kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘ネットワーク’


『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:01 AM

私は、「情報」という日本語が、
次のような意味合いを統合しているとしたら、
すでに曖昧な言葉に成り果てていると思っています。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

私は「情報機器」という製品アイテムを対象として
デザイン成果も生み出してきたと自負しています。
それだけに、すでに新たな「情報機器」を概念と観念で再考しなければ、
次々と進化する機器設計そのものと、
人間との関係が成立しがたいのではないだろうかと考えるようになりました。
したがって、特に、デザインを職能とする人や、
情報工学、環境情報、情報制御、医療情報などすべてが、
「情報」の意味と意義がどこまで、
日本語ゆえに曖昧であるのかを検証するべきだと提言します。
企業情報戦略も国家情報戦略も、
これからのネットワークの進化に対して、
この日本語でいいのかどうか、
あるいは、日本文化が伝統としての「曖昧さ」が本質であるとするなら、
その曖昧さの再利用を創出する時期になっていることを提案したいと思います。
そうなると、「情報」だけではなく、
再考し新たな概念と観念の言葉そのものを探し出す必要があると考え提示します。

たとえば、次のような日本語が考えられます。
以下の言葉については、この20年ほどいつも熟考対象にしてきた言葉です。

福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学

などです。
そして、こうした言葉がもっとも多用され始めている大学、その学部名や学科名、
そのコンセプトやアジェンダやスキームなどに対する
大きな懸念性と疑念性を捨て去ることができないのです。
この懸念性は私に突然、襲いかかってきたある種の不安感でした。

「デザイン」提案の大前提
なぜなら、将来・未来は、「言葉」から始まります。
さらに、わが日本には、「大物主」「事代主」によって、
物質と情報は決定づけられた伝統の文脈があるからです。
決して、この論理は宗教論でも、神がかりな論法でもありません。
真摯に「未来づくり」へ文化への新しい文脈づくり、
すなわち「デザイン」提案の大前提なのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「iPadが加速させる新たな情報化・Revolution」


   


     5月 19th, 2010  Posted 2:02 AM


私の世代=団塊の世代(嫌いな言葉ですがその世代なので)は、
大学時代、「革命」を目論もうとしていた連中がいました。
しかし、私はまったく無関係どころか、
そうした連中を、若さに任せて見下していました。
むしろ、スキー・ロッククライミング・拳法が面白いし、
それ以上に美大生としてのトレーニングと読書を好んでいました。
「好きだ」というのは、「中心、之を好む」ですから、
心の中心には、常に、美大生学生時代そのものが鎮座していたのです。

革命
さて、「iPadは革命か?」という質問が、米国でも相当の話題だったそうです。
それは、「ボブディランの登場が革命だった」というある記者から、
直接、AppleCEOジョブスに向けて発せられたそうです。
彼は、「革命が解放を意味するなら、そうだ」と直答したという話です。
私は、「革命」というのは、まさしく東洋の伝統的解釈を当てはめても、
iPadはやはり「革命」でしょう。
なぜなら、
「革命」とは、
「革=皮革をピィーンと張って、刃物を入れる」ことに繋がっていると判断します。
情報時代は、あらゆる領域、科学・芸術から産業、経済、
そして国際関係がピィーンと張ってあるほど緊張しているとすうならば、
明らかに、その刃物となるモノ、それがiPadだと言うのは言い過ぎかもしれません。
が、私は、確実にパソコンやノートPC、ケータイ、インターネットなどを
ピィーンと張ったモノの体系、
ネットワークの体系とすれば、この体系に対する刃物だと思います。

大切
刃物というのは、確かに「切る道具」ですが、
これは具体的なモノの存在にすぎません。
そして、概念世界では「刃物=道具」でしょう。
しかし、
観念の世界では、明らかに「切る」という行為が示すことは膨大なのです。
刃物偏が入って漢字は、第一水準漢字ではおおよそ68文字(記憶で曖昧)あります。
創・作・武・製・制・初・切・などなどです。
iPadで「切り込み、創る」ことは、大事であり、
それを見透すことが「大切」になっていくことこそ、
「観念世界での革命=Revolution」でしょう。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationに向かってきた系譜・1」


   


     4月 22nd, 2010  Posted 1:48 AM

古い話から始めます。
Mac以前からコンピュータに関わり、自分の手元に、
いわゆる「パソコン」が日常生活に入ってきました。
そして、パソコン同士がつながったことから、
新たな社会構造が変貌し変容してきたのです。
おそらく、「BBS」という言葉がわかるでしょうか?
BBS=Bulletin Board System=電子掲示板でした。
その最初の市販ソフトがこれでした。

その後に、パブリックドメイン=無料ソフトが出ました。

ここから現在までに25年かかったと思います。
しかし、この掲示板が、誹謗中傷する掲示板を生み出してしまったのです。
人間が匿名で発言するある種の自由性を解放したのでしょう。
「性悪説」に存在している自己認識をしつつも、
ここへの「書き込み」は、ネットワーク社会の裏面を形成しました。
この「裏面形成」があってこそ、
「性善説」たるネットワークまでやはり四半世紀もかかってしまったのです。
E-mailが生まれ、ケータイ、SNSということで、
「マルチメディア」が、情報企業のタイトルとなっていきました。
その直前には、「ハイパーメディア」ということが掲げられましたが、
ハイパーは差別用語だったので、この言葉はほとんど瞬間的に消滅しました。
今、Social Networkの登場は確実にこれまでのマスメディアを消滅させます。
それは、明らかに「資本主義で防御された大衆情報操作」が終わるのです。
だからと言って、「バラ色の社会」が広がるというのは幻想です。
ともかく、願わくば、コンピュータとネットワーク上に、
「健全な」=綺麗事社会の形成が必要です。
綺麗事が幻想であるなら、その幻想に身を置く必要を
私は容認する立場にありたいと思いますし、決意します。
もし、このネットワーク破壊が行われるとするなら、
私はこのネットワーク社会の基盤であるハードウエア、
そのデザインで防御し、綺麗事を成し遂げるのです。
それが職能家としての義務でしょう。
私は、この新たなネットワーク社会を
Media Integration=メディアインテグレーション
そして、学者としての研究テーマをここに定めて15余年になります。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  *「病院、環境とシステムに資本主義は不都合」*


   


     2月 9th, 2010  Posted 2:34 AM


環境とシステムとダイナミックス
私は入退院・手術に関しては数多き実体験があります。
そして、毎月の診察も大変です。
病院は海外でも入院していますから、比較もできます。

まず、「病院」名前の漢字づかいをやめましょう。
「院」とは取り囲まれてまったく閉ざされた空間です。
もっとも、隔離病棟ともなれば「病院」でいいです。
しかし、「病園」がいいと思っています。
ちなみに、「学院」と「学園」は、
前者が閉鎖空間の学びの場です。
後者が開放空間の学びの場ということです。
だから、「幼稚園」は楽しいことの場となり、
「大学院」というのは閉ざされた学の場です。

そして、昨今は「電子カルテ」が病院の情報システム。
「電子カルテ」って呼び方がすでに時代遅れです。
名古屋市立大学が多分最初に「電子カルテ」を構築し、
患者への情報公開をしたと思います。
だから、阪大病院に入院したときに、
「電子カルテ」で無かったことにびっくりしました。
ようやく、阪大も電子カルテが構築されました。
しかし、見てびっくりでした。
基本がありませんでした。
「電子カルテ」を商品化している企業責任が明確です。
「電子カルテ」は、
単なるExcelフォーマットにすぎません。
データーベースor情報メディアor単なるレコードです。
また、大きな問題は
すべてが「個人情報の最たるデータ」です。
だから、この管理はクローズドでなければなりません。
秘匿情報管理というシステムと、
健康・病気・対症・臨床・保健をどうするかが問題です。
そうなれば、システム的だけでは駄目であり、
ダイナミックスシステムを組み込む必要は明白です。
「情報アーキテクト」という専門性、
「メディカルアーカイブ」という閲覧性の開示、
「クリニカルレコード」というジャーナリズム、
これらが不可欠です。
そこには、「統合的デザイン」によって、
「カルテシステム」そのものの

メディアインテグレーション・デザイン

インターフェイス・デザイン

インターラクション・デザイン

アーカイブレコード・デザイン

ブラウジング・デザイン

などへ、「デザイン手法の導入」と、
いわゆる、ハードウエアそのものとネットワーク化が、
「デザイン」で具現化する必要性が必然なのです。
そして、この実現には資本主義的論理や、
民主主義的意志決定論は不要です。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  *「これだけ遅れてどうする、日本のケータイ!」*


   


     2月 7th, 2010  Posted 6:00 AM

Japanese ケータイ
今、私は、若手デザイナーの仕事ぶり、
その評価や批判はしたくありません。
しかし、日本の文明や文化に影響があるとなれば、
やはり、評価を述べておかざるをえません。
なぜなら、それはデザイナーの責務ではないからです。
特に、日本のケータイ、ケータイデザインです。
もう、国際的にも日本のケータイは、「特殊・特別」。
特別といっても、特別に優れているわけでは無く、
特殊というのは、取り残されている特殊性です。
これは、日本のケータイ電話通信企業が、
完全な「鎖国」にならざるをえないほど無能、
そして追い込まれているからでしょう。
「デザイナー・ケータイ」は、
当初は、デザイナーの力量と技術がマッチして、
「国内的にだけヒット」しました。
私はすでに、そうしたケータイの世界的な通信環境や
通信ネットワークの選択と進化方法が間違っている、
という警告を、文章や講演で語ったので、
「嫌がられ」・「怖がられ」デザイン依頼は皆無でした。
大手の通信企業に、人間工学的(?不信工学)な検証での
設計基準づくりはしました。役だったとも思っていません。
なぜなら、それすら読み取れないデザイナーも多いのです。
それから、映像通信をケータイ化の技術開発は、
あまりにも管理職、その無能力さでお断りしました。
いや、「ヤーメタ!」という次第です。
その後は、ある企業トップから特別依頼を受けました。
まったく革新的ケータイ、
特に、INPUTディバイスを提案しました。
その直後に、iPhoneの登場です。
でも、まったく私のコンセプトや、
コンテンツが違うので、いつの日か、
この思考でのデザインは実現できると、思っています。
●問題は、若手デザイナーは「通信・ネットワーク」を、
「ケータイの形態」だけの発想は辞めるべきです。
●それを要求する通信企業のケータイキャリアに、
異論を言う勇気を持ってほしいのです。
●そのためには、日本発・日本初の「技術知識」への、
大きな夢を抱いてほしいのです。

私は、3月に「ケータイ国際フォーラム」で、
「消えていく、コンピュータと新たなケータイの形」を
提案してみるつもりです。

Mobile Phone

made in Japan


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「資本と利潤・無資本と無料のBits-System」


   


     1月 30th, 2010  Posted 1:06 AM

Maximization

or


Optimization

資本に対して利潤とは、循環性を構築します。
その循環の効率性を、
最大化するのが、企業的組織だという考え方、と
最適化するのが、組織的企業だという考え方は、
自由競争社会、その基準、資本主義の解釈論でした。
したがって、利潤の最大化も、最適化も、常に、
議論されながらも結論はまったく見つからないままに、
今日に至っています。
そして、現在、私なども資本主義の終焉とか、
資本主義から逃走や解放される時代を迎えていると
言い始めているわけです。
さらに、循環論としては、
社会的な生理や、時代的な生理は、
「景気」という「躁鬱病的」なことがしばしば起こり、
結果が、最大化も最適化も実際は曖昧でした。
少なからず、
この景気循環は「恣意性」が謀略化されてもきました。

from PROFIT

  to BENEFIT

ところが、
無資本と無料化というシステムがデジタル技術の中で、
頭脳集約労働としての成果から生まれました。
そして、この成果はAtom時代の核心であった、
Atom資本、資本Atomが
「情報化=ネットワーク」で、無資本的になったことです。
無料としての配布、その効果がこれからの社会構造です。
無料だからこそ、
BENEFITが社会文化を構成するパワーが生まれます。
無料=Freeこそ、自由につながっています。
それを可能にしているデジタル技術はBitの集合です。
その集合だから利益・利潤は社会的な恩恵、
すなわちBENEFITです。
新たな経常利益と言っていいでしょう。
これを創出する経済主義思想は、
もはや、資本主義思想でないことは確実です。


目次を見る

01月06日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 6th, 2010  Posted 12:00 PM

1月6日 友引(丙辰)

これからは、
大学、すなわち
「知閥」という本当の
ネットワークの下に
企業の存在が
位置づけられるはずである。

『デザインの極道論』いたましい


目次を見る

01月05日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 5th, 2010  Posted 12:00 PM

1月5日 先勝(乙卯)

金融、
すなわち「財閥」という
ネットワークの下に
企業がぶらさがる

インダストリアリズムは、
とっくに終わっているというのに。

『デザインの極道論』いたましい


目次を見る

01月04日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 4th, 2010  Posted 8:46 PM

1月4日 赤口(甲寅)

ネットワーク化による
個人情報のデータ化は
制度として賛成だ。

ところが問題は、

その運営手法にデザインが
欠落している点にある。

『デザインの極道論』いたましい


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


目次を見る