます。
そこで、私は、90年前にソシュールが「言語学」を構造主義的に、
あるいは記号論的に語ったことはとても重要なことだと考えます。
なぜなら、彼の著作は無く、
彼の講義録「一般言語学講義」を
テキストにすることを一つの方法だと思ってきました。
その結果が、ラング=辞書的言語・パロール=会話的言語を、
そのまま置換して、デザイン言語論として展開してきました。
それが、造形言語と形態言語です。
日本のモノづくりを商品づくりから製品記号論的に転換を求めています。
この主張はきっと私が職能家・デザイナーとして、
最期にたどり着いた
私の「ことば」と「かたち」の相対論だと断言しておきます。
大阪大学での講義をそのままに、
名古屋工大、そして多摩美大でも
今年最終の講義内容にしたいと思っています。
だから、30日には、
元スタッフや教え子たちにも
多摩美大での講義に参集してもらいたいと願っている次第です。
この相対論を決定づける事例は相当に収集しました。
結果、今、日本の企業が新商品として喧伝しているモノが
いかに産業経済を疲弊させているかも明らかです。
それなら、私のデザイン活動はどうなのかも、
自らの未来づくりの事例としてショーアップすることを約束します。


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「連塾・最終回=10年を語る前に、松岡正剛という『ち』」


   


     5月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

「連塾」の指南者、
松岡正剛は10年を彼らしく「切断」しました。
10年間この「連塾」を率いた彼について、
いつの日かという彼の前での「私純情」を語るときが来たと思います。
1991年、箱根の「強羅花壇」で私は彼と出会いました。
箱根で「国際マルチメディア会議」がありました。
Apple社・ジョンスカリー会長が全世界から、
当時のコンピューター専門家から企業トップを集めた会議でした。
三日間缶詰での会議でした。
懇親会は「強羅花壇」が会場であり、
現マクドナルド社長の原田氏が営業本部長として総括されました。
民間からは私と松岡氏、そしてA氏(元官僚)B氏(作曲家)4名。
私はスカリー会長の直属デザインコンサルタントでしたから、
この会議中も、会議の合間にデザインモデルのプレゼンをしていました。
懇親会もどこまでお金がかかっているのかという盛大さでした。
ところが、和室に入れなかった私が別会場に一人の時、
松岡氏が入ってこられたのです。
(この人が『遊』の編集長だ!、やっと会えた)
そんな感慨と、『遊』の超美人女性デザイナーKK女史に会えるかも、
私は瞬間的に想像したことを思い出します。
それから、交流が始まりました。
私も読書量は人並み以上という自負がありましたが、
松岡正剛は100万冊は読破しているとすら思っています。
あらゆる分野に精通し、特に「日本を語らせたら超巨人知」でしょう。
千夜千冊(もはや1000冊を超えています)は、
おそらく世界にもあり得ない「書評アーカイブ百科」編集事実です。
「千夜千冊は世界的事件」という評価まであります。
私の著作も取り上げていただきましたが、
それは私へのラブレターでした。
「だから、私も松岡正剛に惚れ抜いています」と、
「連塾終了」の知らせ直後に彼に知らせ、
懇親会でも連塾参加者の皆さんにまで惚れていること発表しました。
昨夜、別れるときに「紙墨相発」を送るから、
松岡氏も「私の自宅に必ずまた行くから」と。
「連塾」、そのテーマは「日本という方法」でした。
これからがこの方法論が必至になっています。
これから時々、彼との話題・課題を書いていきます。
その季節が私に訪れたのでしょう。


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「『華麗なる賭け』のように・・・とはいかず」


   


     5月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

小学校から、将棋・囲碁・麻雀を父から教わりました。
父はこうしたすべてのゲームをマスターさせたかったのでしょう。
ところが、この三つはどうしても好きになれませんでした。
将棋はそれなりに面白かったのですが、
負けると悔しいことや、もう一度生き返るゲーム性が嫌でした。
しかも囲碁も麻雀も座位でのゲーム性が好きになれませんでした。
映画の名作に「華麗なる賭け」があります。
原題の「トーマス・クラウン・アフェアー」でリメイクされた映画です。
スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイが、
チェスをする場面があります。
この映画での二人の取引をたまらなく象徴する場面です。
それを観てから、チェスにのめり込みました。
しかし、我ながら下手くそです。
パソコン相手だと、とてもかないませんが引きつけられます。
となれば、私の習性はチェス収集にも向かってしまいます。
これは携帯用ではおそらく最も工芸的な物だと思います。
エルメスの木工技術が駆使されています。
しかし、もう一工夫が欠落しています。
マグネットでチェス盤とコマがくっついてくれれば飛行機内でも遊べます。
あえてそうしなかったのだろうとも思いますが、
これでは「装飾的」にすぎません。
バウハウス時代のモダンデザインは、コマの役割を覚えるのが困難です。
最も使いやすいのは玩具になっているプラスチック製が機能的です。
しかし、本格的にそのゲーム性を楽しむには、
やはりアンティックな物を海外で探しています。
もう喫煙の時代ではありませんが、シガーやパイプタバコ、
そしてブランディが一番チェスには似合うのかもしれません。
ともかく、今ではチェスはMac上で戦っています。
かって、Apple社に「Mind Top」をプレゼンしたときに、
景品アイディアとして、
そのパソコンと同じ大きさのチェスセットも提案しました。
そして、プレゼン後の私の味方連中の評価では、
あのチェスセットまで周到なプレゼンが嫉妬になったということでした。
日本の将棋界でトップクラスのある人が、
世界でも5指内に入るスターだということはあまり知られていません。
「クゥイーン・ガンビット」=先手を打つ、
これは、私の著作タイトル
デザインという先手・日常的なガンビット」になっています。
「シシリアン・ガンビット」という心臓病の治療方法もあります。
チェスは上手くなりたいゲームです。

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「扇子の季節、伝統センスが壊れ始めている」


   


     5月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

以前、ファンの方から私の著作を絵柄にした扇子をいただきました。
それも京都の老舗、「宮脇賣扇庵」の物でした。
この「宮脇賣扇庵」で様々の扇子を見ていて、また発見しました。
自然描写で特にまた葉っぱの写実性が崩れているものが多少ありました。
私はこの「扇絵」という日本の伝統的なキャンバスには憧れがあります。
そこで、展示してある「正確」なものと駄目なものを見分けていました。
大声で「あれ、間違っている」と言ってワイフに叱られました。
「また大きな声で、駄目でしょ」って。
「間違いは指摘しておくべきだ」と。
お店の方と話をしたら、その通りです、との回答をいただきました。
時折、プロの日本画家、日本画画材でないと扇制作は不可能、
膠が扇制作では大きく影響しますが、
日本画家の先生でも間違いが多くなってきている、とのことでした。
このところ陶磁器での自然写実とデフォルメも間違いが余りにも当然です。
いづれ、私も「扇子」を特注して作品化したいと考えていますから、
「宮脇賣扇庵」さんには
徹底して「絵の制作での注意点」を講義していただきました。
「扇子」はまさに日本の発明品です。
本来ウチワ的な風をしかける調度品は
エジプトから中国と世界的にありますが、
「折りたたみ」=foldingの形態にしたのは、
まさに「日本らしさ」であり、
「携帯性」と「凝縮性」は、日本のモノづくりを端的に表しています。
要は(この漢字も扇子の部品名にあり)
いわゆるfolding ・mobileは
デザインの一つの造形のあり方だと思っています。
しかし、こうしたモノが文房具には大変に多くて感心しますが、
家電やその他の機器にはまったく欠落してきている風潮が
増加しているように思えてなりません。
文房具のダウンサイジング(凝縮性)・ミニチュア化・折りたたみ性は、
多分日本は最高に進化を遂げています。
にもかかわらず、機器設計において、
このモノづくり精神性は壊れてしまったのかもしれません。
その象徴が、自然写実でのデフォルメであっても基本を崩していることは、
日本の伝統文化を壊しているものと指摘しておきたいと思います。
デザインの世界から、さらに新たな表現領域への興味は強まっています。
もちろん、デザイン本来での、「補助人工心臓」や「透析医療器」などの
ダウンサイジングは、今、一番追いかけているテーマです。

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『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”知財権制度”・反抗させない本質的デザイン3」


   


     4月 13th, 2010  Posted 12:01 AM

異議申し立て
Appropriationが、デザイン発想の斬新さという流行
私は、Appropriationをしているという無自覚なデザインに、
大いに異議申し立てをしておくべきだと考えてきました。
しかし、引用・借用・盗用かどうかという線引き、
その困難さゆえに、この兆しが見え始めた20世紀末から
どうやって、
デザイナー職能に対しての批評発言をためらってきました。
デザインが「欲望の刺激装置」と言い放ち、
デザイン価値・対・価値デザインを、
「知財権」の有無、その制度の見直し時期を見計らってきました。
ようやく、私はデザイナーとして、具体的な製品によって、
知財権、その中の最も権利主張が弱い「意匠権」を見直しました。
結果、
三つの見方に至っています。
● 外形・外観の盗用では意匠権は成立困難であること。
● 盗用はやはり倫理性の欠落からデザイナー見識が問われること。
● 知財権としての成立はほとんど不可能であり、
 制度破壊が一時期は讃えられても、
 やがてはある種のデザイン・スキャンダルに終わります。
すなわち、
デザインの本質は、一時的なブーム=流行性では、
その本質的な存在感をすぐに喪失することは
歴史的に明白になっていくものです。
流行学
なぜなら、「流行学」という学域があります。
これはマーケッティング論や経営学の領域学ではありません。
「流行学」とは、疫病や伝染病の流行性の学論です。
したがって、Appropriationは伝染病的なメタファー表現にすぎません。
そのことを明示していると考えていいのかもしれません。
現在、知的財産権が明確であるのは「著作権」のみです。
なぜなら、これは登録して権利取得とその収益独占ではありあせん。
「著作」という表現で、すでに「存在」が公認される制度です。
比して、意匠権・特許権・実用新案権・商標権は、
あくまでも登録です。

果たして、Appropriation、あるいはAppropriation的登録は、
まったく知財権登録では、拒絶・遮断・裁決は明確です。
Business Design Model
すなわち、デザインは、その本質において、
「倫理性」が大きな骨格であるかぎり、
Appropriationは、やや長期であっても「流行」にすぎないのです。
デザイナー職能でのデザイン対価を社会公認させれるには、
決して「盗用」は許されないということです。
私が「Business Design Model」という提案の
背景論理はここにあります。


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3月31日Staff Blog


   


     3月 31st, 2010  Posted 12:17 AM

3月31日

今回の出張には合間に、
著作のための原稿を
準備し続けないといけないので、
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)の
御伴は最近バージョンUPしたpomeraです。
原稿の進み具合で相性判断です。


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