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「健康自己管理としての血圧計の見直し」


   


     11月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

健康という言葉は、正直好みません。
健康であれば何でも出来る!。絶対にありえません。
健康を失った者の率直な僻みだと言ってもいいでしょう。
車椅子生活と心臓障害1級ゆえに、実は見えていること。
だから、私はデザイン対象に医療機器を選んでいます。
一番の理由は「自分の病経験が極めて多いこと」です。
生老病死で、生と老と死は避けることが出来ません。
しかし病気、いや私は「病」として「気」ははずしてます。
病気と向き合うには、「気」ははずして「病」と対決すること。
これが三度も重篤を経験した者からのメッセージです。
そのような私に、日常的な、とりあえず「健康管理」の測定計、
血圧計をデザインするチャンスがありました。
競合するメーカーが見逃している幾つかの事実をいくつも発見しました。
そして、日常会話でも、高い血圧だけがやりとりされます。
「とうとう高血圧になって・・・」ということです。
高い血圧だけが「気」になるのです。
重要なことは、高い血圧と低い血圧を見極めることです。
無論、血圧計は高低血圧は表示します。
そこで、平均血圧と脈圧の指標までを表示し、
血圧というバイタルシグナルとして脈圧までを
ピクトグラム=アイコン的に表示することにしました。
そして、これまでの血圧計での空気圧の強さやその速度も問題でした。
私自分自身もいくつかの血圧計を使ってきました。
それぞれ、性能・機能、さらにデザインには不満がかなりありました。
今回この商品デザインで全てを問題解決できたわけではありません。
しかし、これまで競合メーカーが見逃していたことはしっかりと実現。
よって、「欧州高血圧学会・臨床精度試験」合格品に認定されました。
これはわが国で最初の合格品になったということです。
まだ、私には血圧単位をmmHgで表現していること、
これは医学的習慣に過ぎず、もっと自分の身長や体重にみあった圧力表示、
そのようなわかりやすい空気圧で計測するべき不満が残っていますが、
ドクターやナースからも、使い勝手や性能・機能評判は上々です。
発売以来、予想以上に開発投資効果を上げています。
この血圧計をベースにすれば、高血圧症の人には、
危険サインを示し、万一の場合もドクターとのインターラクションが
十分に可能な進化製品開発が見えてきました。

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「歳末を感じる頃になった・・・」


   


     11月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

「喪中につき・・・」、
このはがきが届いてしみじみともう歳末か、
こんな想いになりました。
母の親友だった小母様が逝かれた報でした。
91歳ですが無念でありながらもならば大往生でしょうが、
子供の時から、そして金沢での個展にも来ていただき、
お小遣いをもらってしまい、
断る私を親友が「もらっとけよ」と声をかけてくれました。
「母が生きていたら」と時折電話をくれる大切な小母様でした。
また私にとって大事な人が逝ってしまいました。
ことさらに自分の年齢と遺された時間を思います。
雑誌やwebsiteでも、「手帳やカレンダー」の広告、
そして先日は金沢で「干支・龍」の九谷焼置物をいっぱい観ました。
来年は「辰年」です。

あらためて、大好きな龍のブレスレットを出して、
磨こうかと想い始めています。
昨日、手術後最初のICDチェックをしてもらいました。
無論ながら順調ですが、
ドクターと、留学から一時帰国のドクターと
「日本人のためのペースメーカーやICDが当然必要」、
そんな会話をしました。
人工臓器学会からは「補助人工心臓について」の案内が
届いていました。日本製ICD開発は国内生産困難です。
なぜ?誰が駄目にしているのだろう?
そんな連中に「ご政道」はありえません。
今、私の生命を監視し、万一の場合の緊急処理機器には、
デザイナーとしてものすごく不満があります。
私にとって、先般2台目となったICDも守り神ですが、
来年は「辰年」なら、
龍のブレスレットも大事な守り神になるでしょう。
3.11で私たちは多くの同胞を失いました。
哀しみいっぱいの年でした。
もう歳末に入りますが、オーロラがあったりの異常性、
タイでの大洪水などとんでもなく自然驚異に包囲です。
おそらく来年への備えに今年は早く入るべきでしょう。
母の親友の逝去の報にあらためて歳末の感があります。


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『資本主義からの逃走』
ブログ情報と『つぶやき』NetworkはMorphesかもしれない」


   


     6月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

ブログと「つぶやき」の双方向性

私は、次の言葉を、現代問題のキーワードであるがゆえに、
「再検証」と「再定義」が不可欠になっていると考えてきました。
キーワードが日本語であれば、
その日本語元来の意味=原意は中国の古典書や漢字原意からの経緯があります。
しかし、言葉は「時代とともに」意味を変貌し、変質させてしまうものです。

情報
環境
福祉
病院

などのキーワードに焦点を当てて、ほとんどメモ的な記述をしておきました。
一つ一つを掘り下げていけば、
それは「論文」となるほどの熟考結果とラング転換の論理構成が必要だと思います。
さて、このブログタイトルは「資本主義」への考察を行っていますから、
多分、なぜ、言葉・キーワード・原意などに拘っているのだろうか、
そう思われている読者諸兄もいらっしゃるでしょう。
しかも、「難解だ」とか「一人よがりな文章」であることも自認しています。
この場はあくまでも、私のメモであり、
毎日、現代の基盤である「資本主義」とそのまた基本・基準、
「民主主義」への大変更を私は目指しています。

三人称つぶやきが二人称となる
毎日、ここに記述し書き残すこと=記録は、
「私の熟考」=一人称的な想いであり、思索です。
そして、二人称としては、まずワイフに今日はこんなことを書き残したとか、
私のスタッフや学生や友人・知人には、「あなた」に向けている、という思いがあります。
そしてこのブログは、
TwitterというSocial Networkでのいわゆる「つぶやき」に連動しているので、
ブログに対するコメントとはまったく異なる「つぶやき」批評が届きます。
これは、三人称からの返信ですが、
明らかに、私の二人称相手が増加しているのです。
私はコメント掲載は受け取ってもその掲載は控えてきました。
どこかで、ブログという情報発信に対するコメントという形式が
絶対に「変わる」という直感があったからです。
見事に、それは「つぶやき」という形式がブログにも差し向けられるようになりました。
「Social Network」の登場は、
ブログの形式も変えようとしているのだと確信するのです。

Network主義へ逃走する
結論を急げば、「資本」は、確実に「情報」になってきました。
無論、日本語「情報」は、私流には再検証と再定義しなければなりません。

Morphesがつぶやいている
だから、「Social Network」での、政治・経済・文化などの世界観、
すなわち「新しい主義」が生まれようとしているのでしょう。
とりあえず『「ネットワーク主義」へ逃走』という仮称」への近傍観、
つまり、トポロジー観が、私にはその香りが漂っている気がします。
これが幻視であると突き放しつつも、
改めて、この幻視=Morphesの白日夢に漂っていることは間違いありません。
Morphesって誰なのでしょうか?


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『資本主義からの逃走』
「病院という悲しみの日本語に『もてなし』という意味は無い」


   


     6月 5th, 2010  Posted 12:46 AM

重篤
重篤という言葉があります。
私は3度、重篤状態を通過しました。
周囲が、ドクターたちから重篤と告げられました。
周囲は充分にその状況を理解していましたが、
私自身が重篤状況だったということは全く知りません。
危篤と重篤、医学的には危篤という言い方ではなくて、
重篤の方が医学術語だとドクターたちに教わりました。
さて、私自身の肉体的問題は、きわめて日常的です。

デザイン医工学
そうしたことで、私は「デザイン+医学」領域に携わっています。
この領域を「デザイン医工学」と呼称づけています。
このデザイン医工学には、

反健康=健康では無い=病気・病
半健康=いわゆる一病息災という日常的な病を持っている
範健康=健康であるためにどれだけ体調管理・保健であるか

以上のようなことから、
それぞれに対する「デザイン」対象として健康を見詰めています。
そこで、「病院」という機関・組織・空間・サービス・制度を明確に定義するとき、
この日本語はやはり、歴史性としての意味が閉じ込められていると判断しています。
ずばり、「病院」とは「病を閉じ込めた空間」という意味です。

閉鎖空間
「院」という文字は、「完全な閉鎖空間」を意味しています。
大学院も完全な閉鎖空間です。
比して、学校も「校」は板塀で取り囲んだこれも閉鎖空間です。
ところが、幼稚園などや学園の「園」は、遊園地もあるように、
「開放空間」です。
こうしたことから考え直せば、
私は「病院」は「病園」、
いや「療養園」が正しいのではないだろうかと主張をしてきました。
病院や医療関係者の方々からは、
現代性と重ね合わせて多くの賛同を得てきました。
なぜなら、「病院=病の閉じ込められた館」、
閉鎖空間であってはいけないという発想が出てきたことです。
それは、「病院」=ホスピタルからホスピスという日本語は、
Hospital・Hospisという英語の原意からは、
「病院」=Hospitalでは無いということです。

もてなし空間
HotelやHospitalは「もてなし空間」を意味しています。
したがって、
病気療養は、医療従事者のもてなし=看護の十分さが問われているということです。
つまり、私たちは漢字観=古代中国の病院定義を引きずっています。
Hotel・Hospitalの意味には相当の距離観があるということです。
現代、すでに「病院」という言葉の変更は必至だと提案します。
病院とホテルは「もてなし空間」として同格ある必要があるわけです。
そうなれば、「ホスピス」は終末医療の「園」であって、
「病院」の延長線上にあるわけではないことは自明です。


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