6月 30th, 2012 Posted 12:00 AM
車椅子生活、障がい者になって以来、
私は徹底的に歴史的、絵画的、文学的など、
その領域に登場する障がい者を
趣味のごとく収集してきました。
このヒエログリフは、
元来はヒエログリフ文字という象形文字から、
アルファベットの形態を探っているときに発見しました。
女性は、確実にヒエログリフでの説明があり、
現代医学的には筋ジストロフィーではという予想があり、
もう一つは確実にその時代にも、
小児麻痺があったことを示しています。
最近では、クロマニヨン人の時代に、
障がい者を家族が看ていたという推測もあります。
この推測の系譜を私はまだ追いかけています。
要は、人間の心情に備わっている「同情」と言う心理、
心理学的には他愛主義に結びついているでしょう。
しかし、自己主義の極点は、非情です。
この非情性に宿るのが「差別感」が入り込むのです。
結局は、人間の心理の異常性を自己認識することです。
この自己認識ができるかどうかは、
自分自身の無知性が引き込んでくるものと思います。
私は多分、車椅子にならなかったら、
ヒエログリフ世界に入り込むことは無かったでしょう。
ヒエログリフを知ることは、
無知性から開放される大きな手がかりでした。
無知性への直接的対決は、
「知識」の獲得であることは間違いありません。
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6月 29th, 2012 Posted 12:00 AM
1980年からの「国際障害者年」正式ポスターです。
ちょうど私はリハビリトレーニングを終え、
「車椅子生活」をスタートさせたときでした。
大きなショックを受けました。
健常者=真っ直ぐなローソクに、
折れ曲がったローソク=障がい者が寄りかかっています。
これを世界のデザイン界トップ連中が選んだポスターだとは?
私は世界のデザイン界ですら、
象徴的ビジュアル表現とは「この程度でしか無い」とは、
デザインの本質はまだ見いだしていないと思いました。
おそらく、このデザインをしたデザイナーは健常者でしょう。
私は、折れ曲がったローソク側の人間です。
たかがポスターで、
これほど見事な表現と思われるかも知れません。
しかし、障がいを背負って生きて行く立場の者には酷です。
私の決意は障がい者デザイナーとして、
国際的にもデザイン界ですら、
人間の無知と差別感に立ち向かうことでした。
健常者だったときには、
思いもしなかった差別感はこのポスターでのショック以上を
これまでどれだけ体験し感じ取ってきたことでしょうか。
とりわけインターネットの裏側での差別発言は残酷世界です。
私は車椅子になったことがどれほどの「幸運」でしょうか。
まず、ふるさとに「内部障がい者」の存在があること、
国際的にも11月には中国でも、
デザインの本質から、
私のデザイナー的人間社会の差別感解消、
その結論を話すつもりです。
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2月 23rd, 2011 Posted 12:00 AM
「別」とは関節を切り分けること
「同一性」・対・「差異性」の見方です。
私はこの判断には三つの見方を提示しています。
● 差別
● 区別
● 分別
この三つには、「別」というのが共通語です。
「別」を確認しておきます。
この文字は骨+刃物を組み合わせた形象になっています。
「関節を切り分ける」という原意は、
つなぎ合っている箇所に刃物を入れて切り分けることを意味しています。
■「差」
この文字は、稲穂なりの長さなどがばらばらのことです。
よって、長短やその違いを判断することになりますから、
「差別」というのは、明らかに優位性や差違性の判断であり、
その判断行為そのままの表出が「差別する」という行動になってしまうことです。
■「区」
本来の文字は「區」であり、配置されているものの差違と差異を
判断して識別することです。
したがって、違いを判断する以前の行為として、
この区分ということが識別の前提になっています。区分する識別力です。
■「分」
これにも刀があります。行為は切り分けた結果のことになりますが、
二択選別ということを最もこの文字は表しています。
分別が解答を導く
「分解して判断」ということは、
明らかに「解答」を求めていく判断が要請されているということです。
さて、この三つに「差」・「区」・「分」+「別」ということで、
それぞれの識別結果から「同一性」の再確認行為が導き出されることが明らかになります。
すなわち、差別は違いをただ明確にして、その違いをさらに批評的な攻撃にしかねません。
これは暴力につながります。
区別は配置して見比べる手がかりにすぎません。ただし、区別する前提の知識が必要です。
しかし、分別は切り分けて分解したことから判断としての解答を見つけ出すことになるわけです。
よって、「同一性」の判断評価は「分別」によってこそ、
評価による確認の可能性、つまり、何が同一性かという解答にたどりつくことになります。
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2月 22nd, 2011 Posted 12:00 AM
同一性の確認、その評価軸
同一性の確認は極めて哲学的です。
同一性って何、ということが不明過ぎます。
もっとも単純に考えれば、「違いがなくて同一」ということ。
同一かどうかは、その本質との差異性の判断につながっています。
最近では、すっかり「性同一性症候群」ということが、
社会的に公認、認知されてきました。
こうした人たちがTVタレントとしての活躍ぶりも現代的な風潮になりました。
本来、性が男か女かは、「見た目・外観」で決定づけられていました。
男という性で生まれながら、脳自体とその思考は女性だったということや、
あるいは、その反対がこの症候群という医学的な定義となり社会的に公認されたことです。
「性同一性症候群」に、「同一性」ということの基本的な認識原則がある事例になるでしょう。
つまり、企業の顔・外観、商品の顔・外観という具合に、
その外見と内実が同一であるかどうかという社会的評価、
それが「同一視」されているかどうかということです。
そこで、「同一性」・対・「差異性」が問われることになります。
ところが、この差異性の判断は、三つの見方があります。
● 差 別
● 区 別
● 分 別
この三つの評価基準で最も低次元な判断が「差別」に他ならないということです。
あらためて、この三つの価値基準軸から「同一性」、
そしてデザイン表現での基軸を見つめ直したいと思います。
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2月 21st, 2011 Posted 12:00 AM
商材の差別化という常套性
企業の商材である商品には特徴と特長が必要。
その商品とはモノ=物質等やコト=サービス等です。
そして、その商材を経営対象としている企業は、
当然、商材の特徴と特長を「差別化」すると言います。
この言い方・表現はすでに常識的な企業内会話です。
そして、この「差別化」のためにデザインが利用されています。
しかし、商品特徴や商品特長を「差別化」することは、デザインの本質ではありません。
むしろ、商品の差別化というのは、購買者を差別化することになっています。
人間の暴力性は「無知」と「差別」であり商品の差別化とは暴力性だということも可能です。
その購買者向けへの特質=(特徴と特長)、
そのものの差異性や差異性をモノ・コトに語らせようということにはつながっていません。
おそらく、購買という欲望は、マルクス的には所有欲と使用欲に他なりませんが、
現代、この構図はまったく変貌しています。
欲望の刺激装置
労働対価内での購買行動からは外れているということです。
それは、本来なら労働対価による可処分所得内での「買う」という構図が変質したことです。
それは、労働対価を信託化=クレジット化できる金融構造があり、
人々の購買欲望が操作されているということです。
しかも、この操作は広告や広報というこれにもデザインは見事に荷担している情報操作であり、
この欲望の刺激装置化に「差別化」が仕込まれているということです。
しかし、デザインは「差別化」を創出する機構ではありません。
デザインが企業・商材・商品に装置化するのは「同一性」です。
企業存在を具現化している商材とその商材環境の同一性を、
すべからく確認を購買者に訴求することということで、同一性と差別性はまったく異次元であり、
ことばの体系下においても論理性を欠いていることを記しておきます。
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12月 13th, 2010 Posted 12:00 AM
アレオパジェシカ・表現の自由
「アレオパジェシカ」から見直します。
1644年に英国の詩人のパンフレットでした。
詩人・ミルトンのこの指摘は現代にまで
「人権」を語る重大な発言として世界基準で支えてきました。
それはある種当時の権力=検閲への怒りそのまま「表現の自由」を激しく求めたことでした。
「表現の自由」というのは、まさしく「人権」の具現です。
しかし時に、私はなんでもかんでも、特に偏重したマスコミがこの「権利」を振りかざされると、
何ともイヤな気分におそわれます。
何かというと「表現の自由」となるわけですが、
私は、この「表現の自由」には表現する側に尽くすべき義務があると思います。
それは、人間の営為である「表現する」という権利は自然権ですが、
その自由さは当然として社会的な倫理観に照合された美学性が必要だと思っています。
アレオパゴス・倫理観
ミルトンは、ピューリタン革命時に絶対王政によって検閲されることへの怒りを、
古代アテナイに存在していた裁判所・アレオパゴスから名辞されていると言われています。
つまり、この裁判所での決定事項には、
当然のこととして人間としての倫理観が徹底されていました。
それだけに「表現」は人間の自由権利だから、
すべてが許されているという、特に、マスコミの偏重思想団体や、
宗教法人として納税もしないようなところからの表現発言には異を唱えたいと考えます。
ミルトンに限らず、ロック、ボルテール、さらにはガリレオまで、
学問的な真理を守ろうとしたことも「表現の自由」につながっています。
キリスト教・反ベクトル
私は、この背景にはキリスト教の根底にある懸念、
すなわち相反する矛盾が見え隠れしていると思えてなりません。
「自由」には「拘束(検閲)」という反ベクトルが働きます。
「平等」には「差別」という反ベクトル、
「愛」には「暴力」が反ベクトルです。
したがって、私も「表現者=デザイナー」ですから、
「デザイン表現は自由」であるべきという基本権は十二分に理解できますが、表現者であるまえに、社会的な存在者としての社会的な義務を十二分に果たしているかが問われるべきでしょう。
「表現」に明らかな拘束性、差別性、そして暴力性が感じ取れることは、
「表現の自由」の大勘違いだと指摘しておきます。
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