8月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
8月 20th, 2011 Posted 10:00 AM
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7月 22nd, 2011 Posted 12:00 AM
Tags: 「佇む」, 「光陰の矢」, 「学」, 「老」, 「考」, 「論」, 3.11, クラウド, 光景=光と影, 光陰, 光陰のごとき事象, 国難, 民主主義, 考える, 脱原発, 見過ごしてしまうこと, 調和
Posted in 祈望から企望へ
6月 5th, 2011 Posted 12:16 AM
4月 21st, 2011 Posted 12:00 AM
4月 20th, 2011 Posted 12:00 AM
■「多数決」ゆえの政党間騒動がそのまま政治反映
■ 民主主義への徹底した疑念を怠慢放置した思考停止
■ 議会を構造化している資本主義の脆弱さ放任
この三つを解明できない大衆主義があたかも民主主義という錯覚。
議会制民主主義の制度たる三権分立を崩壊させたマスコミの存在。
私たちは、このあたかも津波に飲み込まれた破綻事態を
「天災tunami」=国難で思い知らされているのでしょう。
Tags: マスコミの存在, 三権分立, 下意識主義, 国難, 多数決, 大衆主義, 天災tunam, 民主主義, 民主主義への徹底した疑念, 論理構造, 議会制, 議会制民主主義, 資本主義, 資本主義からの逃走, 資本主義の脆弱さ
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3月 31st, 2011 Posted 12:00 AM
逃走とは闘争である
「資本主義」に閉じ込められている生涯。
デザイナーという職能ゆえに、
私の発想は、常に企業や行政との関係で具現化されます。
よって、デザインしたモノ、デザインしたコトは、
企業方針や行政制度との整合性が包囲条件でした。
だから、「資本主義」にはなじめなかったのです。
けれども、「社会主義」などというのは、嫌悪感すらあります。
それでも、「資本主義」その基底の「民主主義」、
いづれもイデオロギーですが、
このイデオロギーの解体をしながら、
新たな哲理の発見と創造、これこそデザインだと考えてきました。
逃走してどこに逃げ込むのか、などというのではありません。
いわば、このような思考を「ことば」と「歴史」の中で見いだそうとしてきました。
「ことばとかたちの相対論」を念頭におきながら、
具体的な、機器・装置・環境へのデザインアイディアを提案してきました。
しかし結局、「呑気過ぎた」のです。
たとえば、「仮設住宅」程度ではなくて「佳設住宅」を、
ある大手住宅メーカーと開発してきました。
「仮設」などという「仮」の非常時では復旧でしかないのです。
「佳設」というほどですから「佳人=美人」のごとく、
復興するには「美しい佳人のごとくの住宅」案でした。
これが頓挫しました。理由は、企業トップが脳溢血で倒れてしまいました。
この後継者には、それだけの先進性や美学性が無く、
そのプロジェクトメンバーにもたかだか業務でした。
このようなアイディアは、企業トップに大人物が必要なのです。
正直、現代日本の経営者にたかがデザイナーの戯言でも、
されどデザイナーの理想主義を受け入れる器ある人物が欠落しているのです。
現政権にリーダーがいないのは、企業家界も同様かもしれません。
私の逃走は闘争であったことをなんとなく曖昧にしてました。
そして、この国難こそ、逃走なんて「あとずりしている者への鉄拳」だったとさえ思います。
「復興」をめざして真正面から「闘争」を、命あるかぎり開始します。
私の闘争は、希望をいっぱいにした理想主義です。
「資本主義からの逃走」を「祈望」に止揚していきます。
Tags: イデオロギー, ことばとかたちの相対論, 仮設住宅, 佳設住宅, 哲理の発見と創造, 民主主義, 社会主義, 祈望, 資本主義
Posted in 091 「東日本大震災」, 資本主義から逃走せよ!
2月 7th, 2011 Posted 12:00 AM
文明と文化の共時的変革時
21世紀ようやく11年目です。
20世紀もそうだったように変革の時のようです。
文明と文化が共時的に変革してきています。
政治は、いかにも民主主義と言われてきた「共和制」も限界でしょうか。
エジプトから今後も、とてつもなく悲惨な実例が増えるでしょう。
翻って、技術も、「ムーアの法則」が限界かもしれません。
ムーアの法則も当然ながら、彼の先験的思想性からはいっぱい学んで来たと思います。
講演でも引用させてもらってきました。
特に、「土」=シリコン・「ガラス」=光ファイバー・「空気」=internet、
この基調講演を1992年・箱根で聞いた時のショックはここでも書いてきました。
そして、今や、ムーアの法則でのLSIなどチップも3D化技術に向かっていますが、
これも新たな展開で変革するでしょう。
さらに、驚愕するいくつかの技術開発をデザイナー・大学人として直面しています。
しかし一方では、このような大きな変革が地球環境の「破壊」だと勘違いしている言説もあります。
功罪相反なれど理想主義を
結局は、歴史が事実をジャーナルとして証拠立ててくれるでしょう。
そして、次のような言説は最も信頼できません。
結果をこの上ない悪罪として、
近未来を語ろうとするジャーナリズムの言論人(かっては羽織ゴロだった人)です。
所詮、人間は完全ではありませんから、「功罪相半ば」が人間の歴史をつないできてくれました。
当然、「功罪」があろうが、今日より明日に理想をということになれば、
私は、理想主義としての「革新」を求めたいという立場です。
無論、「保守」としての伝統との中庸も私の一義です。
このところ、実現は50年後かもしれないデザインに自分を立ち向かわせています。
それは、近未来への革新をつないでいくことになるという想像です。
実現の日を、私は見ることはできないかもしれませんが、
私なりに「夢の形見」を描き残したいと願っています。
Tags: 1992年・箱根, ジャーナリズム, ジャーナル, ムーアの法則, 伝統との中庸, 保守, 共和制, 功罪, 功罪相半ば, 土」=シリコン・「ガラス」=光ファイバー・「空気」=internet, 夢の形見, 悪罪, 文明と文化が共時的, 民主主義, 理想主義, 羽織ゴロ, 言論人
Posted in 067 「夢の形見に」, 資本主義から逃走せよ!
12月 30th, 2010 Posted 12:00 AM
民衆主義の中のデザイン
一所懸命に向かい合ったと思います。
しかし、自力では無理難題に包囲。
賢明さだけでは解決不能が多発しました。
ということは、あまり懸命さと賢明さが不十分。
この不十分さを自分に押しつけることは辞めました。
こうしたことはワイフからのアドバイスで助けられました。
それでも肝心の「造形」というデザイナーの解決成果だけは継続させられたと思います。
未だに現役でデザインテーマも自分で設定し、
地道・蓄積・修練・研磨だけひたすら続けられたことは「幸運」だったと思います。
しかしこの一年、日本全体の不景気感は、デザインへの巨大な重力になっています。
これはすべからかく、「政治」がまともでないこと、
そのような選択をしている根本的な民主主義が民衆主義に覆い尽くされていることです。
したがって、本来、人間社会、世界的賢明さの歴史観が築いてきた「民主主義」の誤り、
それは「情報」で歪められる脆弱さと「情報力の巨大さ」です。
民衆主義を民主主義と勘違いしている現代世界観を覆す必要性がある、ということです。
「政治」がなぜ駄目なのか、この根本についての討議は民衆主義の中で融解しているだけです。
民衆主義に融解していく民主主義をつきつめていくことが、
いわゆるグランドデザインだと考えます。
来年のテーマの一つです。
その解答も「解決というかたち」を造形したいと思っています。
今年の実例で考えると、「なんとかデザイン」、つまりデザインの形容、
すなわち、デザイン職能の専門性と詳細性を決定する「なんとかデザイン」、
そのものをデザイナー自らに曖昧性と混乱性が増えていることです。
これも民衆主義的な中でデザインが語られることが頻発しているからでしょう。
特に、産業とデザインの関係性が、文化とデザインの構造化になかなか進化していません。
これが最も明快になったことです、これを来年のテーマにします。
つまり、民衆主義と民主主義を分別することです。
それは民衆主義も民主主義も両軸がもはや不要であることを、
「デザインの本質」に持ち込みたいということに他なりません。
これは今、わが国の存在、わが国に「生きる日常」すべてを皮膜している現実問題だと考えます。
民主主義を離脱するために、民主主義からあらたな主義を創造すること。
その根本が民衆主義に委ねきっている私たちすべての意識改革だと確信します。
Tags: グランドデザイン, デザインの本質, 一所懸命, 不景気感, 地道・蓄積・修練・研磨, 巨大な重力, 情報力の巨大さ, 意識改革, 懸命さと賢明さ, 曖昧性, 民主主義, 民主主義を離脱, 民衆主義, 混乱性, 無理難題, 現代世界観, 解決不能, 賢明, 造形
Posted in 061「”行学”に向かって」, 資本主義から逃走せよ!
12月 29th, 2010 Posted 12:00 AM
自分への厳しさ
このブログが目指してきたこと。
それは高密度俊足な情報社会です。
「情報」の功罪に晒される日常。
この日常から特に「罪「から目をそらさず、特に情報技術を直視してきたと思います。
ただし、疑念、懸念、明白な誤りは的確に指摘してきました。
その結果が自分に対しても誤解や否定が成されたとしても、
それを受け入れる覚悟は備わったと思います。その覚悟とは「自分への厳しさ」の裁定です。
なぜなら、すでに自分がめざす方向が明らかだからかもしれません。
その上このブログでは、私がどれほど資本主義にも民主主義にも、
大きな疑念を持っているかを告白しその思考メモを書き残しています。
もっとも私の世代は、高度経済成長から現在の不況までを体験しています。
しかし、これほどこの一年の政治に失望が連続している経験は始めてです。
だからあらためて、私は「自分の存在」を日本の歴史観の中で確認しています。
それは、日本の歴史上で尊敬と敬愛を捧げることで、自分自身に厳しくあるためです。
ささいなことかもしれませんが、
このブログを毎日必ずアップすることも自分への厳しさを確かめていることです。
時に、ブログアップが遅れると読者の方や教え子などから、
体調のことで心配をかけてしまします。
もし、自分が自負できることでは、「自分にどれだけ厳しく」を実践していることです。
自分に厳しくといっても、歴史上は無論ながら、
現代においても尊敬できる人物が自分に対する厳しさを知るとき、
これが「行学」の核心だと再認識します。
Tags: 「行学」の核心, 不況, 功罪, 思考メモ, 情報, 情報技術, 懸念, 政治に失望, 民主主義, 疑念, 自分への厳しさ, 資本主義, 高密度俊足な情報社会, 高度経済成長
Posted in 061「”行学”に向かって」, 資本主義から逃走せよ!