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Posts Tagged ‘情報化’


「憂国のパロールの思考定本から知ること」


   


     7月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

祖国への憂国はずーっと心にありました。
特に、海外に出ると比較することができます。
良いところ、ダメなところ、必ず心に残ります。
それでも日本は素晴らしい祖国、
それなのに憂いは拭い去ることができませんでした。
当然です。
人は、生きていることが死に向かっている不安を、
そのまま祖国への愛着と重ね合わせることができる、
そんな知性と感性を人は持っているからでしょう。
友人・松岡正剛氏は「連塾」最後に25冊の書籍を紹介してくれました。
その中に、エドマンド・バーク「崇高と美の観念の起源」がありました。
本棚にありました。読んだ記憶はありましたが再読しました。
彼の近著「3.11を読む」をテキストに、
私は、この三冊を憂国のパロール、
いやナラティブ・セラピーとして選んでいます。
松岡正剛は、ポール・ヴィリリオ「情報化爆弾」を紹介しています。
私は「民衆防衛とエコロジー闘争」を挙げたいと思っています。
そして、ウルリヒ・ベックの「危険社会」と「世界リスク社会論」を
まずテキストにしておくべきと考えます。
「憂国」はすでに「対立」も「衝突」も
超越した思想の創出でなければなりません。
その思想らしきことに近接するデザインを
祖国=日本のためにと考えています。


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「『青の物語り』陶磁器の精彩な仕上げ進化」


   


     3月 7th, 2012  Posted 12:00 AM

デザイナーは好きな色を持ってはいけない。
これは美大時代にたたき込まれました。
「色全てを好きになりなさい」と教えられました。
私の色彩論の演習も講義もこれを基本にしています。
だからこそ色相=色味については常に詳細に見つめてきました。
昨年発売されたエルメス陶磁器の「青」を見たとき、
大きなショックを受けました。
一つはやっと自分のデザイン領域に陶磁器を対象にする機会がやってきて、
コーヒーカップやティーカップを「有田焼」で制作を始めてきました。
有田は九谷に通じる磁器産地です。
すでに、ARITAもKUTANIも商標権は中国のものにされてしまいました。
九谷は、子供の頃から慣れ親しんできた磁器です。
そうして有田にも大好きな窯元がありました。
ところがいずれの磁器にも「青」の精細さが失われてしまっています。
そうしたらあのエルメスが画然とした「青」を新作で実現してきました。
この青色はルーブルの天井画です。
ジョルジュ・ブラックの鳥の絵につながっている、
そんな気がしてなりません。
その鮮やかさは欧州の有名ブランドの青色を
さらに進化させていると私は評価しています。
間もなく、私は初めて陶磁器の商品発表をします。
ただ、まだまだ産地へのデザイン導入を強化しなければなりません。
今日気づいたのは、有田の伝統を切り捨てるべきと決心しました。
いくつかの要素と要因がありますが、
たとえば、欧州の有名陶磁器ブランドでさえ倒産する時代です。
となれば、日本各地の陶磁器産地は
根本から意識・製陶工程・流通・情報化を再考すべきです。
今月、有田に入ってそのことを講演し、
産地を鼓舞しに行くつもりです。

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「消費されてしまう人気・資本主義の社会心理」


   


     11月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

バスキアの映画を久しぶりにTVで観ました。
ジャン=ミッシェル・バスキアは、
グラフティ・アートのスーパースターでした。
しかし、その才能は最後には認められること無く、
最後は薬、そして夭逝してしまいます。
彼とマイケル・ジャクソンが重なりました。
マイケルも薬、それは人気絶頂から、
様々なスキャンダルやゴシップで、
彼も世間から見捨てられました。
ところが、彼ら二人の夭逝によって再び世間、
アメリカ社会は、もう一度スーパースターにしました。
二人とも人種差別を乗り越えて作品に命をかけていた若者です。
アートとミュージック、それぞれの作品は勿論のこと、
彼らの生きた証全てが「商品化」され、今後も価値づけられます。
私は、このアート商品群が資本主義での「消費」、
その非情さが21世紀もまだ引きずっていることを指摘しておきます。
しかも、その資本主義での「商品化」はそのまま「情報化」です。
情報という商品、情報化されるアーティスト存在の価値観です。
情報社会は「スーパースター」をマスコミが作り上げ、
そうしてやがては「潰しにかかる=嫉妬」を有します。
この「嫉妬」こそ、資本主義社会も社会主義社会も、
人間の業、集団社会の社会心理だと考えられます。
ところが、こうした「スーパースター」夭逝は、
社会心理を今度は大きな「同情」に転換します。
これも人間の業の現れ=社会心理なのでしょう。
人間の業が極端に現れるのは、資本主義先進国家です。
今年、わが国は大変な試練と直面させられてしまいました。
それも「消費構造」・「消費空間」にあるわが国の再生です。
破壊されてしまったわが国のあらゆるシステムも、
未だに20世紀の資本主義に引っ張られた中にあります。
無論、私は社会主義はもっと認められる思想ではありません。
それなら資本主義を超える経済主義や政治思想の根幹を変革。
そのようなことまでデザイナーという職能が可能ではないでしょう。
この変更困難な理由に私は楯突いてみたいと考えます。
だとするなら、この国難を直視出来る今、
私は人生最終の「行学」の対象にしていきたいのです。
バスキアとマイケル・ジャクソンへの社会心理、
この実態から多くのことが学べそうです。

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「資本主義からの逃走」
  「再生音源形態の進化と進歩に可視化を再確認」


   


     2月 4th, 2011  Posted 1:52 AM

進化・進歩
進化と進歩には違いがあります。
進化とはevolutionであり、
進歩とはadvanced、progress、improvementです。
和英を対照化すれば違いのニュアンスがわかると思います。
音源は、エジソンの蓄音機からスタートしました。
これは円筒形に刻まれた振動を再現する装置でした。
これがEPやLPというレコード盤に進化しました。
テープに音源が記録と再生のテープレコダーは、
カセットテープに進歩します。
CDも登場します。これは進化でした。
ところで、CDが直径11.5cmは、カセットテープの対角線と同じです。
これは人間が親指と人差し指で挟める幅の長さになっています。
ここで、最初のエジソンの「円筒形」を基本に見ていくと、
次のようなことが「形態発生論」的に見つけることができます。
円筒形を細幅テープ状にしたものが、テープ、カセットテープに進歩しました。
円筒形の断面が円盤です。
この円盤に溝があるのがレコード盤に進歩し、
円盤にデジタル信号が配列されたのがCDという進化でした。
そして、音源はこの形態発生的に大革新が起こりました。
これがシリコンメモリーです。
音源の進化と進歩は、物質形体の円筒形・テープ・円盤に、
アナログとデジタルの配列で、決定されてきたことになります。
見えなくなる・かたち
これらの形態的な配列は物質上で進化と進歩が、
歴史的に連鎖してきたわけです。
そうして、デジタル配列が物質を離れて、「情報化」されたとき、
音源は、すでに「見えない存在」になってしまったということです。
私が、あらためて、進化と進歩をもう一度確認する事例を「音源」の系譜で再確認しました。
物質・情報・エネルギー、
それぞれに「可視化」と「見えなくなるかたち」を追いかけてみたいと考えています。


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11月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 17th, 2010  Posted 10:31 AM

11月17日 先負(辛未)

発明したら発表するべきだ。
商品化できなくとも、
夢はみんなが共有できるではないか。

米国は、この手法で
どれだけ夢だけを与えて、
その後で思いっきり
失望させてもくれたことか。

それが情報化時代というものだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』器量相発


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『資本主義からの逃走』
「能力訓練は逃走訓練だから、自己情報の管理と統合」


   


     7月 31st, 2010  Posted 12:25 AM

生産・消費・廃棄・回収・再生産
私はデザイナーなので、「スケッチ」が資本と主張してきました。
能力や才能が資本になるという、ひとつの具体的なシンボル例です。
マルクス時代は、あくまでも生産と消費の構造は「工業社会」でした。
ところが現代は脱・工業化社会として「情報化社会」が「情報社会」になりました。
しかもその進化は、生産と消費から、
「生産・消費・廃棄・回収・再生産」というサイクルが必然となっています。
結局工業社会での生産物が消費物となるためには、
「情報化」としての消費が待ち受けています。
つまり、
生産・生産情報・消費情報・消費、廃棄・廃棄情報・回収情報・回収、
再生産・再生産情報という具合に、
「情報化」が割り込んでいます。
ということは、「個人的な能力」あるいは「才能」も、
まず「情報化」されなければ「能力も才能も資本」にはならないということです。
したがって能力や才能には、
「情報」に対する個人的な=自己の管理力と統合力が
希求されていることは間違いありません。
1980年代から急速にパソコンやモバイルなどデジタル機器が、
その情報の管理と統合を支援しています。
すでに30年で、たとえば、インターネット・ユビキタス・スマートホン、
そしてクラウドという情報基盤の中で、
まさに生息している自分と対峙することを要求されています。
この30年、「情報基盤」の進歩は、私たちの想像を超越しています。
そんな中で、自己を生息させることへの積極性と消極性は
各自、二分されてしまったようです。
積極的と消極的な逃走訓練

「情報化」の脅威、
「情報化」の虚偽、
「情報化」の性善、
「情報化」の性悪、

この四句分別への正当さを自分自身の日常的な生活態度に出来ないかぎり、
私たちは生息していくことはできません。
それはとりもなおさず、自己能力の情報化訓練です。
だから、私は「情報化訓練」=「資本主義からの逃走訓練」だとさえ思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・1」


   


     7月 19th, 2010  Posted 12:00 AM

デザイン価値
大企業でのデザイン活動と、
地場産業や伝統工芸産地でのデザイン活動の大きな違いは、
「デザイン価値」の認識です。
国内の大企業は、かえって、「デザイン」によって「付加価値」が上がる、
と単純に思っている所が多いと私は思っています。
つまり、経営者は「デザイン」を装飾程度のものと思い込んでいる人が多い、
これは私の体験です。特に、サラリーマン社長に多いというのが経験値です。
デザイン部門への依頼は「外観・意匠設計」、これは「装飾」にすぎないと考えているのです。
現代、いや最近はますます、この程度の経営者ばかりになっています。
それが日本の「モノづくり」の質、その低下に拍車をかけています。
むしろ、地場産業や伝統工芸産地にとって、
カタカナである「デザイン」は、
その本質を「モノづくり」の根本で語り合えば理解は深まるというのが、
もう一つの私の体験です。
さて、越前打刃物に飛び込んだ私の「伝統」と「刃物」に、
私はデザインを突きつけたことになりました。
それは、デザイン価値を伝統と刃物、
そのモノづくりの根本を革新するというまずは意気込みでした。
この意気込みや覚悟を、職人さん達に理解してもらわなくてはなりませんでした。
ところが、すでに産地活性化は、
「地方活性化政策=国家行政政策」として幾たびか試みられていたのです。
結論は、産地は「デザインに失望」していました。
理由は簡単です。
行政も、デザイナーの高名な先輩たち自身が、
「デザインという付加価値」が欠落しているということで、
製品開発をしても、東京で展覧会をやればそれで「行政指導」なるものは終わりだったのです。この事態は今も改善はされていません。
その結果、「デザイン高度化事業」の成功例は皆無と言っていいでしょう。
その事例をどれだけ多くみてきたことでしょうか。
だから、「デザイン行政」は根本から変革する必要があります。
この戦略は別稿とします。
私は三つの戦略方針を掲げました。
■「伝統」=伝統技や素材に対するデザイン
■「技術」=手づくりの継承に対するデザイン
■「情報」=産地物語に対するデザイン/
これらを統合化すれば、伝統産地の「情報化」と「製品価値」の結合です。
すなわち、これこそ、innovationであり、
伝統産地の物語情報戦略、そのデザインということでした。
すでに30年前の話ですが、
このデザイン手法は、現在も「方向づけ」として正確だと確信しています。
なぜなら、これがデザインの本質だからです。
この本質論は、「モデル化」することができます。
すなわち、「デザイン価値の定義論」だと認識しています。
デザイン価値=脱工業化であり、情報化=物語構造論へ価値論を持ち込むことになります。


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7月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 11th, 2010  Posted 9:00 AM

7月11日 仏滅(壬戌)

ネット上の物品は
「情報化」された「品物」である。
「物品」ということばはなくなっていくだろう。

そして、これからの価値ある物は、
「品」ある情報にくるまれた
新たなモノの世界を形成していくに違いない。

『デザインは言語道断』物品


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7月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 7th, 2010  Posted 9:30 AM

7月7日 先勝(癸丑)

知識の情報化とか、
情報の知識化ということを、
つきつめて考えていくと、
自分が携えてきた知識とは
どのようなものであったのだろうか、
ということにつきあたってしまう。

『デザインは言語道断』知行


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『資本主義からの逃走』
「iPadが加速させる新たな情報化・Revolution」


   


     5月 19th, 2010  Posted 2:02 AM


私の世代=団塊の世代(嫌いな言葉ですがその世代なので)は、
大学時代、「革命」を目論もうとしていた連中がいました。
しかし、私はまったく無関係どころか、
そうした連中を、若さに任せて見下していました。
むしろ、スキー・ロッククライミング・拳法が面白いし、
それ以上に美大生としてのトレーニングと読書を好んでいました。
「好きだ」というのは、「中心、之を好む」ですから、
心の中心には、常に、美大生学生時代そのものが鎮座していたのです。

革命
さて、「iPadは革命か?」という質問が、米国でも相当の話題だったそうです。
それは、「ボブディランの登場が革命だった」というある記者から、
直接、AppleCEOジョブスに向けて発せられたそうです。
彼は、「革命が解放を意味するなら、そうだ」と直答したという話です。
私は、「革命」というのは、まさしく東洋の伝統的解釈を当てはめても、
iPadはやはり「革命」でしょう。
なぜなら、
「革命」とは、
「革=皮革をピィーンと張って、刃物を入れる」ことに繋がっていると判断します。
情報時代は、あらゆる領域、科学・芸術から産業、経済、
そして国際関係がピィーンと張ってあるほど緊張しているとすうならば、
明らかに、その刃物となるモノ、それがiPadだと言うのは言い過ぎかもしれません。
が、私は、確実にパソコンやノートPC、ケータイ、インターネットなどを
ピィーンと張ったモノの体系、
ネットワークの体系とすれば、この体系に対する刃物だと思います。

大切
刃物というのは、確かに「切る道具」ですが、
これは具体的なモノの存在にすぎません。
そして、概念世界では「刃物=道具」でしょう。
しかし、
観念の世界では、明らかに「切る」という行為が示すことは膨大なのです。
刃物偏が入って漢字は、第一水準漢字ではおおよそ68文字(記憶で曖昧)あります。
創・作・武・製・制・初・切・などなどです。
iPadで「切り込み、創る」ことは、大事であり、
それを見透すことが「大切」になっていくことこそ、
「観念世界での革命=Revolution」でしょう。


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